前日~上~
五月二十七日、翌日の課外授業を控えた前日である。
校内では日に日に増した緊張感がピークに達していた。張り詰めた空気は悲壮感を漂わせる一年生のものだ。
課外授業の報を受けてからグループメンバーの勧誘と同時に放課後の訓練場は予約で今日までの割り当てが一瞬で埋まるという事態になっていた。もちろんその優先権は本来とは逆で一年生にある。それでもということだ。
訓練場では心的ダメージに変換されるものの、これが外界に出るとなればそれこそ命に関わる。
そんな経験を人生で一度も経験したことのない魔法師の雛は無事に帰るためにも正しい訓練なのかもわからずにひたすら訓練に勤しむ。そうでもしていないと不安でしょうがないのだ。
全体的に魔法が使用できる場所がなく苦情の声が上がった。これを受けた学院側は訓練場以外での魔法の使用を一部エリアを解放することで騒ぎ立てた生徒を収めた。
元々魔物相手に対人戦をやってもあまり意味がないため、反感の声はそれ以上上がらなかった。
そして一週間前にグループメンバーの発表があり、その後作戦や連携などの話し合いがそこかしこで見られ始める。
授業の内容も急遽変更が強いられ、主に魔物に関するものに変わった。
テスフィアとアリスは一年生内ではトップの順位だ。そのグループ分けで二人が一緒になることは当然ながらない。
つまりは五人の順位の平均を取ったということなのだろう。
理事長はさらにグループをランク付けし、不安要素のあるグループから校内の上位ランカーを監督者として振り充てた。
生徒達の顔は確かに緊張を湛えてる。
それでもいくばくかの焦りは緩和されているようだった。それが上級生が加わることによるものなのかはわからないが、アルスは実際に魔物を見たことがないからだろうと推察する。
確かに最初こそ不安の滲む硬い表情を浮かべていたが、魔物の脅威に触れたことがない生徒達の危機感を良くも悪くも時間が薄れさせたということなのだろう。
「今日は明日に備えて訓練はなしにする」
昼時の昼食。食堂のテーブルに着いたいつもの四人(フェリネラはいない)。これが定位置にならないことを願いながらアルスは口を開いた。
この切り出しは唐突だったが、すんなりと受け入られたのはアルスから提案しなくとも二人が申し出たからだろう。
以前のような単純な魔力操作とは違い、棒を使った魔力の押さえ込みは実際に魔力を消費するため、翌日に疲労を残してしまう。
「そうね。私も放課後はメンバーとの打ち合わせが必要だと思っていたし」
「了解! こっちも似たような感じかな」
理由を理解したのだろう、反論はない。
やることはやれたとアルスは思っている。
明日になればわかることだが、訓練の成果は予想以上だということだ。
授業が終わった後も、誰一人として帰途につくものはいない。アルスとロキを除けばだが。
「明日は忙しくなるぞ」
「はい」
テスフィアとアリスは他の生徒同様に残って明日に向けた準備をしているはずだ。
だから今はロキと二人の帰宅になる。
この後の予定は一度理事長室で簡単なおさらいのみ。
なんだかんだで今日までのほぼ毎日通っていることになる。
そのおかげもあってアルスの見込みでは話合いでの改善はもう見られないほどだった。
一応の交換条件といった趣が強いため、アルスも手を抜かなかった。
それでも万全を期せたわけではない。
結局のところは生徒達の力量次第ということだ。最初に理事長がアルスに協力を願い出た時に言った通り被害の軽減でしかない。
ロキのほうでも役割の重要性を理解しているだろう。実戦経験が豊富なサポーターは満足な仕事に期待できる。
唯一の懸念……それは増援部隊が役に立たないことだ。上級生でも監督者を差し引いた優秀な生徒を選別しているが、九割が実戦経験のない者達ばかりなのだ。
「ロキ、尻拭いは俺がする。お前は持ち場を離れるなよ」
念を押す。事前の話し合いでロキには二言三言重ねて来た。
アルスの尻拭いはそうした役に立たない可能性のある増援部隊に対してのものだ。
確認のための言でもある。
「畏まりました」と軽く目を伏せるロキはいつものように無表情で緊張のかけらも感じていないようだった。
実際に高レートの魔物と遭遇する可能性は低い。
万が一、侵攻があっても設置型の常駐型探知魔法で捕捉することが可能だ。
範囲は防衛ラインから20kmに渡るため、確認後に撤退しても遅れることはない。
♢ ♢ ♢
研究室の前……扉を開けるのはロキの役目となっていた。同じ部屋に住むにあたり不便のないように魔力による個人登録は済ませてある。
パネルに手を翳したロキの魔力で識別認証を済ませると、カチャッとロックの外れる音が三回、扉がゆっくりと開いていく。
ロキはその都度感慨深いといった含み笑いを浮かべる。一度不思議に思ったアルスが尋ねたが――――楽しいか? といった味気ないものだったが――――返ったのは「当然の役目ですっ」と語尾が跳ねた浮かれ混じりの声音だった。
研究室内部はこの一カ月で変化を見せていた。
というのもロキが完全に住み着いたことに端を発するのだが。
広すぎる研究室の一角では簡易型の仕切りが設置された。寝室はあるのだが、アルスの私物を含めずとも二人では手狭だ。
テスフィアの指摘も受け、簡単な部屋を作った。ロキにも不満があったようだが、これは最低条件だと譲らなかったことで渋々承諾してくれた。
元々機材などが鎮座していても、余りある部屋だ――寝室が狭いだけで。
ロキ一人分の場所を取ってもスペースはまだ十分に残っている。
本来ならば僅かな時間も惜しんで研究に没頭するのだが、この日は違った。
最後となるだろう理事長との約束の時間は夜が更けてからだ。研究に充てるには十分な時間なのだが、アルスは寝室の一角に隠れるように置かれた漆黒のケースを引っ張りだした。
その背後でロキが不思議そうな顔で控える。
「またこれを使うとはな」
ロキに対して放たれたものではなかったが、背後から単調な問いが投げ掛けられる。
「なんですか?」
いつも姿勢を崩さず、整然と直立するのだが問いに乗じて覗き込むように体を傾けていた。
「俺のAWRだ」
綺麗な漆黒のケースの上を手でわざわざ払う。埃が積もっているわけでもないそのケースの上に、アルスは物憂げな視線を落とす。
「お使いになられるのですか」
「それが一番楽だからな」
見ればわかるだろとは言わない。
わかりきった返事は興味の色を帯びていたからだ。
アルスは留め金に魔力を這わせた。
するとカチッと軽い音の後、ひとりでに留め金が外れる。
慣れた動作で開けると、一振りのナイフが鎖を繋いで不気味な存在感とともに現れた。鞘の内部に鎖が収まるように少しだけ隙間が出来ている。
ナイフと言うよりも短剣に近いもの。
「――――!」
ロキが声を発せなかったのはアルスが刀身を抜いたからだ。
それは黒光りする刃、確実に魔物を屠るための圧力を感じるものだった。
それ以上にロキはその刀身に驚いた。
本来AWRは魔力を伝達し、スムーズに魔法を行使するための補助武器としての役割を持つ。難度の高い魔法を使用するためには複雑で難解な魔法式を隅々に刻みこまれなければならない。
それがこの刀身には見られなかったのだ。
いや、刻まれているにはいる。たった二文字だけ、それが何を意味するのかロキにはわからないが、不自然であることだけは確かだった。
それが最強の魔法師ならばなおのことだ。
アルスは眉根を寄せる彼女に答えた。
「魔法式は刻まれているぞ……こっちに」
アルスは鎖を掴んで勢いよく引く。
ジャラジャラと途切れることをしらない鎖が床に横たわる。
ハッと顔色が変わると何かに気付くようにして口を開く。
「触れてもよろしいですか」
それを目で「構わない」と告げるとロキは両手で掬う。
「――――! これ全部……この鎖の輪、全てに魔法式が刻まれているのですか」
「あぁ、使い勝手はいいぞ。もちろん全部の魔法を覚えなきゃならんがな」
魔法式をAWRに刻むことで補助することができるが、それは基本的に一系統が精一杯だった。
系統を補助するために刻まれる魔法式は魔法を構成するための基軸となる部分だけだ。それが最も効率が良い、汎用性があるとされているからに他ならない。
基軸となる系統の魔法式を複数刻むことは現実的に相克を来すため推奨されていない。というよりもデメリットのほうが大きいのだ。
魔法単体の魔法式の構成は複数の組み合わせによるものだ。【アイシクル・ソード】の場合、系統としての氷が魔法式の基盤になり、加えて収束、固定、座標、強度、さらには造形が含まれる。
テスフィアはこれを氷系統の魔法式のみのAWRでやってのけたのは偏に適性と努力によるものだろう。というよりこれが一般的だ。
系統の魔法式だけでも長文であるため、土台となる魔法式を刻むだけで相応のスペースを要する。
系統式だけを刻んだ場合。
メリットとしては系統に属する魔法であれば幅広く補助される。もちろん魔法の構成プロセスを簡略化することができるだけで、未熟ならば不足分の構成要素を組み込まなければ魔法として発現することはない。
魔法単体の魔法式を刻む場合は、一系統に+要素が加わるためさらにスペースを要するのだ。
たった一つの魔法しか使うことが出来ない代わりに完全詠唱破棄はもちろんのこと、魔法本来の力を引き出せるメリットがある。その代わり行使には魔法式を読み解き、熟知していなければならないだけでなく、何でも良いというわけでもない。
現実問題、詠唱破棄は出来たとしても魔法本来の力を引き出せる造詣の深い魔法師は少ない。それならば多彩な魔法を使えるほうが実戦では役に立つため、誰も魔法単体の魔法式をAWRに刻む者はいない。
「これ一つ一つが別々の魔法なのですか」
いつも無表情なロキが戦慄くのは仕方のないことだろう。
魔法式は大きく刻めばそれだけ、効率よく魔法の行使を補助してくれる。
逆に小さくすれば必要な式を刻み込めたとしても補助の恩恵を受けることは難しい。
戦っている最中に針に糸を通すような魔力操作が要求されるからだ。
魔法式は魔力を受け取ることで発光、魔法の構築を開始する。魔法師は意図した魔法の構成を念じることで後は勝手に具現化までの工程を魔法式が代替する。
それも具現化までのプロセスをなぞる必要があるため、未熟であれば一・二節詠唱を強いられるわけだ。
その式を縮小すれば魔法の構成式は組まれても具現化までのプロセスに不備が生じる。
それでは口にして詠唱するのと差異がなくなってしまう。
「これで魔法が発動す……」
ロキは最後まで言わずに思い止まった。
これで魔法が使えるから刻んでいるのだ。最強の魔法師であることの証明のように彼女を見つめる。
途中で思い止まったが、ロキは「失礼しました」と頭を下げた。
敬われるのは慣れているアルスも同棲するルームメイトにそこまでされるほどではないのだが、と苦笑いを浮かべる。
この返しに「気にするな」などと言えばロキは失言に打ちひしがれるかもしれない。
「大したことはない」
失言というほどではないと告げたことで、翳った顔に少し陽が差した。
「そうですよね」
『最強の魔法師なら難なくやってのけますよね』の意は何故か自分のことのように僅かに口の端が上がって見えた。
「ロキも戦闘はしないまでも戦える準備はしておけよ、何があるかわからんしな」
「私はいつでも臨戦態勢です」
もちろん外界で任務をこなしてきた彼女に対しては無用の心配なのだが。
ロキは腰からスッと投擲用ナイフ型のAWRを引き抜く。
「…………」
別に大したことではない。
ないのだが……ロキは制服姿だ。つまり、ナイフを忍ばせておけるようにアレンジが加わっているということだ。
いつの間に……というアルスの声は機を逸したために言葉として発せられることはなかった。
明日に備えた準備は然したる用意も必要なく、持て余し気味な時間は理事長との約束より早く向かうことで調整する。
「アル、ロキちゃん」
わざわざ声をかけるのは帰宅中のアリスだった。向かって来るのだからこんな距離でとも思う。
「随分残ったな」
これはアルスだからこその意外感だ。自主的な居残りはアルスからすれば頑張ったと思ってしまうのも訓練時と大差ない時間帯だからだ。
「みんなまだ残ってるよ。フィアもまだやってるしね」
それでか――。
二人をセット扱いしたくなるのも常に一緒にいるからだろう。
逆にこうしてアリスが一人でいることは珍しいとさえ思ってしまったのだ。
「相当悪引きしたんだな」
「ははっ」
力ない苦笑い。
断言しないのがらしいと言えばらしかった。
「フィアは4000位代だから、他の子がねぇ」
「俺の苦労がわかる良い機会だな」
後ろでロキがうんうんと賛同の頷きを繰り返す。
それが視界に入ったのだろう話題の転換を図ったのはアリスだった。
「二人はどこに?」
アリスも知っていることなので隠し立てする必要はないだろう。
「理事長のとこだ」
「明日のこと?」
「まあな」
「アルもロキちゃんもあまり遅くならないようにね。明日は朝早いんだし」
「理事長次第だが、頭に入れておく」
顔をしかめて心配するアリスには悪いと思いながらも具体的なことまでは伏せざるを得ない。
「邪魔しちゃったね。明日は頑張ろう……ね…………ロキちゃん」
『頑張ろう』でアルスを見たアリスは逆に失礼だと思ったが、取り下げるには九割方言い終えるところだった。引っ込みのきかない言葉は背後のロキに標的を変えることでなんとか言い終えた。
しかし、ロキに対しても無用の心配であることはアリス自身わかっている。
「…………」
「「…………」」
誰も口を開かない静寂。
この場の空気は原因であるアリスでも口火を切るのが躊躇われた。
アリスにしては珍しいと思った。それだけ不安だということだろう。テスフィアと違ってアリスは繊細過ぎる面がある。
「まっ何かあれば力は貸してやる」
歩き始めたアルスはすれ違い様にそう呟いた。
戦闘能力としては二人とも申し分ないはずだ。低レートの魔物ならば苦戦を強いられるとは考えづらい。それでもアルスが「大丈夫だ」と励ましたとしても未知の恐怖は拭えないだろう。
だから、力を貸してやると。
実際、面倒事を引き受けているのだから、それが増えたとしても大差ないといった安直なものだが。
それでも――。
「ありがとう」
満面の笑みを浮かべてアリスは予想していたとばかりに答えた。
その笑みは不安の要素が綺麗に取り払われている。それが一時の物だったとしてもこの時に抱えていた心の翳りは確かになくなっていた。
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