乗り越え方
フェリネラはアリスに対して言伝を伝えただけだ。
理事長を通しての伝言。たまたま居合わせた彼女が余計なお節介を焼いたというだけの話だった。
それはフェーヴェル家からの一報であり、理事長であるシスティにお礼の言葉の後に頼まれた。
だから少しだけヤキモチを焼いてしまうのは致し方無い。本当に羨ましいぐらいにアリスとテスフィアは仲が良いのだから。
それはフェリネラとイルミナのような関係なのだろう。ただ彼女たちの場合はお互いが貴族同士ということもあり何の垣根もなく、というわけにはいかなかった。
あらあら、とフェリネラはどこか嬉しそうに眺めた先には開けっ放しのドアがある。
そしてここの住人は彼女を残して脇目もふらず、AWRを握りしめて走りだしてしまったのだ。
「では、私もできることからしましょう」
立ち上がったフェリネラの瞳は真っ直ぐを見るための光を灯す。
少しだけ打算があるのが後ろめたくもあったが、彼女がこうしてアリスの部屋に来たのは紛れも無い思いやりからだった。
同じ男性に心を惹かれた者の共通点とでもいうのだろうか。
だからこそ、フェリネラは少しだけ嘘を含ませた。できることがないのは彼女も同じだが、それは全くというわけではない。
今回の件では父であるヴィザイストが深く関与しているため、その末席ぐらいにはお手伝いができるのではないかと考えていた。
さすがに今回ばかりは一筋縄ではいかない気もするが、フェリネラとてアルスの窮地に何もできないことの愚かさは想像するまでもない。
と、同時に胸の奥からムカムカとした感情が湧き上がってきていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻。いつもよりも体感として暗くなるのが早い気がするのはやっと冷静になれたからだ。
アリスは何の支度もなしにフェーヴェル家へと訪れていた。
たった一つ、鞘に収めたAWRを持ち。
何故これだけは持ってきたのか……そのしっかりと握る手を見て、すぐに悟った。
テスフィアとは良き友人であり、良きライバルだ。競うのはいつだって魔法の技術。
だからなのだろう、アルスの元で切磋琢磨した僅かな時間も鮮明に思い出せた。
二人を繋ぐものは他にいくつもあるが、真っ先に思いつくのは必ず魔法の単語が含まれる。そんな無意識の表れがAWRだ。それにアリスは何をすべきなのかを理解していた。
正しいのかなど本人でさえわからない。
けれども。
(悔しいから、嫌だから……役に立てないのは)
セルバが敬々しく腰をおり、屋敷内の案内を申し出たがアリスは断った。過去に度々訪れたことのある屋敷内でテスフィアの部屋を見つけるのなんて目を瞑ってもできる。
それに廊下を歩く度に過去を振り返り、前を向く清算の時間でもあった。
(だから、フィア。私は前だけを向くよ)
そうアリスが決意するのも数日前の出来事が大きい。
誰もいないはずのアルスの研究室。研究棟から多くの軍服を着た軍人が出てきたのを目撃した時だった。荷物を運ぶ彼ら以外は立ち入りが禁止されていた。
だが、アリスはそんなもの目に入らないとばかりに最上階まで駆け上がり、閑散とした室内を目の当たりにしたのだ。
どこに何があるのか大まかな室内の記憶が一瞬で消されていく。
そこはアリスの知る研究室ではなかった。押収されていった研究室。真っ白な室内、ただ広く、ただ単に広い。空虚とか閑散なんて言葉では言い表せない不安の集合体。
あるべき日常の風景は、何一つ欠けてはならない“なければならないモノ”なのに……。
失われた景色、初めて来るような感覚にアリスは為す術もなく腰を落とし、胸中で失墜の言葉が囁かれる。
――また失くなってしまった。
それでも気づくことができたのだ。そう、何も変わりはしない。変わってしまったのは自分なのだから。
(もうあんな思いはしたくない)
自分へと叱責するかのような言葉は何度として繰り返された。たったこれだけのことに気づくことさえフェリネラの手を借りなければならない。それほど己の幼さを痛感した。
けれどもそれは戻っているわけではない、そこから始めれば良いだけのことだ。先に続く道と後ろへ続く道、どちらを選ぶかは自分自身に委ねられている。
フローゼは多くをアリスに語らなかった。ただ「一先ず会ってもらえる?」と穏やかに告げた。
どうやら怪我をしていないのが幸いだったが。
◇ ◇ ◇
少女は布団に潜り込み、震えの止まらない身体を抱いていた。
脳裏に焼き付いて離れない凄惨な光景。恐ろしかった。怖かった。身の毛もよだつむごたらしい死が今もフラッシュバックする。
あの嗅ぎ慣れない臭いまでもが鼻につくのだ。
そんな光景を生み出したアルスが無表情で平然としているのが何よりも怖かった。そしてロキに言われた言葉を必死で理解しようと努力するが、身体がそれを拒む。
食事を摂ってはすぐに吐き出す。こんな世界があるなど学院では教えてくれなかった。誰も教えてくれなかった。
いや、アルスという人物にあって裏の仕事があることは知識として知っていたが……どこか甘く考えていたということなのだろう。
テスフィアは掛け布団を身体に巻きつけ、涙を絞りだすように目を強く瞑る。
去り際に見せたアルスの表情が彼女にはわからない。何を思ってあんな寂しそうな顔を向けたのか、声を発さなかったのか。
だからこそ、テスフィアはあの時に自分がアルスに向けた表情はどんな顔だったか思い出すのが恐ろしかった。
本当はわかっているのだ。
まるで化物でも見るような目をしていたに違いないのだから。
そんなことが一瞬脳裏を掠めていき、またテスフィアは何者も拒むような涙を流した。
そんな時だった。ベッドの上で蹲るテスフィアの傍で誰かが座ったようにマットレスが沈んだ。これほど至近距離にこなければ気づけない状態だった。
またセルバが来たのだろうと思ったが、彼がベッドに座ることなど一度としてない。
誰とも会いたくないのにと思ったが相手の顔を確認することができない。
疑問をそのままに「出ていって」と口にしようとしたその時。
「フィア」
「――!!」
聞き間違えるはずもない。けれどもいるはずもない声にテスフィアは目を見開き、強引に涙を拭う。
続いて背中に添えられた彼女の手がどうしようもなく心を掻き乱す。
「ねぇ、フィア。何があったの? 貴族の裁定は勝ったんでしょ」
弱々しい頷き。
ならば、彼女がこうして部屋に閉じこもる理由などないはずだ。しかし、アリスは急かさず順序を追う。何かがあったのは間違いないからだ。
そしてそれはテスフィアの心を蝕む類のモノなのだろう。決して人事ではない、自分も無関係では決してない、そんな予感がアリスの声を緊張させつつも明朗な言葉を発していた。
子守唄のように包容力のある声音。
静けさだけが充満する室内に響き渡った。
直後、掛け布団を跳ね除けて、縋るようにアリスへと抱きついたテスフィアは彼女の顔すら見ずに飛び込んだ。
しっかりと受け止めるアリスはボサボサになった髪を丁寧に撫で付ける。
苦しかったのだ。見下ろしたアリスはそれだけは確かなこととして抱きしめ返す。
嗚咽を堪えるような震えは悲しみ故のものではなく、恐怖が駆り立てられたそれによく似ている。アリスはじっとテスフィアが落ち着くのを待った。
一言も発さず、彼女の準備が整うその時までいくらでも待つつもりで。
やっと語り出されたテスフィアの内容は正直ごちゃごちゃで脳内補正するのに苦労はしたが、口を挟まず相槌を繰り返した。
テスフィアが何を感じて今に至るか、あの時に目を逸らしてしまったことの後悔。拒んでしまったことの自責。
それが覚悟のなさを証明しているかのようで……魔法師という現実から目を逸らしていたようで、否定したい自分が怖かったのだ。
夜も更けた時、全てが吐き出された。
無論、アリスも他人事ではない。その場に自分が入ればきっとテスフィアと同じ道で立ち止まっただろう。そう感じずにはいられなかった。
だからこそわかる。今だからこそわかる。
ポツリとアリスはベッドの上に座り直して、テスフィアの真正面へと移動し。
「私達、何も知らないんだね。アルのことも現実も……いつかロキちゃんが言っていたよね」
「…………」
「アルがどれだけ戦ってきたか、それがどれだけの人を救って今のアルファがあるか。あの時はわからなかったけど、もうそれじゃ済まされない」
「アリス?」
縋るような目を向けてくるテスフィアとは対象的にアリスは毅然と真っ直ぐ瞳の奥を見つめた。
「たぶんだけど、普通に学院を卒業して魔法師になるならきっと知らなくてもいいことなのかもしれない。でもね、その道はアルと交わる道じゃない。だからアルやロキちゃんは最初から私達とは別の世界を見ていたんだよ。おかしいよね、そんなことにも気づけないで魔法を教えてもらって浮かれていたんだもん。きっと私達はどこまでいっても他人でしかない。これ以上先には踏み込めない……」
「アリス、何をいって……」
テスフィアは自分の両手が強く握られ、見下ろす。そこには伝えたいことが気持ちの先行であって覚悟が未だ追いついていないような怯えも含まれている。
眩しく、強い光を放つアリスの声と言葉はテスフィアが予想していたものとは違ったのかもしれない。
「だから私はアルの全部を知りたい。それでも、それでもね。きっと恐いと思うの……目を背けちゃうと思う」
アリスもまた涙を浮かべ嗚咽を堪えるように無理に微笑んで見せる。
「でも、もう離れたくないって思っちゃうの。何もできないと知っていながら我儘になっちゃうの。フィアがアルを好きなのも知っている。それでも私はアルが好き……」
ううん、とアリスは心の中を探るように顔を振り。
「…………大好きなの! 一緒にいたいって、傍にいたいって凄く思うの」
驚きに目を見開いたテスフィアはアリスの手を振りほどきたかった、拒みたかった。しかし、それをさせない彼女の力を見て、諦めた。
逃がさないようにしっかりと握られた両手。
まるで自分に回答を急くような強制力を感じる。
「でも……でも……」
「でもじゃないよフィア。こんなふうにアルを恐いと感じても私にはわかるよ。好きだから悩むんだよね。好きだからこそ悔しんだよね。自分が許せないんだよね。本当はね、フィアが諦めるなら私はそれでも良かった。でもやっぱりフィアが今も好きなら応援したいんだ……矛盾してるよね」
ヘヘッと無理に笑うアリスの声は震えていた。テスフィアと同じ状況を見ていたわけではないが、アルスがしたことは彼女にもそれがどういう恐怖で悍ましいことなのかだけは理解できる。
でもそれ以上に今はアルスを悲しく思えてしまうのだ。
胸の内を詳らかに言われ、テスフィアは涙だけを頬に伝わせる。
「アリスごめんね。気づけなくてごめんね。自分ばかりでごめんね」
大声を上げて泣きつくテスフィアにアリスも抱きしめながら堪えきれなくなっていた。
「ううん、私もごめんね。弱くって脆くって肝心な時にいなくって」
「怖かったの、別人みたいで、私が知らなくて……それを私が拒んだの……拒絶しちゃったのぉ」
「うん、うん……うん」
その日、夜遅くまでフェーヴェル家邸宅内の一室は眠らず、明かりと一緒に少女たちの声が漏れ続けていた。涙は乾き、頬に跡を残して一つ一つ吹っ切っていく。
人生というものに壁があるとしたら、それを乗り越えた瞬間だった。いや、もっと言えば乗り越えるための覚悟を決めた一夜だった。
本当の静寂が訪れたのは陽が昇り、黎明の光が闇を遠ざけ始めた頃だ。
その静寂を嬉しそうに見届けたものが二人。この時期に寒さを顧みず窓を開け放ち、漏れ聞こえる声に耳を傾けていた。
「お二方ともお眠りになられたようですね」
「そのようね」
「アリスお嬢様をお呼びになられて正解でした」
「あの子たちは昔からお互いをよく知っているからね。今回ばかりはフィア一人では難しかったでしょう。本当なら知らなくてもいいことよ、それでも目を背けていいことではないわ。あの子が目指す魔法師はそういう世界を突きつけてくるのだから」
「そうは言っても奥様。随分と肩の力が抜けたように見えますが」
窓を閉めたセルバは髭を震わせて嬉しそうに発した。
「何が言いたいのかしら?」
「いえ、お仕事のほうが疎かになられているようでしたので」
「…………」
自分の手元を見下ろしてフローゼは眉間に皺を寄せ、不機嫌な目を執事に向けた。
そして一息つくための溜息を漏らしながら視線を横にずらす。そこにはつい先日軍から届いた荷物が置かれている。
アリスを呼んだのも、少なからずこれが届いたせいもあった。いや、これは貴族の裁定の時から考えていたことだ。
まさかあんなことになるとは思いもしなかったが、これも良い機会だ。
二人の娘に対しての課題としては……。だが、そんなものは課題にすらならなかった。杞憂だったことにフローゼは頬を緩ませる。