星降りの夜
がくりと歩くアルスの足取りは非常に重たいものだった。
何故あんなことを口走ってしまったのか。釈然としない言動の数々。
まるで子供のようにペラペラと吐露した後になって、逃げ出してしまったのは羞恥と居心地の悪さからだった。そこにあったのは最強の魔法師にあるまじき姿だ。それこそ歳相応の姿である。
あれこれと考えるとやはり悪い方向に行ってしまう予感から、アルスは一度頭を振って近づく小川を視界に収めた。
口実であろうと汗を流すためには必要なものだ。
こんなところに流れている小川にしては澄んだ水。直接飲めてしまうのではないかと錯覚するほどだ。
無論近場に水場があるという理由でこの近辺に潜伏場所を探したのだから、当然といえば当然である。
さすがにアルファの排他的領域からだいぶ離れており、ルサールカに近いとはいえまだこの辺りまでは奪還が進んでいないようだった。
視線を振ると細い川から逸れるようにして天然の湖がある。砂利が敷かれ、周りには岩が積まれていた。それは過去資料で読んだ漁のために作った天然の生簀に似ている。
「追い込み漁だったか」
小川の流れを堰き止めないために端には川に繋がる水路ができていた。一見するとただの水溜りだ。
こんなところにあるということはさすがに人工物ではないだろう。もしかすると魔物の侵攻以前に作ったものがなんとか残っていたのかもしれないが、水の流れによって楕円に削られているようにも思えた。
どちらにしても随分と長い年月を感じさせる。
池というよりも小さな湖、水溜り程度だが一人だけならば十分スペースは作れるだろう。
アルスは丁度いいとばかりにまずは繋がる二つの水路を塞ぐ。これは土系統の魔法で複写する作業を行った。石の隙間を埋めていく、かなり不自然だが隙間ができては水を温めても貯水できない。
作業にかかった時間はほんの数分程度だった。次に熱した石を放り込んで温めていく。
元々小さかったために更に狭くなったが中心部は残しておいたため露天風呂としては上出来だろう。
真っ白い湯気を立ち昇らせた露天風呂を前にアルスはテキパキと服を脱ぎ、丁度良い岩の上に着替えを置く。
足先で温度を確かめ、腰まで一気に浸かる。外気との温度差のせいか全身に染み渡る熱。
そそくさと上半身を湯の中に沈ませた。
湯が溢れるがそんなこともお構い無い。
「はぁ~」
毒素が抜けたように吐息をつく、心までが洗われるようだ。今まで効率重視でシャワーのみという生活が続いていたせいか、何故か損をした気分になってくる。
今は何も考えたくはない。考える暇もないほどに思考をリセットしてくれていた。
足を伸ばせないのは惜しいが、今更出る気にもなれないし、余計な労力だ。一人分のスペースは確保できているのだからこれ以上は贅沢なのだろう。これぐらいが丁度いいのだ。
川のせせらぎも夜の幻想的な月光と協奏しているようで一層心地よい。
だが、ふと目を瞑り耳を傾けていると自然界では鳴りようのない音がジャリジャリと混ざる。小石が擦れるようなそんな……。
「アル……い、いいっしょに、いいいで、すか」
声のする方へと振り返った直後。
「そのまま、こっち向かないでください!」
「は、はい」
アルスの背後ですでに裸体となっていたロキは着替えを置き、申し訳程度にタオルで前身部分を隠す。
たとえ見られていなくとも思い切った行動に恥ずかしさは隠し切れない。耳まで真っ赤になった顔。
平らな胸板を見下ろし、がっかりされないかだけが心配だった。
胸の上でタオルを押さえる手はギュッと勇気を振り絞る。ここで勇気を振り絞らなければ一体どこで使うというのか。
結果的に混浴という手段を取らなければならなかったが、それぐらいの覚悟は同居し始めた時からしている。だが、実際に直面すると早鐘を打つ心臓は収まる気配を見せない。
狭くなった歩幅でゆっくりと砂利を踏む。
「良い場所ですね」
「あ、あぁ。何に使われていたのか、天然なのかはわからないが使わせてもらった。ロキ……さん?」
ここは一人分のスペースしかない。それを口にしようとした時。
チャプンッと背中でお湯の弾ける音が湯気に混じって聞こえ、僅かに水嵩が増す。
「アル、その……少しずれてもらえます、か?」
「――!! 悪い!?」
何故か動揺したアルスは反射的に少しだけずれた。いや、スペースとしては限界までずれていた。膝を抱え、これ以上は動きようもないほどに。
湯を分け入って進んでくる。
波紋が背中にぶつかる度に心が落ち着かない。今までも似たような状況は数多くあったような気がするがこんな気持ちは初めてのことだった。年齢が近いせいからか、はたまた今までの相手が大人だったからだろうか。
表面上は落ち着き払っているアルスの内心は何がなんだかしっちゃかめっちゃかだった。ロキと同居してからも風呂上がりなど際どい姿を目撃してはいるが、何かを感じるということはこれまでなかったはずだ。
「ロキ、足場には気を……」
自分を落ち着かせるための注意喚起の直後。
「キャッ!!」
「ロキッ!!」
ザバンッと湯が大きく波打ち、岩に足を取られたロキは前のめりに倒れこんだ。
そして湯気を一層立ち昇らせた時、ロキはアルスに寄り掛かるようにして向かい合っていた。
ファサッと落ちるタオル。
ロキは顔が垂れた状態で咄嗟に突いた手はアルスの胸に触れている。そして自分の両肩を押さえる手はしっかりと倒れないように支えられていた。
「…………」
きめ細かい乳色の肌。血色の良い肌は薄っすらと火照ったような赤みを帯びていた。跳ねた飛沫を被ったのか顎のラインを伝って水滴が滴る。女性特有の甘い香りがしたようで一帯の空気に色が付くのをアルスは感じた。
月明かりを受けて透けるような肌、傍から見ずとも扇情的な光景であった。目眩すら感じる美しさにしばし時が止まる。
触れる肌は直に体温を伝えてくる。凭れ掛かる綺麗な曲線美を描く背中にアルスの視線が固定されたが、それも僅かな間だった。
刹那――男としての節度が働き、顔は弾かれたようにそっぽを向いていた。
ロキは倒れなかったことへの安堵よりも……目を開いた先、眼前にある引き締まった腹筋に目が行った。
恐る恐る見上げると、見ないように気を利かせてくれたのか顔を逸らすアルスの横顔があった。
茹でダコのように染まった顔は「ごめんなさい」と早口で紡がれる。わけがわからず、混乱を加速させるロキは逃げるように胸を腕で隠し反転する。機械的な動作で荒々しく湯船に沈んだ。逃げ場を求めるように潜り、ブクブクと気泡を浮かばせ鼻先まで水面に浸からせる。
今になって波に揺られてくるタオルをしっかりと確保したまでは良いが、早々に大失態を犯した。
来るまでに考えていた言葉は一瞬にして消し飛んでいた。
逃げ出したいが、それではここに来た意味がなくなってしまう。
そんなロキの後ろ姿を見てアルスは気づかれないようにため息を吐いて湯船に浸かる。背中合わせになった状態は自然と背中同士が触れ合う。
状況が理解できないのに唐突に気まずくなってしまった。
その原因が自分にあることは薄々わかっている。
ロキがこうして思い切った行動をするのはいつもアルスのためなのだから。
「今更だけど温めるために焼け石を入れてるから足元には気をつけ……てね」
「本当に今更……ブクブク」
お湯の中で喋っているような聞こえづらい声。背中を預けるように寄りかかってきたロキは仕返しなのかコツンと頭を後ろに倒してきた。
「アル……少しいいですか」
「…………あぁ」
触れずにいた話題、無意識に避けようとしていた話題はロキから切り出された。
一度、ふーと吐き出したロキは考えていた言葉を思い出そうとはせず、感じるがままに口を動かす。
やけに静かな無音。どこか優しげで儚げなソプラノ長の声が細く響いた。
「アルは一人が怖いのですか? 手放したくないのですか?」
「…………」
寄る辺なさ、空虚さ、そういったものをアルスは感じているのだろうと思った。軍では常に孤立していたアルスだが、それはノワールとの戦いで見せた心を殺し何者にも感化されないための自己防衛だったのではないだろうか。
一人で戦い続けてきた背景には人間が好きであるが故の選択だったのではないだろうか。
彼がいれば死ななくて良い命は無数にあったはずだ。自らが望んで一人になったことと一人になりたいことは同義ではない。アルスという圧倒的強者は必然といろいろな物を背負わされるものなのだから。選択の中にはきっと避けようのないものが含まれていたはずなのだ。
学院でテスフィアやアリス、フェリネラと関わるようになって心が浮き彫りになったのではないだろうか。己を守ってきた心に直接触れてくる彼女たちに戸惑い、いつしかなければならない存在へと昇華されていたのではないだろうか。
ロキはアルスの変化が彼女たちによるものであることを今日まで幾度となく感じてきた。それに自分が含まれているか、自信はないが。
認めたくないが、たぶんアルスは学院という特定の場所ではなく日常に組み込まれた彼女たちの存在を手放したくないのだ。
「どうだろうな。俺自身よくわかってないんだ。最初はあんなに鍛えてやるのが苦痛だったのに教えていくうちに何かが変わっていったんだろうな。あいつらと一緒に俺も変わったのかもな。フィアやアリスにフェリネラ、それからロキも……できれば関わってほしくないと思うのと同時に今までの生活がこれからも続くとどこかで思っているんだろうな。随分と我儘な話だ」
「本当に我儘な話です。少なくとも私は何も変わりません……これからも」
「……そうか」
噛み締めるような相槌にロキは頷くように視線を湯に落とす。
「アル……アルはもっと傲然としていればいいんです。変なところで謙虚なんですから……アルが思っているほど彼女たちは弱くないと思いますよ」
ゆっくりと視線を上げて初冬の夜空を見上げる。そこには彼が外界を美しいと思えるその最たるものが浮かんでいた。
ロキでさえ息を呑んでしまうほどの輝き。天に煌く月は作られたものでは決して表現できない雄大さと神々しさが共存している。
「きっと大丈夫ですよ。居場所なんてどこにでもあるんです。アルがいる場所が私の居場所であるように……きっと外とか内とか関係ないんです」
そして圧倒的な輝きを放つ月を見てロキは思う。燦然と輝きを放つのは何も月ばかりではなかった。
「だってそんなものなくても強い光には周囲を照らしだす魅力があるんですから。アルが居る場所がアルの居場所です」
弾む声はどこか嬉しそうであった。空いた胸の虚無感が埋められていくような言葉。
「どんな理屈だよ」
「何も変わりません。一人じゃありませんし、一人になんてさせませんよ」
「末恐ろしいな」
「フッフッフ……それはもう恐ろしいんですから……先を照らす光に縁なんて求められません。だから……傍にいますから、前だけを見ていてくださいね」
「フーッ、大変だ」
「何を今更、彼女たちを誰よりも近くで見てきたのはアルじゃないですか。これまでもこれからもアルが望むことをしていけばいいんです。大丈夫です! 居場所なんて誰にでもありますし、私にとってアルは特別ですが、アルが思うほど違いなんてありませんよ。何も心配ありません。きっと私も彼女たちも変わらないと思います。それに私から言わせて貰えば有象無象にどれほどの居場所を奪えるか、寧ろ提供すべきなんです」
背中に恐ろしい気配を感じてアルスは背中を少しだけ離したが、それに追い縋るようにロキの背中が押し当てられる。逃しませんよ、とでも言いたげに。
「ひどいやつだ」
「当然の義務です」
物は言いようなのだろう。アルスに世界を救ったという自覚がないように、ロキにとってはアルスこそが救世主にでも映っているのか。少なくとも恩を仇で返すような真似を彼女は許さないはずだ。
不意にロキがそういえば、と思い出したように切り出す。
「星空もそうですが、私も外界の景色は好きです。きっと誰もが抱く感覚だと思います。いつか人類がこの景色を共有できる日が来れば、それって素敵なことですよね。アルが外界に抱く認識って少しずれていると思うんですけど、そんなふうに思ってませんか? 間違ってましたか?」
アルスが研究をするのも結局は人間が好きだからだ。自分の解明と魔法師にとって有益な研究。煩わしいと口では言うが彼の行いは魔法師を、市民を守ってきた。一人で戦い続けるのも結局はそういうことなのだろう。
ズバリ的を射た推測にアルスはにべもなく肯定した。
「いいや、だいたい合ってるんじゃないか。ロキの言う通り外界は好きだな。たまに思うことがある。いつしかこの光景にすら何も感じなくなる日が来るんじゃないかと、失くなって初めて気付かされるのが人間だが、それと同時に失くした期間は気付きを薄れさせていく。誰かにわかってほしいなんて思ったこともなければこの景色を共有したいとも思ったことがない。でも……忌むべき魔物が蔓延る外界がこんなにも美しいところだと感じてもらえたらきっと嬉しいのかもな」
「素直じゃないですね」
「その第一号がロキということになるな。魔物がいても変わりない有り様に共感してくれたのは……」
「そ、それは……」
もちろんロキも幾度となく外界で任務をこなしてきたが、この世界の美しさに気づけなかった。こうしてアルスと同じ目線で見るからこそ思えた――気づけたのだ。
それが少しだけ嬉しくて、今それを言うのが少しだけずるかった。
そして改めて夜空を仰ぎ見る。
「あっ――!! い、今、星が落ちました!!」
「流れ星か、初めてじゃないだろ」
「いいえ、初めてです。さすがにあの速度では被害も凄まじいのでは?」
「ハハッ、空中で燃え尽きるから大丈夫だ。そうかロキも初めて見るのか……そうだったな、内側にいれば星なんて見る機会もないか」
ましてや外界に出る魔法師も空を仰ぎ見ることに意味を見いだせないほどに一瞬たりとも余裕はないのだろう。だからこそ気づけないし、心が感じないのかもしれない。
今度はロキの頭にアルスの頭が寄りかかってきた。
それにドキリと心臓が跳ね上がる。髪が触れ、背中の触れる面積も増える。お湯とは別の体温が伝わってきた。
「そうですね。私でも初めてなのですから、内側で安穏と暮らす人達にとっては一生お目にかかれない光景かもしれませんね。魔物が独占したがるわけです」
「結構長いこと居座られたがな」
「ふふっ、そうですね」
「……いつか、この空の下で暮らせる日が来るといいな」
ロキはちゃぷんと両手でお湯を掬いそこに映し出される偽りの星空を見ては落とす。そうこれほど近くにあるのだから、そこから目を逸らす必要なんてない。
「えぇ、アルならば必ず……でも、それは誰に言われるでもなくアルの心からの願いであり、行動であることを私は望みますけど、ね」
後ろから視線を感じたアルスは面目ないとばかりに今までの自分を振り返る。そこにはどれほど己が欲を満たしていたか。
ロキがそう思うのも仕方がないのかもしれない。生きてきた過程でそう培われてきたものなのだから、アルスにそのつもりはなくとも傍から見れば随分と息苦しく映ったことだろう。
(いつだってお前は俺のことばかりなんだな……)
それに応えられることができるのか、今のアルスにはわからなかったが、それでもやることは決まった。
今見上げる空は昔とはまた違って見える。
あれほど手が届かないと思っていた空が、この風景が、この時ばかりは叶えられないとは思えなかったのだ。成し遂げることは遠いことであるのは間違いない。それでも道のりが長いだけであって不可能だとはどうしても思えなかったのだ。しかし、到底一人では難しいことも理解しなければならない。
結局一人では道に迷ってしまうのだから。いくら知識をつけ、経験を得てもそれだけは変わりようのない真実だった。
多くは望まない、ただこの世界はもっと美しいということだけを確かめたかったのだ。極論を言えば今も自分の知らない人々がどうなろうと知ったことではない。それでもこの地続きの世界が真実で、今の生存圏に敷かれ、防護壁に覆われた世界は偽りの鳥籠でしかないのだから。
だからアルスは目をゆっくりと瞑り、しみじみと呟いた。
「ありがとうロキ」
「いいえ、礼には及びません」
「そうと決まればやっぱりこんなところで手を煩わされている場合じゃないな」
「はい、私も精一杯尽力させていただきます」
弾んだ声は当然のように後に控えた戦火へ加わることを示唆している。いや、すでに彼女の中では確定事項なのだろう。この期に及んで聞き直すことはしない。
アルスは感謝の念を抱きながら湯気とともに「頼む」という言葉を星降る夜の空に溶けませた。