沸き起こる気配は
◇ ◇ ◇
数時間ほど時間は遡る。
雁首を揃えた元首らを視界に収め、なみなみならぬ緊迫した空気が周囲を取り巻く。
たった今もたらされた一つの決定事項。半ばやむを得ない選択を強要されたようなものだった。アルスを相手にシングル魔法師を総動員するという方策を立てたまでは。
だが、予想していたように挙がる最大の懸念材料。
外界といおう未知の領域においてアルスを見失った場合、各国はシングル魔法師を欠いた状態で迎撃しなくてはならない。迎撃などという建前がただの装飾にすらならないことは誰もが理解していた。
ヒスピダを殺害し、ルサールカに壊滅的打撃を与えた強力な魔法。あれを自国で放たれれば……考えたくもない結論は無抵抗の内に済まされてしまうだろう。
今までもまったくの懸念材料がなかったわけではないが、今回に限ってはすでにルサールカの惨状はあまりにも悲劇的過ぎてしまったのだ。脳裏に焼き付かれてしまったのだ。
だからこそ、ラフセナルの提案に誰も有効的な反論を紡げずにいた。その結果、暗黙の合意がなされるのは仕方がなかった。
ただ一人、それが偶然でないことを知るものがこの場にいたとしても何も変わらない。
なんせ、彼には今も腹の底で居座る晴れることのないドス黒い感情が蟠っているのだから。
それは目の前の彼女も同じであろう。必死に動じないよう自制に神経を注がせる元首がキュッと口を結んで不本意を堪えている。
ここでルサールカのみは決定的に他国とは相反する思惑を描いていた。これは多分に私情が挟んだ身勝手な行動なのだろう。
ジャンは自分を自嘲すると同時にリチアに厳しい選択を迫ってしまったことへの後悔が少しだけ湧き上がった。だが、彼女の立場を利用してしまう形になってしまったが、リチアは少しだけ悲しそうな表情を浮かべて凛々しく命じた。
「ジャン・ルンブルズ。ルサールカ元首、リチア・トゥーフ・インフラッタが命じます。共にヒスピダさんの無念を晴らしましょう」
こんな身勝手な進言を彼女は許してくれた。元首という立場ではシングル魔法師であるジャンに勅命を下すことはできない。それでもジャンは片膝を突き深々と感謝の言葉を胸に深く刻みながら「拝命謹んで承りました」と一言に全てを込めた。
全ての始まりはジャンがヒスピダ殺害現場に赴いた時だ。
その光景は検分できないほどに悲惨なものがあった。自然に抱かれるように横たわり、安らかな顔をしているヒスピダ。
口から顎下までを固まった血液で覆われ、ぐったりと力なく腕は垂れ下がる。
彼女の死が少なくとも苦しむものでなかったのを祈りながらジャンは周囲に視線を巡らせた。ここら一帯には部下を総動員して痕跡を調査させていた。それも外界では多く時間は取れないだろう。
しかし、わかったことがいくつかある。
一度だけジャンはヒスピダのAWRの中の魔法を聞いたことがある。それはひょんなことから知った禁忌魔法のためだ。だが、ヒスピダはいつものような飄々な笑みを消して真顔で答えたのだ。
その魔法はたった一度しか使えず、使う相手もすでに決まっていると。それが【絶界反引】である。
おそらくそのために使われたであろう分厚い用紙が三枚見つかった――用済みとばかりに飛び散った赤い斑点を不揃いに染み込ませて。
この場にこれがあるというのに、肝心のAWRだけが見つからなかった。
連絡を受け、ジャンより早く到着した部隊は彼らが到着するまでに二人の魔法師であろう魔力反応をギリギリ探知していた。この惨状に追うことまではできなかったようだが。
ジャンはその二人とはおそらくアルスとロキであろうと推測した。
彼らが調査を混乱させるためにAWRを持ちだしたと考えるのは不自然過ぎる。ジャンだからこそ犯人でないとわかるからいいようなものを。
アルスから頼まれたことを思い出してジャンは巨木の幹を殴りつけた。メキメキと埋め込まれた拳は盛大に揺らして葉を落とさせた。
「どうして言ってくれなかったアルス!」
額を押さえ歯の隙間から漏れた後悔の言葉。いや、言っても始まらない。アルスがここまで想定していたならば動かないはずがないのだから。
それにヒスピダには成し遂げなければならない復讐があったのだ。それはジャンであろうと止めることができないもの。
この光景が後悔を想起させる。
――あの時と同じ……。
自責の念に駆られるのもヒスピダはジャンより長くルサールカを支えてきた。だから二人目のシングル魔法師に選ばれた時、ルサールカの双翼などと呼ばれたが、ジャンはできるだけヒスピダを楽させてやりたいという一心で外界へと頻繁に出た。
商人として知名度が高まる彼女は市井でも一躍有名人だ。いつしか心の傷も癒やされるのではないかと思っていたが……。
ジャンはヒスピダの自宅を訪れて考えの甘さに己を恥じた。それは閉ざされた室内に恨みの分だけ貼られた当時の資料。
その全てが壁面を覆い尽くし、床に無造作に放られた記事。
ヒスピダは長きに渡って復讐の業火が消えないように薪を焚べていたのだ。その常軌を逸した執念をひた隠し、誰にも悟らせず、この数年己の胸に飼っていた。
想像できるはずもない。
意趣遺恨を推し量ることなど同じ人間であろうとできないのだろう。怨を胸に飼い続けた者にしかわかれない、気づけないのだ。
ジャンは夜通し一人で全ての資料に目を通した。彼女が何を思って……何を見つけたのかを探るために。
もちろん、今はこの室内に誰も入れたくなかった。
だが、眠らず3日が過ぎ、深く黒ずんだ隈をこさえた時、同じように隈を浮かべたリチアが儚い笑みで迎えにきたのだ。
彼女も国内の救助・救援の陣頭指揮を取り、ここ数日寝ていなかった。そして足の踏み場を探すようにヨロヨロと室内に入ると「現場からアルスさんの血痕がでてきたわ」と報告した。
彼女自身、信じられないというように俯いて告げた。
だが――。
「違いますよ。アルスたちではありません。これを……」
そういってジャンは時系列順に並べた資料を手渡す。そこにはどこから仕入れたのか、軍の全監視カメラから印刷したと思われる写真が残され、加えて起動中の機材から仮想液晶が展開された。
「……!! 何、これ」
疲労が一瞬の驚愕に消し飛ぶ。すでにリチアはヒスピダの復讐については報告として知っていた。だからこそジャンがこの場に留まることを許可したのだ。
目を落とす、資料にはテープで貼られただけの写真。
しかし、そこに映った人物とヒスピダが直筆で付け加えた文字があまりにも乖離している。
「どういうことなのジャン!!」
叱責まがいの怒声にジャンは冷静に導かれた答えを告げる。
「オラン・トピットホンはヒスピダさんの旦那さん、シグサムさんが亡くなられる前に軍をやめています。その後消息を立っています。正確にいえば消息を立ってから数日後には変死体として死亡が確認されており、その資料によれば事故とされています、が……」
リチアは貼られた写真の日付に視線を落として絶句した。
「その後、軍内部の監視カメラに写された映像は全部で3枚。その全てが彼が死亡した後のことです」
「ちょ、ちょっと待って……理解が」
髪を乱雑に掻き上げたリチアは疲労の末、鈍くなった思考を無理やり回転させていた。だが、彼女には知識としてそもそも足らない分野であるのは確かで、ジャンは明瞭に告げた。たった一つの事実を。
「考えられるのは、オラン・トピットホンが生きているという可能性ですが、これはほぼ無いでしょう。ヒスピダさんはそこまで調査していたようです。と、なると誰かがオラン・トピットホンに成り済ましている。いえ、この場合は彼の皮を被った誰かです。そしてそれはシグサムさんを殺した人物」
こういった黒い部分に耐性がないリチアであったが、もうそんなことも言っていられなくなっていた。ヒスピダはこれまでルサールカを大国へと導いてきた魔法師だ。リチアが推奨する改革に彼女がどれほど尽力してくれたかを嫌というほどわかっている。
彼女なくして今のルサールカはないのだから。
「ですが、アルスも無関係ではないでしょう」
延いてはジャンへと直々に頼んできたのだから、今になってどんな意図があるのか徐々に明らかになってきた。ここまで来ればアルスが残した合図についても嫌な予感しかしないが。
「ジャン……」切迫するような掠れ声が考え事をしていたジャンの鼓膜を震わせた。それは悲痛でありながら悔恨のまま終わらせない音を含んでいる。咽頭さえ震わす、そんな絞りだす声音だった。
「私はヒスピダさんを殺した者を許すことができそうにないわ。きっと元首である私がこんなことを言ってはダメなのでしょうけど……それでもわたくしは葬儀でヒスピダさんを弔えない。このままでは終わらせてはいけないと思うわ」
「それは俺も同意です。こんなことで報われるとは思いません。自己満足でしかないのかもしれない。それでも自己満足すらできないのでは残された者は折り合いすらつけられない」
「えぇ、彼女に報いるために、私は強権すら厭わないわ」
「きっと皆わかってくれるでしょう」
「だといいのですけど……」
二人の決断は大きく国を混乱させるものだ。故にこれは二人とルサールカ総督にのみ伝えられた。
これより総督の命令は全て元首たるリチアの意向に従うものとして過去例にみない体制が即座に敷かれた。
何を意味し、何を命令されるのか、それがわからずとも軍本部にリチアが赴いたことは国内全魔法師の知るところだ。ヒスピダの訃報が公表され日が浅いというのに、悲しみの奥に潜むやり場のない怒りをジャンはその顔に見た。
元首に向けて発せられる怨嗟の言葉は飲み込まれる。彼らもまたリチアの表情に似たものを見たからだろう。
そして臨んだ元首会合。
ジャンもリチアも内容など上っ面なところだけを記憶し、アルファが到着する前に決まった内容に思考の大部分を割いていた。
本題に移るのはおそらくアルファから事情説明という名目の情報を引き出す聴聞が済んでからだろう。
だが、途中ジャンは幾度かヒヤヒヤさせられていた。
実はリチアは政策上の駆け引きなどは経験上得手としているし、革新的な政策を打ち出すことには長けていたが、こういった腹の探り合いは不得手としている。
ルサールカはあくまで独自に動かなければならない。これは私情のみの報復なのだから。
――頼むからシセルニア様。あまりリチア様にちょっかい出さないでくれ!!
そんなことを祈りながらジャンは背筋に冷たいものを感じていた。舌鋒戦ではシセルニアに軍配が上がるのは火を見るより明らかだ。
何よりジャンは一歩引いているからなのか、シセルニアをやはり怖い人だと感じた。即座に情報を握っていそうなリチアを見抜く慧眼もさることながら、僅かな情報からこちらの手の内を探ってくる。
ジャンがリチアの立場でも同じだけの情報を引き出されていたと思うのだから、つくづく二人は相容れないのだろうと感じてしまう。
性質がまるで違うのだ。リチアはルサールカ国内でもその実直さを買われているし、誠実さで国民を第一に考えている。だからあの事件の後も彼女は即座に対応し、できることを終えると今度は現場に足を運んで指揮を直接執った。
故に人の思惑や悪意に真正面から向かってしまうため、裏をかかれ易い。付け入られやすいのだ。しかし、ジャンは彼女がルサールカの元首でよかったと心の底から思った。
いくら情報を引き抜かれようとリチアという人間は何一つ変わらないのだから。
――さすがにこちらの動きまで読まれたか。アルファはどうするか、だが。
結局アルファがこの会議で何かを提案することなどできるはずがない。すでに犯罪者を出した当事国以上に何もかも変わらないほどに決っているのだから。
ここまでは猶予時間――アルファにとってもルサールカにとっても。
――きたか。頼むからリチア様、まだ癇癪は起こさないでくれよ。できればアルファもおとなしくしてもらいたいが。
視線を交互に移動する。先ほどからシセルニアの様子が芳しくないのはリチアが軽口を叩いた通り事実だろう。ならばいっそこのままでいてくれれば、と思うが、アルファとルサールカでは知り得ている情報の確証度が違う。
まだ手探りのアルファに対してルサールカではほぼ目星をつけ始めていた。もちろん、この会合に来てからだが。
しかし、詰まるところそれすらも予想の範疇を超えない。疑い程度、実情としてはアルファと同じくできることの手数は少ない。
「お招きいただき光栄に存じます皆々様方、私のことはメクフィスとお呼びください。以後よろしく」
そう発した異様な雰囲気を纏う男を見、一瞬意図せず漏れでた殺意をジャンは見えない左手で握り拳を作って堪えた。
一拍置いて、左手の中に湧く液体を服で押し付けるように拭う。
本当の意味でシングル魔法師がAWRを持ち込んでいるのはこのためだった。
――あれが……。