慟哭の幕開け
◇ ◇ ◇
暗く陰鬱とした室内。広い屋敷内には使用人を含めても数人しか存在しない。黄昏時に近づき夜の帳が降り始める。それでも室内は明かりを灯すことがなく、静けさが濃い影を落とす。
異様な匂いが鼻を麻痺させていた。
室内は荒れた様子もなくまるでここで働く多くの人々が集団失踪したような様相である。
ここで働く使用人の数、警備の数、その総数は100近いと言われているが、今は窓から眺めたとしても人影は見つからないだろう。
比較的バベルに近いこの屋敷は相応の地位に相応しい者しか住むことが許されない。いや、ここはすでに代々住める人間を定めていた。
北のハイドランジ、その元首邸宅は物悲しい程の薄気味悪さを漂わせていた。
一人、豪奢な椅子の上に足を組んで座る人物。微動だにせず沈みゆく夕日を浴びゆっくりと姿形を暗色に落としていく。
誰に発したのか、そんな彼の後ろから眼鏡を外した男は用済みだとばかりにその眼鏡を投げ捨て、揚々と口を開く。
「中々いい感じだったじゃないか」
「私一人を悪者にするなんてあなたという人は……」
「しょうがないだろ。僕はあくまでも相反する立場にあるんだ」
衣装部屋から出てきた男は帯を締めながらしかめっ面を向けてきた。この場には三人だけが居、言葉を発しているのは二人だけだった。
「まさかリーダーとは、道化にも過ぎますね」
「名演技だったよ。それにしてもどうして彼らは学習しないのかホトホト期待を裏切らない。それ似合っているよメクフィス……いやラフセナル様」
「ご冗談を、こんな愚物を取り込むのは私の一生の汚点です」
そう発したメクフィスの外見はラフセナルそのものであり、彼になりきるために着替えた無駄に重たい服装は用が済めばすぐに脱ぎたいと思わせる。
メクフィスが衣装部屋の扉を締めるとともに、振動が伝わり椅子に座っていた男の首がゴロンと床に落ちた。どこに転がるかわからない頭部、それがこちらを向いて止まる。見開かれた目はつい先日まで元首会合にいたラフセナルであった。
「さっさと処分してくださいよ」
「僕はこれでも彼は嫌いではなかったよ。実に扱いやすいしね。ただやはり新しい世界にいるかと訊かれると僕は迷うことなく首を振るね。だから……」
嗜虐的な光を暗闇の中で浮かべたのはクロケルであった。彼の瞳はエメラルドのような澄んだ色を湛えており、内部に刻まれる模様とも文字とも取れる羅列が微かに見えた。それが情という感情を見る者に与えない、きっと何も思わないし、何も感じない。そんな眼だった。
クロケルは口元に無垢な微笑を湛えて右手を軽く開閉させて、ググッと握り拳を作りはじめた。
すると転がったそれとともに座っていた身体がバキバキと不穏な音を室内に響かせて圧縮されていく。床に滝のように絞られる血液。
数秒後にはゴトンと残りかすとなった球体が二つ転がった。
「はい、掃除終了」
「いや、ビシャビシャですって」
「まあいいじゃないか。彼が存在したというせめてもの情けだよ。残りカスだけど。そんなことよりも」
「こちらは大丈夫でしょう。すでに全隊に通達が行っているはずです。新総督の任命も」
「いいね。実にいい。この世界は屑が増えすぎたからね。もう限界だよ、早くしなければ、そう、早くしない、と」
そうポツリと呟いたクロケルにメクフィスは疑問を呈した。ここに来て急ぐ必要など何もない。誰も邪魔のしようがないのだから――すでに遅いのだから。
「早く……」
「何がですか?」
問うメクフィスに向かってクロケルはポカンと考えこむ。即座に出てこない。まるで言ったことに対しての記憶がないように。
「あれ? 何を急ぐんだっけ?」
「私に訊かれましても」
「ここまで来たのに、何もないはずなんだけど……」
小首を傾げるクロケルにメクフィスは冗談混じりにため息を溢す。確かにこれ以上彼の崇高な目標を妨げる輩が増えるのは面白くない。
それは確かだ。そう理由を付けてもやはり違和感はあったが、ここにきてそれを議論する意味はないのだろう。
「まあいいや。そろそろだ」
「着いたようですね」
邸宅の部屋から外を覗くとぞろぞろと見覚えのある全身を黒いローブに身を包んだ集団が闇に紛れて姿を現す。ざっと見ても50人はいるだろう。これでも少ないのだが、実際連れて行くにしてもあまり役に立たないのだ。
だから、室内の隅に新たに現れた人物に対してクロケルは。
「こっちは任せたよ。適当に遊んでおいで」
「承った」
それだけを答えて男だろう精悍な印象を与える声の主は沈黙する。
役者が揃った。俯瞰した先頭に出てきた褐色の巨漢が最後に到着し、野獣のようなギラつく視線が待てないとばかりにこちらを見上げる。
「全員揃ったね。じゃあ、行こうか。今度はこちらが狩る番だ……待っていてすぐに終わるから」
髪を掻き上げ双眸を露わにしたクロケルの視線は遥か遠く、外界へと向けられていた。最後に発せられた言葉は誰にも聞かれることのない小声であり、それは本人も自覚して発せられたわけではなかった。
そして二階にある部屋のテラスへと出て、クロケルとメクフィスは無数の視線を浴びながら揚々と飛び降りた。左右に割れる列。
「合法的に暴れられるってか」
一歩の歩幅で傍まで寄る大男、ハザンが傷だらけの腕で自分の首を擦る。「久しぶりにヒリヒリする死合ができそうだ」と息巻く。
「あれを忘れていないだろうね」
「おうよ。一応言われた通り使い方は覚えたがよう。どうなるってんだ」
「それは使ってみてからのお楽しみだよ」
ハザンは腰に差しているのかローブの上から岩のような手で押さえる。その扱いの酷さにクロケルの後ろを歩くメクフィスが眉を顰めて警告する。
「一応、最硬質の容器ですけど、乱暴に扱えば割れますよ」
「そりゃ済まなかったな。どうも抑えが利かなくなってきてよ。数日はウズウズしてんだこっちは」
「困りましたね」
「大丈夫だよ。もうすぐだから」
クロケルはニィッと口を歪める。中央まで進んで足を止めた。見渡さなくても感じ取れる、この荒くれどもの狂気じみた視線。
そして幕開けの合図を口にする。
「この欺瞞だらけの偽りの世界を作り変える。そのための第一歩として討とう、化物狩りだ。闇が反転するぞ。ここから初めようか…………浄化を」
眇められた視線は遠くを見ているようで外界とを隔てる防護壁に据えられていた。