魔物との遭遇
まだ、早朝と言うには早い時間帯。
アルスとロキはほぼ同時に目を覚ました。ことこの二人に限れば目覚ましのためのタイマーは不要と言える。
任務のようにテキパキと行動を開始する間、二人が言葉を交わしたのは全ての準備が整った後のことだった。
「朝食は何にしましょうか」
「簡単なもので構わない。悪いな」
すでに食事の支度はロキの役目になっている。好きでやっていることなので役割分担をした記憶はアルスにはない。
何を今更といった顔でロキがキッチンに立つ。
アルスは窓から外の様子をチラリと窺った。防護壁の中からでは外界の天気まではわからないが、どこか澄んでいる気がする。陽の光がやっと顔を出し始めた時間だったからかもしれないが。
簡単な食事、それでも健康に配慮された栄養バランスを考えられたメニューだ。
食後に香り豊かな紅茶で一息吐くとアルスは掛けられているローブを指で掬い上げて羽織る。
「行くか」
「はい」
生徒たちも戦闘着は各自で調達して構わないことになっている。もちろん制服でも戦闘着として十分な代物だ。
ロキはいつものように制服で向かう。特に戦闘をするわけではないのだ。しかし、アレンジによって改造されている制服は戦闘着としてもロキ仕様になっていると言えた。
研究棟を出るとまだ生徒の姿はない。
時間的にもかなり早いためだろう。教員のいる本校舎は外からでも部屋に明かりが灯っているので準備には取りかかっているようだ。
現在は午前四時を少し回ったところだろう。
課外授業の実施は九時に予定されている。準備なども考えればスタッフ勢は七時前にいれば問題ない。
二人がいるのは研究棟の屋根の上だった。
「俺は準備運動を兼ねて本部まで走って向かうがロキはどうする」
「ご一緒させていただきます」
アルスは「遅れるなよ」と冗談めかして、屋根を蹴った。
マスクを被ったアルスの表情はわからないが、口の端が上がっていることだろう。
二人はすぐに最防壁まで辿り着く。並みの魔法師ではこうはいかない。
アルスは息一つ乱さず言葉通り準備運動のようだった。
ロキも呼吸が一定のリズムを刻み、体が温まった程度。
周囲には監視のための魔法師がちらほらと見えるが誰も二人、特にマスクを被ったアルスを見咎める者はいない。それもロキの制服を見たからだろう。
その代わりに二度見してしまうのは仕方のないことだ。
二人はゆっくりとバベルの発する防護壁を潜った。
潜るときのチクチクとした防護壁独特の魔力の波長も慣れたものだ。
景観が一変する。
アルスは大きく深呼吸した。
「やっぱりここは良い」
空は晴天、遠くに見える山の稜線からは神々しく陽が見え、目の冴える光を放っている。澄んだ空気が肺を満たす感覚はいつ味わっても良いものだ。
アルスの独り言にロキは頬を緩めてニコっと微笑む。
「これなら探知も問題ないでしょう」
「だな」
「どうしますか、現状1km圏内に二十三体いますが」
「そうだな、どうせなら早朝討伐隊の面倒を減らしてやるか」
「わかりました」
アルスにも捕捉は出来ている。だからと言って無粋なことは言わない。
二人がゆっくりと遠回りをしながら本部へと到着した頃には教員や増援部隊の面々が準備に取り掛かっていた。
アルスはマスクをしていてもロキと一緒にいたのでは悟られないとも限らなかったので、受け取る物だけを受け取るとそそくさと仕事に向かう。
『感度はいかがでしょうかアルス様』
「問題ない」
アルスは耳に装着した波長送受信機器に向かって良好であることを告げた。
魔力の波長で音声を届ける通信機器だ。独特の可聴周波数を持つ鉱石が使われている通信機器は《コンセンサー》と呼ばれている。
「現在、北東6km地点だ」
『了解しました。探知には今のところ高レートの反応は見られません』
「わかった。確認でき次第こちらでも即時殲滅する」
『よろしくお願いします』
「そっちの方は任せたぞ」
少しの間の後、
『お任せください』
決意の籠った声音。それを最後に一旦通信が切れる。
アルスにとっては雑兵も同然の低レート。
減らすにしても無用なダメージは魔物の血液をばらまく。
そうなれば昼間でも魔物が集まる可能性はある。アルスは魔物の核を的確に狙い仕留める。もしくは核もろとも一撃で屠った。
低レートの魔物は基本的に獣の形など小柄な体躯が多い。無論、種類によって例外はあるが、この一帯では確認の報告事例は少ない。つまり、いるとすればせいぜい魔物のサイズは人間と同程度だろう。
わざわざ核だけを潰すより全体を切り刻んだ方が手っ取り早かった。核を失うと魔物の体は朽ちるためだ。
ざっと三十近くの魔物を始末し終えた辺りで、ロキからの通信が入った。
『これより課外授業が実施されます』
「了解した」
♢ ♢ ♢
生徒は開始地点となる防護壁手前の広場に集まっていた。
そこには開始の合図を行うべく、理事長の姿もある。
ほとんどの学生が戦闘着として制服を着用しているか訓練着を着ている。テスフィアとアリスもいつもと変わらない制服姿だ。
すでにグループで集まり、最終確認の話し合いが至る所で見てとれる。
テスフィアのグループには四桁のテスフィア以外に五桁が二人、六桁が二人、そして監督者の上級生――四桁のカブソル・デンベル三年生が付いている。名家の長男で何かとテスフィアに対抗心を燃やしている一面がある。作戦の場でも口を挟む場面もしばしばあり、他の班より費やした時間が多いのも彼に少なくない責任があるのだ。
そしてアリスのグループ……四桁のアリス、五桁が四人の構成になっている。五桁とはいえテスフィアのメンバーと比べれば、六・七万位でまだマシなほうだった。監督者には二年生のセニアット・フォキミル、順位はあまり変わらない。それ以前に同性ということもあり、何かと面倒見の良い上級生だった。
「それではこれより課外授業を行います」
生徒達の視線が理事長へと一斉に向かう。
「何かあれば増援部隊が駆け付けてくれますし、監督者には万が一のために救難信号を出せるようにしていますので、皆さんは存分に日頃の成果を発揮してくださいね」
かなり淡白な挨拶だったが、必要事項は既に聞き及んでいるはずだ。
そして開始の合図と同時に次々と防護壁を潜る。
しかし、抜けた先で生徒達は立ち尽くした。
その顔は圧巻の一言で言い表せるだろう。初めて見る光景、これが外界なのだ
、というより幻想的で雄大な景観に夢や幻なのではないかとすぐに動き出せるグループはいなかった。
それはテスフィアとアリスにも言える。
「…………凄い!」
「綺麗!」
緑が生い茂り、見渡す限り近代的な物は一切見当たらない。
背の高い老木に圧倒されており、それは監督者に付いた上級生達も例外ではなかった。
まるで別の異世界にでも飛ばされたような錯覚さえ覚えているのだろう。
四百人以上の生徒達を我に返したのは手を打ち鳴らしたフェリネラだった。
彼女もまた監督者としてこの課外授業に参加している。
「固まっていては魔物の良い的ですよ」
それが脅し文句であるのはフェリネラの呆れ混じりの笑みでもわかることだが、意識を現実に投影するにはそれで十分だった。
すぐにグループ毎に顔を引き締めて四方八方へと各々散らばっていく。
特に目標があるわけではない。魔物との戦闘がこの授業の意義なのだ。
だから奥に奥にと向かう必要はないのだが、生徒達は好奇心に彩られ、何かに憑かれたように先に進んで行く。
始まったばかりだというのに、遠目に見える距離で戦闘も始まっていた。
テスフィアは覚悟を決めて慎重に歩を進める。
歩き始めてしばらく行くと――というより自然が生み出す道なき道を進んでいるため、距離としてはあまり進んでいない。
「――――止まって!」
事前に決めていた通り、先導したテスフィアが手で制止の合図を出した。もう片方は口の前で指を立てている。
遠くで微かに木の枝が掠れる音が聞こえたのだ。
背を低くして木陰に隠れながら様子を窺うと。
「……!!」
何かが上から降ってきたのだ。
視界に何かが降り立ったのが見えた。
それは人間の子供のような体躯で中背に手が異様に長く、軽く握られた拳は地面に着き、足は不自然に小さく短い不格好な身体だ。間違っても地を駆けるようには見えない。腕ほどもある尻尾はクルクルと丸まって円を作っている。
全身がドス黒く目は血のように紅い、それが余計に不気味に見えた。自然界にそぐわない色と異様さ――まさしく魔物のそれだ。そうテスフィアは授業で習った魔物の特徴などとの記憶を掘り起こして一致していることで確信を得た。
テスフィアは周囲に他の魔物がいないことを確認すると指示を出した。
「たぶんFレート【ベラム】の一体ね。作戦通り回り込んで討伐するわ」
授業でも紹介される代表的な魔物である。猿のような行動をするが見た目が背の曲がった老婆のようにも見える魔物だ。個体数が多く木々が密集する場所を好み近郊に多く存在する。
メンバーの無言の頷きは了承を伝えた。
テスフィアは手で指示を出して配置に着かせ、自分は真正面から息を殺しながら静かに接近する。
慣れていないこともあり、枝がテスフィアの足を傷つけたが、それを無視して歩を進めた。息を殺すとなおわかる己の心臓音は早鐘を打っている。
講義ではあまり地上に降りてこないという話だったが、何事にも例外はあるということだろうか。
そんなどこか不自然さを抱きながらつぶさに観察してると。
魔物はキョロキョロと辺りを窺い始めた。
(悟られた? でも逃げる気配はないし……)
魔法の射程圏内に入り、周囲を見渡すと他のメンバーもほどなく配置に着く。
木陰から片目だけを覗かせたテスフィア。
(……!!)
魔物は黒い毛を逆立てると急に背後に首をグルンと回し、不気味に――人間臭い不気味さ――口が大きく弧を描いた。
その先には背後を取っているメンバーの女生徒がいた。
「気付かれている!!」
声を上げるのと同時にテスフィアは刀を地面に突き刺した。
魔力が刀身に流れ、魔法式を発光させる。事前に準備していたからできた早業だった。地面から細い氷の道が魔物に向かって一直線に迸る。
テスフィアの存在に気付いていなかったことで魔物はその攻撃に反応できなかった。
背後のメンバーに向けて飛び上がる前にその足は地面に張り付く。
テスフィアの魔法は一瞬で魔物の腰までを氷漬けにした。
「――――!!!! ……攻撃!」
一瞬の驚きはテスフィアの予想を遥かに上回った結果に対したものだ。自分の魔法では足裏を凍らせて一瞬の隙を突くはずだったが、現実は腰までを凍らせ、魔物は身動きが取れない状態だった。
多少狂ってしまったが、攻撃の展開は予定通り――テスフィアがまず足止めをして一斉に攻勢の魔法、もしくはAWRで攻撃を浴びせるというものだ。
順位の低いメンバーでは攻勢の魔法は初位級魔法の【アロー】しか使えなかったのでダメージの予想が立てられなかった。それならば基本的な攻撃はAWRでの物理攻撃に絞るべきだと考えたのだ。
しかし、どれも一撃では仕留めるまでには至っていなかった。
やっと頭部に一撃が入り昏倒させる、無力化させたことでメンバーはテスフィアに向かって一勝の笑みを浮かべた。
しかし――まだ、笑みを浮かべるのは早い。
背後で動けずにいた魔物がゆっくりと上体を起こしたのだ。
「ハッ!!」
テスフィアは動く前に駆けていた。
そして高く振り被られた刀は上体が上りきる前に魔物を両断する。
「「「「――――――!!」」」」
「油断しない!」
そして頭部にあった核が砕け、魔物の体は朽ちるように崩れた。
前々からアルスの言葉に耳を傾けていたのが功を奏したと言える。でなければ気付けずに自分も舞い上がったに違いない。
「助かった」
そう言うメンバー達は冷や汗を流していた。
「ごめんなさいテスフィアさん」
俯き気味に背後で気付かれた女生徒が謝罪を口にした。自分の失態だと気付いたのだろう。
「気にしないで、他のグループに気付いたのかもしれないのだし」
まだ近くでは戦闘の音が微かに聞こえるのだ。
「それにしても凄いね。一撃なんて」
「ありがとう」
感謝の言葉を内心でも誰かに告げた。間違いなく訓練の成果だったからだ。
入学時とは明らかに手応えが違う。
「Fレートで間違いないな。Eレートならば苦戦しただろうからな、やるじゃないか」
隠れていたカブソルが不敵な笑みで小馬鹿にしたように称賛した。
「どうも」
チラと見ただけの雑な返し。
「だが、一撃で仕留められないのはいただけんな、もっと精進するんだな」
上からの物言い。この男は魔法を使って仕留められないことを指摘した。そもそも確実性に欠けるために足止めの魔法だということが理解出来ていない。
いや、わかった上で言っているのかもしれない。
「ご指摘ありがとうございます」
やり過ごすために今は欲しい言葉をテスフィアはくれてやった。
テスフィアの頭はこの上級生をすでに排除していた。思考は別のこと。
主に討伐に成功したことで、アルスの言った適性に通ってやったという達成感で満たされていた。
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