愛する連鎖
心臓に手を添えて再確認するまでもない意志を貫くために大きく深呼吸した。
これから望む懇願に際して選ぶ言葉は試験勉強のように用意することなどできない発露だ。
正直な気持ち、それでも受け入れらないだろう現実が縛り付ける身分にあることは確かだった。
軽快なノックを鳴らし、フェリネラは自宅にあるヴィザイストの書斎を訪れた。入室の許可がおり、扉を開ける。
「お父様、御加減はいかがですか?」
「あぁ、大したことはない。少しばかり傷口が開いたが今はだいぶ良くなった」
シャツを羽織る際に腰に巻かれた純白の包帯が巻かれているが、二度目のためなのか以前よりもだいぶ厚く巻かれていた。
「あまり無茶をしますと、また治癒魔法師たちのお手を煩わせてしまいますよ。というかいい加減叱られてもよさそうですけど」
フェリネラはヴィザイストの傷口が開いた原因を知らない。アルスがモルウェールドを殺そうとしたために気張りすぎてしまったが、それは彼女が知らなくてもいいことだ。
心配させまいと強がってみせるが、事態は彼の傷口以上に差し迫っている。シセルニアやベリックが帰還すれば更に忙しくなるだろう。
総督の右腕としてヴィザイスト自身、動かなければならないと覚悟を決めていた。
そういう意味でも数日は帰らないことを伝えに一度帰宅したのだ。
一本連絡で済ませるにしては最近死にかけたばかりだ。今回も助かるとは限らなかった。だからこそ直に愛する妻と娘を目に焼き付けるためなのだろう。
しかし、フェリネラがこうして書斎を訪れるのは決まって何かをねだりにくる時だ。最近、そんなことがあったせいか彼女の微妙な表情の変化をヴィザイストは察していた。
何年見てきたと思っているのか、成長を誰よりも身近で支えてきたのだ。
だから、自分から促そうとせず、口火を切られるのをじっと待つことにした。早々に部屋を出て行きたい不吉な衝動を堪える。きっと成長とは親を喜ばせると同時に不安をも与えてくれるものなのだろう。
ならばデンと構えて真正面から向き合うべきなのだ。少しだけシャツのボタンを止める手がぎこちないのは仕方のない事だった。
静寂を割くようにフェリネラは「お父様……」と意を決した声を出す。
「ん? どうかしたかフェリネラ」
まさにヴィザイストの心境は「きたか!」というものであった。
「今日はお願いがあります」
姿勢を正すフェリネラは娘として一線を画する仰々しさを伺わせる。
だから、惚けるような真似はせずに穏やかな声で問う。
「言ってみなさい」
「はい……お父様、私も同行させていただけないでしょうか」
「…………」
薄々予想していただけに頭ごなしにでもすぐに却下しなければならなかったのだろう。だが、並々ならぬその表情を見てヴィザイストはでかかった声を呑み、喉を鳴らした。
こういうところが妻に良く似ていると。
だから――。
――遺伝なのだろうな。頑としてきかないのは。
それ故に自分が籠絡された過去を持つヴィザイストは居心地が悪い。そういえば妻も随分と無茶をした。
今でこそ良き母として家を守ってくれているが、当時はヴィザイストを追いかけて我が身を省みない行動にほとほと手を焼かされもした。
いつしか、そんな妻の虜となっていたのだから、愛とはわからないものだ。
そして娘の無謀な行動を諌めるのもまた愛なのだろう。
今のアルスの立場は非常に危うい。それがわかっているから居ても立ってもいられない。
その気持ちはわからないでもなかった。
だが、「俺が必ず疑いを晴らしてやる」と言ったところで大した効力はないのかもしれない。
それでも一人の父としてヴィザイストは許可することはできなかった。
「ダメだ! 今回ばかりは俺とて先が見えん。アルスのことを諦めろとは言わん。だから俺に任せてくれ。あいつは俺に取っても馬鹿な息子であることには変わらない」
そっとフェリネラの肩に手を置く。
きっと自分に言い聞かせるためだったのだろう。何せ自分の娘だ、わかってしまう。
こんな顔をするのは初めてなのだから。
「な、フェリネラ……今回ばかりは聞き分けてくれ」
儚く細められる目は肩に乗る分厚い手を厭わしげに見ている。それは尊敬する父への親愛の眼差しであり、同時に傷の多い身体を慮るものだった。
フェリネラはそっと手を取り、両手で包み込む。
労るような優しさがあり、それでいて……力強い意志を感じさせる。
「お父様、私は強くありたいと願い続け、努力を怠ったことはありません」
「…………」
傍で見てきたからこそ、ヴィザイストは内心で大きく頷いた。
――あぁ、知っている。お前は自慢の娘だ。目に入れても痛くなどないほどにな。
「お父様、私が頑張れる機会をどうか奪わないでください。後悔だけはしたくないのです。私はお父様にも誉められる娘でありたいのです。私が私を責めることを許さないでください」
ズキリと胸が痛むのをヴィザイストは感じた。親離れとはいつも唐突だ。子の成長を実感する時はいつだって予想を超えてくる。
しかし、戦場に娘を喜んで送り出す親がどこの世界にいるのか。
いや、こんな世界ではそれも異端と捉えられるのだろうか……そんなはずはない。娘を持って初めて気がつける感情。
「なんでも構いません。雑用でも、なんでも……」
「はぁ、わかった」
実際問題、ヴィザイストの部隊、というよりも使える魔法師は少なく、猫の手も借りたいほどだ。そんな言い訳にもならない理由で許可してしまう自分は決断の良し悪しがわからなくなっているのだろう。
ならば結果が全てだ。
「だが、俺の補佐として働いてもらう。わかったな」
「――!! ありがとうございますお父様ッ!!」
「うぉ!?」
抱き着いてくる我が娘につくづく甘い親の姿がここにあった。言葉ほどの軽さはなく、覚悟ほど複雑なものでもない。
ただ子供だと思っていた娘が少しだけ大人になっただけなのだから。
腰に回された腕と自分に辟易しながらヴィザイストはため息を吐いた。
「いったい誰に似たんだろうな」
わかりきったことだ。こんな強情で一途なのはきっと妻に、そして……。
クスリと口元に手を当てたフェリネラは断言する。
「それはもうお父様しかおりません」
「……そう、か」
この後、ヴィザイストは妻に対して説得の言葉を重ねるのだった。自分が必ず守ると誓い、二人が無事帰ってくると約束を交わす。
改めて自分の決断を覆すことはしなかったが、現実的な異常さに若干顔を顰めるのであった。何よりもフェリネラにも自分同様の探知が可能なのだから任務の成功率は上がる。複雑な気持ちを抱きつつ、ヴィザイストの中で一つだけ確実な決意が生まれていた。
◇ ◇ ◇
異様過ぎる協議から数時間後。今頃各国元首は内密に部隊を集め、出動に備えているだろう。疲弊したアルスかクラマを抹殺するために。
それはシセルニアも同じだ。しかし、それは表向きであり、実際は他にすべきことがある。いかにしてアルスの疑いを晴らすか。
だが、それについてもシセルニアは一つの収穫を得ていた。そういう意味でもあの馬鹿げた聴聞は意味があったのだろう。
誰もビクビクと怯えて意図せず保身に走る。本質を見失った連中の瞳には逆賊であるアルスの排除しか映っていない。
もっともルサールカが情報を漏らしてくれれば状況は変わったのだろうが、今はそこまで思考を飛ばして憶測を立てる時間も惜しい。さりとて、無視するには核心に近い情報を握っている気がした
何よりアルスが言い残した「時間次第」という言葉がこれほど忌々しい未来予知となった現実に頬が痙攣しそうになる。だが、それは同時に先を予想するシセルニアに重大な情報をもたらす。
アルスはルサールカが握る情報について大凡の見当をつけていたということだ。
だからこそシセルニアは嫌々ながらコンタクトを取る必要性を感じた。背に腹は代えられない。
――そのためにもやはり手ぶらではまずいわよね。
情報の共有、共闘についてはお互いのメリットが存在しなければならない。一先ず、ルサールカは確実にアルスを犯人とは思っていない。
とすれば向こうからコンタクトを取ってきそうなものだが、あの雰囲気は独断での行動を示唆しているようなものだ。
だから、向こうから連絡があるとは考えづらい。どちらにせよシセルニアはルサールカの握る情報を把握しておかなければならなかった。
アルスの疑いを晴らすという意味では一つも残さず回収しなければならない。
その情報を引き出すためにもシセルニアは覚悟を決めて御者台に座るリンネにこう告げた。
「このまま宮殿に向かってちょうだい」
「了解しました」
この中には当然、ベリックも含まれている。彼は途中から下車して本部に詰めておく必要があるだろう。しかし、シセルニアはそれを許さなかった。
なお、レティは転移門前の部隊を引き連れて護衛のため並走している。
「リンネ、これから大事な話をするわ」
「畏まりました」
そう返すと即座にリンネは魔眼によって周囲を洗う。安全であること告げると彼女も小窓を閉める。
「ベリック、あなたも気づいたのではなくて?」
「……アルスの生い立ちですか」
そう、あの時点からシセルニアの様子がおかしいのはベリックも薄々感づいていた。とは言ってもその後に彼女が必要な場面で言葉を発さなかったため怪訝に思った程度だが。
「えぇ、私も馬鹿だったわ。いえ、疑問にも思わなかった」
「これは私の落ち度です。せめてシセルニア様には打ち明けておくべきことでした」
「今更言っても仕方ないわ。けれども悪いことばかりじゃないわ。寧ろこの際ありがたくもあるのよ」
「と、言いますと?」
「ベリック、あなたアールゼイト家の宝物庫は入ったことがあって?」
一部ではそんな噂が蔓延している。目が眩むほどの財が地下に眠っていると。
だが、その存在についてはベリックは知っていた。当然場所もわからないが、彼女が政策のために身銭を削ることも少なからずあったためだ。
ベリックは「いえ」と首を横に振る。広大な宮殿の間取りは一応記憶しているため、おそらく地下にあるのだろうとは予想していたが。
「そうね、あなたには全てを話さなければならないわね。墓まで持っていく覚悟をしてもらうことになるわ」
「老い先長くない身ですから異論はございません」
真に迫る目をベリックは喉を鳴らして真正面から受け止める。今更だ、その程度で済むならば何も迷う必要などなかった。
そしてシセルニアは語り出す。口に出すのは初めてのことだ。できれば彼女が闇に葬りたい秘密である。
もうそんなことすら不可能であることをシセルニアは自覚していた。
あの時、アルスを抹殺する方針に乗れば結果は変わったはずだ。アールゼイト家の背負う罪は遥か地下で深い眠りを妨げることなくこのままであり続けられた。
だが、シセルニアは覚悟を決めていた。隠し続けることの限界と、現実の限界を。
彼女には人類の行末を左右する決定を示すことがでない。いや、それは先代、父も同じだったのだろう。誰一人手を付けずにいたのだから。
意を決して口を開いた第一声は。
「バベルの効力が減衰している原因は……」