心と身体の不一致
ノワールとの一戦を終え、アルスとロキは外界へと走った。
途中魔法師に目撃されるも、二人の速度に追いつける者はそう多くはない。何よりアルスという魔法師を知っているからこそ少数での追尾は躊躇われた。
外界に出てからというものロキはアルスの背中を眺めながらすでに十回を超える溜息を目撃している。
道中、遭遇する魔物はあえて殺さず放置。後々足が付く可能性を考慮してなのだろうが、今のアルスにはそれすら億劫なのではないだろうかと考えてしまう。
アルファから外界へと出たのだが、いつもの彼ならばどこかの国境を跨ぎ、撹乱すると予想していただけに今、何を思っているのか、何に煩わされているのか、ロキは大凡の見当が付いてしまうだけに声を掛けづらかった。
「はぁ~」
そしてまた一つ溜息が聞こえ、この機を逃すまいと勇気を振り絞って声を上げる。若干上ずってしまったのは語彙の選択に慎重になったからかもしれない。
「アル、気にしているのですか? フィアさんのことですか」
続く様付けを意識して堪えたからなのか一語空く間。
アルスを否定した彼女に対してロキは嫌悪感すら抱いていた。それでもこれまで彼の元で訓練を続けてきた彼女だ。アルス自身、テスフィアやアリスを手塩に掛けているのはロキでなくとも感じることだろう。
アルスの戦いは魔物に対するものとは一線を画する。それを目の当たりにしたロキは驚いたものの、彼が歩んできた道だ。それを覚悟していたのだからまだなんとか踏み止まれた。
いや、それも正しくはないのだろう。
あの時、ロキは無表情のアルスを見て心が引き裂かれるよりも苦しかったのだから。
猟奇的でもなければ嗜虐的でもない。それならば無表情になどならないはずだ。心を閉ざすことで意識を保っているのだと、戦いというものを純粋に思考することでそれ以外の不純物を受け入れさせない。
まるで殻に閉じこもるような姿は事務的な作業をするための苦肉の策。そんなふうにロキは感じた。
「……テスフィアに限らずあいつらは首を突っ込みたがるからな、いつかは……な。知らなきゃそれに越したことはないが」
知らないほうがいいこともある。しかし、テスフィアやアリスは間違いなく知らないことを良しとしないだろう。
少なくともロキはフェーヴェル家でテスフィアを見てそう思った。
もちろん、受け入れられるか、乗り越えられるかは別問題なのだろうが。
だからこそ、フローゼに伝えた言伝が役に立つのかもしれない。結果的にテスフィアやアリスが一歩踏み出す手助けをするのだから。
こんなことを気に病んでも仕方のないことだ。
アルスは頭の片隅に今も残る違和感が気になっていた。詳しく言えば元々あったものなのだから違和感と表現するのは正しくないのだろう。
ただ、久しく忘れていた感情であるのは間違いない。
「ここまでアルがしたのですから後は彼女たち次第でしょう」
気遣っての言葉なのはすぐに分かった。だから、アルスは内心で大丈夫だと言い聞かせた。
――大丈夫、大丈夫だ。
何も変わらない、変われない自分に落胆などしていない、失望などしていない。ただあの眩しい場所に戻れる気はしなかった。
唯一それだけが心に雲を翳らせている。人間を殺すことに何も思えない化物が人間に混じって生活しているなんて……滑稽だっただけだ。ごっこ遊びだっただけだ。
太い枝を足場に大きく飛ぶが、その先にある枝へは遠く。拒むように何も掴み取ることができなかった。そしてアルスは茂みの中へと飛び込んでいった。
「アルッ!!」
空中で声を荒げたロキは待ち遠しい枝に着地し、直角に真下へと弾かれるように降りる。
すぐさま、アルスを探すために探知を使いながら落下箇所へと走った。
人一人が隠れられるほどの草むら。こんな季節でさえ水分を蓄えたような不気味な青葉。
毒がない植物なのは知識として持っているが、自生する草むらは多種に渡り衝撃を吸収してくれるはずだ。だが、その中には茨も混じっている。
夢中で掻き分けていくと、自然のハンモックに抱かれるようにアルスが顔を顰めていた。
「大丈夫ですかアル」
「あぁ、問題ない」
「何が問題ないんですかッ!!」
ロキにしては珍しく口調に怒気が混じった。それは怒っているのに、顔は心配に堪えない憂色。
それもそのはずだ。アルスが初歩的な着地に失敗するなど……。
AWRを使うなり、魔法を使うなりすれば十分着地できてたはずなのだ。それすらできないほど思いつめていたのか。
見れば腕や首元、顔にまで浅い傷が付いている。
ロキが怒るのも理解できるアルスは素直に「すまない」と謝罪を口にした。自分自身、ノワールとの一戦を経て後悔のような異変を抱いていることには気がついていた。
ただ、それに対しての回答を未だ導き出せていない。
「ほら、立ってください」
差し出された手を取り、上体を起こす。
ロキの手は比較的綺麗で温かい体温を発している。それは人間味という意味では心地よさすら感じた。
だが、一方でアルスの手は冷えきっている。
何かが違うと感じてしまうのだ。表面的な体温の違いではなく、内に持っている心がそうなのだと。
ロキならばまだ戻れる。アルスが黒く染まっていく中に彼女を巻き込むのがどうしても躊躇われた。それを彼女が望まないとしても……。
「アル?」と怒った顔は一変して不思議そうに見つめてくる。
立ち上がってからもアルスはロキの手を大事そうに握りしめていたのだ。
「悪い……」
咄嗟に手を放したアルスだったが、すぐに後を追ってロキが再度掴んだ。
「大丈夫です。できれば手を繋いだまま帰りませんか?」
「構わないが走りづらいぞ」
「たまには歩いて帰りましょう。ここまで来れば魔物はいません。秘密基地周辺を綺麗にしておいてよかったです」
外界において家など作れるはずもないので、二人は洞穴で過ごしていた。あれを秘密基地と呼ぶロキはどこか儚い夢を見ているように見えた。
それでも破顔する彼女は取り繕っているようには感じない。
繋がった手を見てアルスはできればこれ以上体温を感じたくなかったが、そうもいかないのだろう。
乗り移ってくる温もりが心地よいと感じてしまうのが少し怖かった。
そんなアルスの心情とは裏腹にロキは今、この手を放してしまうことでまた距離が出来てしまうのではないかと感じていた。彼が何に思い悩んでいるのか、それを彼一人の問題ではなく、自分にも共有して欲しいという切望故だった。
ヒンヤリとした手は硬い。
きっとこれがロキにできる支えなのだろう。寄り添うということなのだろう。
少しでも彼の胸の内を知りたいのだ。
苦しいのならば分けて欲しいのだ。
何ができるわけではないが、聞いてあげることぐらいはできる。
だからこそロキは急がない。何も聞かなければ言ってもくれないのだとしても、今は繋がった手が少しだけアルスの体温と一緒に苦悩も伝えてきているように感じるのだから。
二人は静かに歩き出す。
肩と肩が触れ合う距離が互いに語らずとも通じ合えているように思えた。