目標
翌日、テスフィアとアリスが目覚めたのは正午を過ぎてからだった。燦々と秋の乾いた陽光を窓から差し込ませ、心地よい寝起きと言えるだろう。
数日間溜め込んだ睡眠時間が一気に押し寄せたかのように未だ頭の回転は鈍い。瞼も重く、目は開けたもののすぐに起き上がりたいとは思えなかった。
まるで示し合わせたように二人は枕も敷いていない頭を動かし顔を見合わせる。どちらが先に起きていたのかもわからない状況、されども昨晩のことは良く覚えていた。
溜まっていた鬱憤を全部ぶつけあった後だ。どこか胸が軽く、清々しい気持ちだった。
開口一番、二人はお互いの寝顔の酷さに笑い出す。それはきっかけだったのだろう。何かが可笑しいわけではなかった。
ただ、心のしこりが解消されたことに笑う他なかっただけだ。嬉しさ故にクスクスと口を抑えても溢れる笑み、綻ぶ頬を止める手立てなどないのだから。
ひとしきり笑い終えたテスフィアとアリスは昨日眠ってしまう前に立てた誓いを確認する。
「忘れてないでしょうね」
「もちろん、フィアもだよ。婚約までしてるんだから」
「わかってるわよ。それにあいつだってその気はないみたいだし、私だって気が進まないもの」
「うん、私もこの気持ちが本当でも今は何もするつもりはないよ」
「えっ! アリスは……その、告白とか、って……」
顔を赤らめながらテスフィアはアリスの目をしっかりと見つめていた。
それに答えるのは簡単だろう。だが、昨晩話した通り二人はアルスのことを何も知らない。
「今は考えてないかな。きっとフェリ先輩やロキちゃんには先を越されるかもだけど、私はスタート地点にすら立ててないと思うの。もっといろいろ知らなきゃいけないことがあるんだよ」
「だね。まだまだ魔法師として強くならなきゃいけないし、専業主婦なんて私の柄じゃないもの、あいつだってずっと外界に出てるような奴よ」
「フフッ、でも足手纏いにはなりたくない。力も心も強くならなきゃ」
「やっぱりアリスは強いわね」
「フィアだって」
それに対してテスフィアはゆっくりと頭を振った。
「ううん。まだこれから、これから強くなるの。今だから思うんだけどロキはアルをずっと見てきたんだと思う。だから一人で背負わせないために寄り添うことを選んだんだと思うの。思い出すだけでも恐いけど、それをしなければならないアルはもっと辛いんじゃないかなって」
どこか照れくさそうに吐露するテスフィアは精一杯破顔して告げた。受け売りだったが今の自分には一番わかりやすい言葉だ。
それはどこかアリスにもわかる気がした。
「そうだね。苦しい心があったはずだよね。少なくとも私たちが知っているアルは学院での仏頂面が似合ってるもん。きっとロキちゃんだけじゃ背負いきれないよね」
「仕方ないわね、あれで繊細だし。だから私たちがほんの少しでも持てるようになればあいつも楽できるんじゃない?」
「元々はアルが楽したいがためだしね」
すでに言質は得ているというようにアリスは悪い笑みを張り付けた。
「今だからこそわかることもあるのね。あの時は惰性も甚だしいって思ったけど」
「それはフィアだけね」
プイッとバツの悪い顔を背けるテスフィア。
だから、だからこそ――。
「「それまでは抜け駆けはなし」」
一つの目標を得たテスフィアとアリスはアルスが抱える問題に対して今は力不足を受け止めた。そしてすべきことを認識し、それに向かって新たなスタートを切るのであった。
だが。
「でも、アルが戻ってくるまで訓練ってどうなるのかしら」
不意に浮かんだテスフィアの疑問は最も肝心でありながら言われるまでアリスも気づくことができなかった。
少しでもアルスに近づくために魔法師として身も心も強くならなければならないのに、その方法を示してくれる当人がいない。
当然だが、学院の講義や実技では到達することなど叶わないだろう。
そんな時、見計らったように規則正しいノック音が室内に響く。
入室の許可を得て姿を見せたのはドアの向こう側でタイミングを図っていたのかと邪推してしまいそうな微笑みを浮かべるセルバとミナシャだった。
ミナシャは薄っすらと涙を浮かべて指の腹で目元を拭っている。
「グスッ、お嬢様もアリス様もお強くなられましたね。お二方は十分魅力的な女性です! このミナシャが保証しますとも、えぇ、えぇ――」
ウンウンと頷き、何故か力説し始めそうなミナシャの前にセルバが踏み出す。
「お嬢様、アリスさん、お二方ともフローゼ様がお呼びになられております。と思ったのですが……まずはお風呂を沸かしておりますので、疲れを洗い流すのがよろしいでしょう」
恭しく腰を折るセルバにテスフィアとアリスはお互いの全身を見て「ハハッ」と空笑いを浮かべるのであった。
凡そ一時間後、二人は用意されていた服に着替えてフローゼの執務室を訪れた。
なお、アリスの衣類が寸法から何までピッタリだったのはあえて追求しないほうがいいのだろう。万能な執事がもしかすると即席で作ったのか、はたまた事前に用意されていたのかまでは執事のみ知る処だ。
アリスは以前とは違う雰囲気に親友の成長を見た。
前はこの扉をノックするのでさえ躊躇いがあり、自分に代わってくれないかと頼んできたこともある。それも随分と前の話なのだが。
しかし、今は毅然とした歩調でノブを回していた。
直後――。
「ノック!!」
室内の奥、ベランダに面した執務机、椅子の背もたれに背中を預けていながら背筋の張った、姿勢の良さすら伺える様相。フローゼは足を組んで最低限のマナーを違反した娘に対して叱咤の声を上げた。
目の前で躓くようにビクンと肩を上げたテスフィアは瞬時に頭を下げ「も、申し訳ございません!!」と大声で謝罪する。
見るからに不機嫌、というよりも呆れの色が濃いフローゼは額に指を押し当て頭痛を訴えるポーズをとった。
「ハァ~、まぁいいわ。入りなさい。それとアリスちゃん、ありがとうね」
「い、いえ!?」
胸の前で滅相もないと両手を振るアリス。
横目で見たテスフィアは皮肉なのか、緊張を解くためなのか「そうね、私も感謝しているわ。でも、とんだ伏兵ではあったけど、ね」と何故か嬉しそうに発した。
当然、アリスは親友であるテスフィアだからこそ自分の気持ちを伝えられたのだ。それを他人に漏らすようなことをされて狼狽は隠せない。
すぐにテスフィアの顔を見て頬を膨らませた。
自分は周知されているのだから道連れだ、と言わんばかりの非道な顔。片側の口角だけが裂けたようにニヤリと持ち上がる。
「フィア!! わわわわわたしは……その……!」
必死の弁解を紡ごうとした時、アリスの口は呆けたように開けたまま固定された。
微笑を張り付けたままのフローゼとそれを我が事のように喜ぶセルバが立っている。
初めて聞いたはず、テスフィア以外には話していないはずなのに、どこか見透かされた面持ちだった。
そして違和感を残したままにフローゼは口を開く。
「そうね、フィアもちゃんと表明したことですし」
「えっ……お母様? まさか昨日……」
「さ~ね~」
流し目でさえ艶っぽさを醸し出すフローゼの視線の先を追い、テスフィアの疑いの目はセルバへと向く。
「奥様もお人が悪い。お嬢様、ご安心ください。偶然ドアが開いていただけのことです」
「――!! 白々しい、何がぐうぜ……」
「久しぶりに涙腺が崩壊して、それはそれは……」
わざとらしく純白のハンカチを目元に充てがうが演技っぽさは拭えない。ただハンカチが湿っているのは確かなようだった。
さすがのアリスも小芝居にほだされてツッコミを入れる期を逸した。羞恥はあるが、テスフィアの家族ならばと泣き寝入りするのもやぶさかではないのかもしれない。
問題はフローゼがテスフィアにアルスを、と考えているはずなのだが、それについてアリスが掠め取るようなことを看過するのかということ。
しかし、そんな切迫したアリスの表情を汲んだのか、フローゼはまたも見透かしたように素っ気なく答えた。
「アリスちゃん、大丈夫よ。心配しているようなことにはならないんじゃないかしら、シングルともなれば一夫多妻なんて軍公認のようなものよ。もちろん彼を口説き落とさなきゃいけないのだけれども。まったく変なところで順位がものを言うものよね。あなた達次第では……フフッ」
手で口元を覆い、いらない勘繰りをしていますよと言わんばかりに口端が隠れていない。絵になる姿にアリスは何も言えなかったが、テスフィアは母の表情に好色を見ていた。
フローゼの諭すような口調はアルスの今置かれている状況を棚上げにしていた。軍の動きを把握している彼女はアルスがどれだけまずい状況になっているかを二人には話せない。
だから、これは彼女たちを元気付けるための御為ごかしに過ぎなかった。
フローゼでさえできることが少ないというのに、二人がしゃしゃり出た所で不安要素が増すだけだ。もちろんテスフィアと娘同然のアリスには望んだ相手と結ばれるに越したことはない。
これはある意味で決断を迫られる選択だった。引くなら今しかない。婚約を破棄し、婿候補へとコンタクトを取る。
この婚約が広まり、アルスが疑いも晴れぬまま罪人として捕らえられてしまえば、フェーヴェル家が負うダメージは計り知れない。今の今まで苦悩していた案件だった。
彼は迷惑は掛けまいと言うが、すでにことは大きくなりすぎてしまっている。
「お母様、婚約書をいただいてもよろしいですか?」
「構わないわよ」
唐突な申し出にフローゼは処分に困っていた婚約書を鍵の掛かった引き出しから引っ張りだす。
これを早々に破棄して良いものなのかが問題となっていた。口約束とはいえ、通常貴族の裁定終了後に即破棄しなければならないのだが、これはこれで使い道はあるのだ。
捺印した時は正式な婚約ではないとは言え、フローゼは肩の荷が降りたのを感じた。
羊皮紙は厚手。婚姻というものの重みの象徴。
互いのサインが入った紙をテスフィアは受け取ったのと同時に真ん中から勢い良く破り捨てた。
「――!!」
切れ目が中程まで到達した段階でフローゼは言葉を飲み込む。そして綺麗に半分へと姿を変えた婚約書はその効力をも失う。
内心では我が娘ながら浅薄過ぎて頭が痛い。だが、これはフローゼがとやかく言う問題ではないのかもしれない。
この婚約書があれば正当な理由でフェーヴェル家がアルスの抱える問題に介入することができるが、それも博打。逃がすには惜しい婿だが、同時にチップは家となる。何代と続いたフェーヴェル家を賭けられるのか。
最悪共犯として懲罰の対象になる可能性すらあった。
だからこそ扱いに困っていたのがこうなっては手遅れだ。いや、もしかするとそんな予感を抱きながらもテスフィアに渡していたのだろう。
故に口を挟まないし、それについて浅はかだと叱りつけることはしない。
ただ――。
「いいのね?」とだけは確認しなければならなかった。ゆくゆくはフェーヴェル家を背負って立つのだ。彼女の決断が後のフェーヴェル家を作っていく。
その決断に後悔がないのならばこれ以上は言うことはなかった。
「はい、こんなものでアルの足を引っ張ることだけはしたくないの。こんなモノがなくてもアルから申し込まれるような女になります。彼を振り向かせて見せます。だから軽薄なことだとは思いますが、約束だけは違えたくありません」
凛とした佇まいは貴族としてまた一つ成長を見せた。
我が子の成長が嬉しく思う一方で寂しさも感じてしまう。子は親の目の届かないところでこそ育つのだと思い知らされた――いつまでも見えない暗がりを照らしてあげることはできないのだと。
親を追い抜き、引いてあげていた手を今度は追い抜き、子供が自分を引いていく。
ならばその歩みを止めることはできない、親として、してはいけないことなのだとフローゼは繋いだ手を放す決意をした。それでもまだまだ道に迷うことはあるのだろう、そんな時にでも肩に手を添えて示してあげればいい。
歩みが止まれば優しく背中を押してあげればいい。それだけのことなのだ。
今になって気づく自分が少しだけ情けなかった。
「アリスちゃんも?」
「私もフィアと同じです。すぐにどうこうなることではないですけど、少しでもアルの力になれるなら、アルが居たいと思ってもらえるなら、私はそれでいいんです。好きだけど、今はアルが居たいと思える場所があればいいし、なければ作りたいんです。それで……それで……そこに私がいたらいいなって」
蒸気すら立ち昇らせてしまうほど紅潮したアリスは支えつつも最後まで言い切った。
彼女もまた一人の女性として成長著しい兆候を見せる。
そんな二人にできることがあるのだろうか。フローゼは胸中で「いいえ」と呟いた。できることがあるかは彼女達が本当に求めてきた時にこそ応じればいい。
感傷的な気持ちはここまでだ。そう言い聞かせるも、二人の背後で滂沱の如く涙をハンカチに染みこませるセルバに頬を引き攣らせながら本題へと入る。
だが、テスフィアとアリスも同様の疑問を持っていたのか、先に問う声が上がった。
「それでお母様もお忙しいと思うのですが、私たちに訓練を付けていただけませんか?」
「私達ずっとアルに見てもらっていたので何をすればいいのか……」
どこか申し訳なさを感じさせる娘はさっそく手を差し伸べた。
いくら何でも早過ぎると思ったが、今回に限り手を受け取ることはできない。
「その前に二人共学業は疎かにしてはダメよ。訓練にばかりでは先が知れるわ。きっとアルスさんも単純な魔法の力だけを求めていたわけではないと思うけど?」
「も、もももちろんです!!」
挙動不審な娘はやはり不安であった。さすがにあわよくば学院を休んで良いなどとは考えていないことを信用するしかない。
「本当ね? 本末転倒では彼をがっかりさせるだけだから履き違えないように……セルバ……セルバッ!」
「は、ハイッ!?」
鼻を啜りながら老執事は執務机の端に置かれている花瓶台の上から二つの小包を持った。
どちらも相当な厚みに二人して小首を傾げる。
一体全体なんのかまるで見当もつかないまま受け取った。
「あなた達の訓練に関しては私の出る幕はないわ」
「そんなっ!?」
「まっ、中を見てみなさい」
しょげた顔を浮かべながらテスフィアは丁寧に包装された包みを解いていく。
そしてチラリと中から見えたそれをテスフィアは反射的に拒絶した。
「ゲッ!!」
「あらら……」
何ともお見通しと言わんばかりのマニュアル。
どこかの歴史書、はたまた目録のような厚み。
パラパラと捲ってみれば、アリスの訓練内容が事細かに明記されていた――下手くそなイラスト付きで。無論テスフィアにも内容の違ったものが。
そしてテスフィアも最初は難しい顔をして中を覗いていたが次第にその表情はやる気に満ちてくる。
これは二人に対してアルスがマニュアル化したものであり、万が一のために後の訓練内容を事前に記したものだった。メニュー表とでも呼ぶべきだろうか、そこには教科書すら凌ぐ厚みがあるが。
目次から始まり、終わりまでは300ページを超える。
そして誰に対しての指南書かは明らかだ。個人専用とも言える内容はアリスやテスフィアの癖までも記されていた。
それを見たテスフィアは顔を顰めながら瞬時にページを飛ばす。
尖った口はもしかすると自分はアルスのことを何も知らないのに、彼は自分のことを何でも知っているふうに感じたからかもしれない。
「わかったかしら、アルスさんはある程度想定していたのかもしれないわね。魔法は日々の積み重ねですからね」
一旦閉じた二人は真正面から放たれたフローゼの助言を胸に刻む。
頷いた顔はやり遂げる熱意に満ち溢れていた。
唐突にフローゼはそうだったと付け加え。
「そういえばブドナの工房を二人は知っているの?」
呼び捨てられた名前を二人が既知としていたことに、フローゼは少し驚いたように足を組み替える。
軍にいたフローゼだ、当時からAWRの製造を一手に任されていたブドナを知らないはずもない。ただ職人気質過ぎて頑固なブドナを彼女は苦手としていた。
歯に衣着せぬ言い方をすれば軍自体が持て余していたのだ。
無論、その腕前は一級品。彼女が認めずともAWRの技術職人内では知らぬ者はいないとさえ言われている名匠だ。
故に軍から離れていくのは目に見えていた。
「一応面識程度ならありますけど」
「あのお爺ちゃんだね」
ぎこちない返答とは真逆にアリスはだいぶ親しみを持っているのだろうか。
そんなことを思いながら貴族の裁定中にロキから言われた内容をフローゼは思い出す。
「アルスさんから言伝を預かっているの。フィアに一度ブドナの工房を尋ねろ、と。私も詳しくは聞かされていないわ。一応伝えましたから」
「は、はい。でも何でしょう」
「行ってみればわかるんじゃないの?」
思い当たる節がないのはテスフィアもアリスも共通していた。唸りながらテスフィアは考える。あるとすれば預かり物だろうか。
アルスが戻ってくるまでの間預かっておいてくれという意味なのかもしれない。
「フィアに指名かぁ~」
残念そうな顔でアリスは呟いたが、全く心当たりがないのに考え続けるテスフィアは聞いてすらいない。
何かを預けるという意味ではまさに絶好だろう。すでにアルスの研究室は全て押収されてしまったのだから蛻の殻。
押収されないためにブドナの工房に一旦避難させたとも考えられた。
「何はともあれ、行ってみなきゃわからないよ」
「そうね~。どうせなら何なのか前もって言ってくれればいいのに」
それができないからの言伝なのだが、口を挟む者はいない。これが普通の魔法師やAWR職人ならば気になることはないのだが、アルスという名匠ブドナに引けを取らない天才が言うのであれば巡らせる予想は際限がない。