呪縛の開放
◇ ◇ ◇
アルスが逃走を図った二日後。
喉を詰まらせながら男は部下に対してどこか上手く立ち回れていないもどかしさを感じながら労った。
「悪かったな、嫌な役を任せることになって」
「それは言うな、俺が買ってでたことだ。俺の仕事とお前の仕事は違うが一人では限界もある。俺にできることに遠慮はするな」
二人の男はガラス越しの部屋で大凡一時間もの間じっと静観していた。ガラスの向こう側で行われる猟奇的な所業を黙って見つめていたのだ。
常軌を逸した行動原理、歪んだ思考。
ベリックは己が解体した魔法師育成プログラムの被害者に対してケアを怠った。ヴィザイストから言わせれば仕方のないことなのだが、自責故にこうして思い切った案を実行したのだ。
ノワールを更生させるのは無理とわかりながらベリックは皺の深い手を差し伸べた。初老の総督はその手に持てないほどの命を掬い上げてはいるものの溢れることまでは避けられない。人が人を救える数には限界があるということなのだ。
だが、ベリックは手から溢れた落ちたものも拾おうとする。だからこそヴィザイストも未だに彼の元で仕事をしているのだ。二つしかない手で持てないのならば自分の手を使えばいい。
四つならばまだマシだろう、と。
故にヴィザイストはベリックが提案した案に自ら買ってでた。ノワールという少女のことを思えば、これぐらいは何てことはなかった。
救える命には限りはあれど、彼女に関しては救わなければならない。誰かを見ているような、そんな使命のようにも感じたのだ。
ぐったりと布が落ちるように崩折れたノワールをガラス越しに見て、ベリックは溜息を吐き出す。
向こう側からはただの壁にしか見えない作りになっていた。
「これでモルウェールドの呪縛が解ければいいのだが」
「これからにかかっているな。痛覚を麻痺させる薬物の投与。意識の混濁を促すドラッグ。今後、抜けていくと同時に記憶の混同が激しくなる。ノワールは少しずつ記憶を取り戻していくだろうな。だが……」
ヴィザイストは職業柄その先の言葉を詰まらせた。
だが、有耶無耶にしてよいことなどなく、後をベリックが引き継ぐ。
「わかっている。彼女はもう後戻りができないところまで来てしまっている。薬が抜けようとも染まりきった心までは変えられない。わかっているなヴィザイスト」
「無論だ。アルスの後だ、心苦しくはあるが、それが彼女のためにもなる」
魔法師育成プログラム凍結後、軍の施設に入る子もいるが、基本的に里親を探すことが多い。その中にノワールも含まれていたのだ。モルウェールドはノワールが闇系統に適正を持っていることを事前に把握していた。いや、もしかすると一から私兵として育てるために必要としていたのかもしれない。
そういう意味では軍の魔法師育成プログラムは打って付けだったのだろう。そこまでは記憶を抽出することができなかった。
モルウェールドの狡猾なところはあえて自分が名乗り出ず、金で雇った親を引受人としたことだ。それも自分に足が付かないように慎重に行動していた。
「俺はもう行くぞ」
「あぁ、後は頼んだ」
隠し部屋となっている隣室は通路側から見れば扉がない。しかし、ヴィザイストが内側から認証コードを入力すると反対側の壁面に長方形の隙間が生まれ、扉が開く。
ガラス越しではヴィザイストが丁寧にノワールを抱え、元の部屋へと運ぶ。
「もう良いぞ。記憶のほうはどうだ?」
「これで限界ですね」
背後で目をカッと見開き、猿ぐつわを噛まされたモルウェールドが椅子に縛り付けられていた。
軍服に身を包んだ。男が手を頭から離す。
「何分随分前の記憶ですので抽出は不可能ですね」
「この状況を見せれば思い出すかとも思ったが」
「んんーー!!」
「そう暴れるな元少将」
闇系統魔法師による尋問は基本的に禁止されているが、ベリックは手段を選ぶつもりはなかった。これまでさんざん手を焼かされ、尻尾を隠し続けたモルウェールドがこうして自ら墓穴を掘ってくれたのだから。
それに彼の屋敷では言い逃れのできない物的証拠も見つかっている。どちらにせよ、ベリックの怒りは限界を振り切っていた。
だが、それだけに引っかかる。
「元少将にもう聞くことは?」
「もうよい」
「ハッ!」
男は懐から注射器を取り出すと首筋に針を突き刺し睡眠薬を投与する。モルウェールドの目が次第に虚ろになり首が垂れる。
ベリックは強制的な睡眠を見届けて表情を強張らせた。
「間違いなく、モルウェールドを唆した輩がいる」
その事実だけは無意識の自供でわかったが、肝心な部分――誰なのか、背格好などの特徴を一切引き出せなかったのだ。
――一先ず収穫はあった。これ以上は動きようもない、か。ノワールを保護できただけでも良しとすべきなのだろうな。
自責の念が激しく責め立てる。己の無能っぷりに嫌気が差す。どうしていつも上手くいかないのか。いつも失敗するのか。
ベリックもまた、常に自分を保つために満たされることのない贖罪を探していた。
大きく息を吐き出し、ノワールが暴れた部屋にぼんやりと白色の明かりが灯されていく。これが彼女が溜め込んできたもの。そう思うことで自分を言い聞かせた。
ガラスの向こうでノワールが殺した物は精巧に作り上げたモルウェールドのダミーだった。あの暗闇の中では細部まで確認することはできないだろう。万が一逃走しようとすれば各出口には魔法師を待機させている。
それでも室内の隅々まで血糊が飛び散った惨状に何も感じずにはいられなかった。
こうでもしないかぎり、ノワールはモルウェールドの傀儡として生き続け、依存し続ける。現にモルウェールドは彼女の両親の死に関係しているのは確かなのだから、この場で唯一彼女だけは彼を殺す権利を有しているとも言えた。
まずは一つ。そう、まずは一つなのだ。
アルスの問題に着手する前段階として軍の意思を統制することは必要不可欠だった。
胸ポケットにしまっておいたカード型の通信端末が緊急時のコール音を室内に鳴り響かせる。通話ボタンに触れ、耳に押し当てる手はどことなく覚悟を湛えているようでもあった。
「手短に要件だけを伝えろ」
『ハッ! 現時刻を以って7カ国に緊急招集がかかりました。国の統一意思として元首に出頭要請が下されております』
「ついに来たか」
予想よりも早いとベリックは感じていた。すでにルサールカを混乱に陥れたアルスを抱えていた国としてルサールカ国民の怒りは留まる所を知らない。
そのため、7カ国全てに非常事態につき戒厳令が敷かれている。当然、出入国も軍以外は不可能となっていた。
そうでもしなければ暴徒と化した他国民がアルファへと混乱を巻き起こすことになる。それこそ長年人類が恐れていた人間同士の不毛な戦争の開幕となるだろう。
魔物の出現と同時に誰かが提唱した言葉がある。人類滅亡への加速を誘発するものだと、反逆の序章だと【7カ国共戦協定】にも残っている言葉だ。
直訳すると魔物に加担するのが人間であってはならない。人間を滅ぼすのが人間であってはならないという戒め。
通信を切ろうとしたベリックに通話相手は更に報告を続けた。
『総督、それともう一つご報告が……』
「なんだ!」
『数分ほど前、ウームリュイナ邸宅にて火災が発生しております。現在水系統魔法師を多数向かわせ消火にあたらせておりますが、火勢が強く全焼は必至とのことです』
「――――!!!!」
各国の話し合いの場で何を是とし、何が決定するのか。
ベリックは身を引き締める。驚天動地も収まりを見せない状況下で事態は刻々と急転直下し始める。それは7カ国の協議で決定が下されるだろう。
しかし、向かう結末が間違った結果を生まないために奔走すべきは今なのだろう。
幾つもの情報を元にベリックは脳内で趨勢を幻視した。その表情は冷や汗すら流すほどの可能性を示唆する。
全ての情報をシセルニアと共有しなければならない。更に言えば各国とも共有する必要があるだろう。
こんな日が来ると誰が予想できただろうか。
できれば訪れないことを願っていたベリックにとっては腹の中を曝け出す気分だった。各国とのやり取りはそれこそ針の穴に糸を通すような駆け引きが行われるはずだ。
一気に老けこんでしまいそうな疲労が初老の身体から毒素を出すように溜息が溢れる。しかし、ベリックは直前で思い留まった。
まだ、先は長いのだ。こんな所で疲れを見せては渡り合っていくことなどできない。今度こそは上手く立ち回らねばならないのだから。




