遅すぎた自覚
翌日、テスフィアは軍が管轄する国立病院――または軍御用達として軍病院と呼ばれたりもする――を訪れていた。工業区フォールンの郊外にある病院は比較的重傷者が運ばれる場所とされている。
魔法師の場合、基本的な治療は軍本部で完備されている軍医に診てもらうことになっておりそこで治療が施される。実際それなりの治療も受けられるため、外傷ならばだいたいが本部に運ばれる。
無論、治療を受けるにも優先的な権利を有している軍関係者か、その親族に限られるのだが。そういう意味でも国の守りを担う魔法師には高待遇が約束されている。
これらに該当しない場合は町医者で治療を受けるということになるのだが、決して技術で劣るものではない。寧ろ緊急事態には国から治癒魔法師を徴集することもありえた。
国立病院まではまず普段通ることはない。というのも学院の置かれるベリーツァからフォールンまでは転移門を経由するため、中間に位置する病院には用がなければ立ち寄る必要がないのだ。
細分化された分野によって棟が分けられる医療機関で、テスフィアは清楚な服装に身を包み、少しヒールの高い靴で静かな足音を廊下に響かせていた。
その手に持つのは花束、白い、純白の花束だった。
彼女がここに赴いたのは誰に指示されたわけでもなく、彼女が決断したことだった。あの時のように恐怖からくる震えはない、花束を握る手はしっかりと両手で支えられている。誰に頼まれたとしてもテスフィアがここへ訪れた原動力にはならない――理由にはならない。彼女自身が必要であると感じたからこそ彼女は、この場にいるのだ。
もう彼に対する感情は何もない。ただあるのはどんな奴であれ病人であり、多くの死を身近で見てしまったという少し前の自分と同じもの。
だからこそ頭と心が乖離するような虚無感をわかってしまう。彼女はフェーヴェル家の体裁を整えるためと、単純な哀悼のため赴いている。無論、それは表面上であって本心でいえばテスフィアは以前の自分と決別するためでもあった。少し前の弱い自分を捨てるケジメとして彼と再び相見える必要を感じたのだ。
先程受付で聞いた番号の病室でテスフィアは足を止めた。受付の女性はあまり良い顔をしなかったが、三大貴族の前に折れるしかなかったようだ。もしかすると事前に手を回していてくれたのかもしれない。
高貴な家名だけに一室まるごとが彼の治療のために誂えたもののようだった。
【面会謝絶】のプレートもテスフィアは無視して扉に手をかける。が、中で人の声が聞こえ先客に遠慮して少しの間待とうとした。しかし、今まさに退出しようとする挨拶の声にテスフィアは慣れない靴にあたふたしながら半歩ずれた。
すると中から軍服姿の男が二人。
片方はアルファの軍服。そしてもう片方は――。
――ルサールカの……。
男はテスフィアを見ると不審な表情を作るが、アルファ軍人の男が耳打ちしたことによって二人とテスフィアは軽い会釈だけを交わしてすれ違った。
今の彼女は個人としてではなくフェーヴェル家のテスフィアとしてきている。
彼もフェーヴェル家の名前を知っていたということなのだろう。
軍関係者がこの病室に訪れる理由とは……おそらく今回の火災が事故ではなく事件の可能性が高いからだろう。しかし、ならばルサールカの軍人が同伴する理由がわからない。
アルスが関わったテンブラムだけに、その直後に起こった火災については嫌な予感はしていた。しかし、テスフィアは一旦頭の片隅に留めて中へと足を踏み入れる。考えても不吉なことだけが過るばかりで自分にできることの少なさを理解しているからだ。
それでも完全に払拭することができないのはやはりアルスに関係しているからなのだろう。
外様の奥――採光を室内に注がせる窓の奥では定形の雲が流れ、隙間に覗く青い空に視線を固定しているのは見違えるほど生気を感じさせない表情だった。やつれたばかりではなく煤けているように見えるのは亡くしたものの大きさを知ってからか。
腰を曲げられる角度に上がったベッドで顔だけを横に向けているアイルは顔以外の全てに包帯を巻いている。巻かれた包帯の隙間から辛うじて指先の爛れた痕の肌が覗く。治療途中だろうその色は回復に向かっているようだった。やはり火傷の類は自然治癒するにも時間を要するほうが痕を残さない。
顔を向けずにアイルは視線だけをこちらに移す。その虚ろな視線は視線と呼べるだけの感情を含んでいないかのようだ。
「誰だ…………何しに来た」
「…………」
枯れた喉が怒気すら含ませない声を発した。面会謝絶であろうと今の彼には何も湧き上がるものがないのだろう。
だが、それも相手がテスフィアであるとわかると少しだけ声に自嘲が混じる。
「笑いに来たのか……なら満足しただろ。僕は全てを失った」
無言でテスフィアは病室の中を歩き、傍までいく。弱り切った彼にかける言葉など何もないし、用意するつもりもなかった。
ただ亡くなった者へ、悼み悲しみの言葉だけが今は込み上げてくる。病室独特の嗅ぎ慣れない匂いがそうさせているのだろうか。
花束を開き、花瓶に入れる。まだ誰もここにお見舞いには来ていないようだった。病人とはいえ、あまりに物がない病室。彼が歩んだ道がこの病室を物語っているようだ。
無言で花瓶に水を差すテスフィアにアイルは苛立たしくキィッと睨みつけた。それはこの瞬間まで溜め込んだかのように堰を切る。
「僕が馬鹿だった……そのツケがみんなを殺した。僕が殺したようなものだ!!」
「そう、惜しい人を失くしたわ」
弔意を表すテスフィアは淡々と告げた。少なからず彼の言っていることは正しいからだ。
しかし。
「自分を責めたければいくらでもそうするといいわ。それでみんなが少しでも浮かばれると本気で思うならそうすればいい。シルシラさんは……?」
「馬鹿な従者だよ。僕なんかを助けるために一生を捧げて命を捨てるなんて。無駄な人生だったよ」
無理に笑うアイルは嘲笑するかのように言ってのけたが。
「何か助けが必要な時は言いなさい。フェーヴェル家が手を貸す」
「ふざけるな、同情のつもりかッ!!」
「えぇ、同情のつもりよ。あなたじゃなくてシルシラさんにね」
「……ッ! なんでシルシラは僕を……馬鹿げたことを……」
直後、テスフィアはベッドが軋むほどアイルの胸ぐらを力の限り引き寄せた。怒りに震える表情が決河の如き言葉を吐き出させる。
「本当にわからないのっ!! あなたなんかのために我が身も顧みず、逃がしたことが!! 本当にわからないの……」
テスフィアの目元にも涙が浮かぶ。これが単なる言葉の上だけのやり取りであることを彼女は知っている。それでも、言葉の上だけでも知らない、気づかないふりをする彼に我慢の限界だったのだ。
だって、アイルは罵倒する間中、ずっと涙を流していたのだから。
室内に取り付けられた医療器具が外れたのか、一定のリズムを刻んでいた音が変化し、単調な音を室内に虚しく鳴り響かせた。
「ふざけているのは、どっちよ……」
「…………」
弱々しく放された手。その込められた力を示すように患者衣の胸元がくっきりと皺を作っている。
呆然と見つめるアイルはただ「……シル、シラ」と口を吐いていた。
涙はポタポタと頬を伝いシーツを濡らす。
彼女だけは違った。それが失くなって初めてわかった。彼女だけはいつも本心から自分を想ってくれていた。思えばアイル自身、彼女に無茶をさせないようにしていたのだ。
自分のしてきたツケはあまりにも大きな後悔へと変わって降りかかってきた。どうしてこんなことに……など考える暇すらない。
大事であることを彼が自覚するのがあまりにも遅すぎたのだ。彼女はいつだって気づかせてくれようとしていた。それを従者と一線を引いて見ないふりをしてきたのだ。
あの時、あの業火に包まれた時に何故自分は彼女を逃がすために全力を注げなかったのか。何故彼女に自分を助けることを許してしまったのか。
そんなわかりきったことを悔やみながら悲嘆にくれた。
アイルがそう接してきたからだ。自分の感情に蓋をしてきたからだ。だからこそ今になって胸が痛み始める。
嗚咽を漏らし肩を震わせるアイルをそのままに去ろうとしたテスフィアは一番聞きたかったことを飲み込んだ。
それは不意に呟かれた。決して恨みから来る言葉でないのは彼が自分を一番に愚かだと理解していたからだだろう。
「あいつが全てを壊した……父も使用人も……」
「…………」
屋敷を燃やす尽くし、従者を一人も残さず無残に殺害し、当主モロテオンを殺した張本人。アイルは自分の無能さをこれほど恨んだことはない。手に余る余らないという話ではなかったのだ。最初から彼の目的は強い魔法師と戦い殺すこと、その目的はアイルの目指す道のりと被っていた。だからこそ彼は仕えていたのだ。
しかし、テンブラムでの敗北でアイルの中で目標に変化が起きていた。それを察したオルネウスは早々に見切りを付けたのだ。いや、もしかすると彼はごっこ遊びに飽きたのかもしれない。
先ほど訪れた軍人にも同じことを聞かれたが、今改めて口にすると何故自分を殺してくれなかったとさえ思える。恨みを吐き出すとすればそれぐらいだろう。どうしてシルシラと一緒に自分も、と。
彼女がいない世界で何を目指せばいいのか、何もしなくてもいい、彼女さえいてくれれば……日常が脳裏にフラッシュバックする――ありふれた光景が有限であることを彼は知った。金や権力とは無縁の景色が何よりも価値あるものだと。
シルシラが紅茶についてのご高説を苦笑いを浮かべて聞く自分。それでもどこかホッとするありきたりな空気が今になって愛おしく思えて……それが何より苦しい。
結局、目標などと掲げていた理想は彼女がいて成立していることにようやく気付かされた。アイルの思い描く幻想は決して一人ではなかったはずだ。
一度立ち止まったが、テスフィアは何も声を掛けず病室を出る。扉が閉まる僅かな隙間を振り返ってみた彼の顔は以前のように仮面を被った偽りの表情ではなく実に人間らしい顔をしていた。
変わるきっかけがこんなことでなければもっとよかったのだろうが。
扉を後ろ手に閉めると、はぁ~と深い溜息を吐く。ついつい感情的になってしまったが今になって思えば傷心な相手にする態度ではない。
だからこそ歩き始めてすぐに確認の言葉を発した。
「本当によかったんですか?」
「ありがとうございます。こんなことを頼める義理ではないと承知しておりますが、お引受けくださったこと感謝します」
車椅子の上でひどく弱った顔を向ける女性。しかし、その表情は怪我ほどには弱り切っていなかった。
検査着の上からでもわかる痛々しい姿。
片袖は何も通していなかった。あるはずの腕がないにも関わらず、その女性は幸福感を頬に湛えて朗らかに微笑んでいた。
魔力を動力源にする車椅子ではあるのだが、テスフィアは申し出た。
「押しましょうか?」
「よろしくお願いします。もう少しだけ時間を空けたいと思っていたところでしたので」
「そこまで想っているのですね。あいつには勿体無いほどです」
「…………はい。今回の一件は私の不徳でもあります。彼一人に背負わせることはできません。ですが、変わる必要があるんです。私も彼も……」
体重を感じさせないスムーズな車輪の動きのはずが、テスフィアには言葉の分だけ重く感じた。
あまりにも重たい代償だ。
こうなってしまった原因は彼の環境と同時に、彼女自身にもあると告げているようで、相槌を打つのでさえ精一杯。
重たい言葉だった。
もうウームリュイナ家が表舞台に出てくることはないだろう。それでも彼の人生が続く限りこのままではダメだと決意した、その行動がこれだ。
皮肉なものだ、死ななければ気づけないなんて、いや、気付けただけよかったのだろう。
大事だと思ったものが本当に大事だと気づくのはいつだって失った後なのだから。
テスフィアは彼女が少しだけ哀れで、少しだけ羨ましかった。だからどこか仲良くなれそうな気がしたが。
「こんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが」
「はい?」
「実はすごく良いハーブを見つけまして、ずっと淹れてみたかったんですけど機会が中々なくて……テスフィア様、少しお付き合いいただけますか?」
「シルシラさん……病み上がりですよ、ね?」
「はい……」
顔を向ける彼女の表情は晴れ晴れとしている一方で懸念もあったのだろう。それを紛らわすための隠れ蓑に使ったのかもしれない。
だから、テスフィアは呆れながら応じてしまうのであった。