従者と主
「うーん……」
唐突に何か納得したような、噛み締めたような唸りをシルシラは隣の主から聞いた。何について考えているのか、いつもの読み取れない表情とは違い今は彼女にもなんとなく察せられた。
「完全にテスフィア嬢に一本取られましたね」
「あ、うん。それもあるよね。彼女がここまで機転の利く子だとは思いもしなかったから僕が甘く見ていたね。アルス殿との勝負だとばかり思っていたし……」
負けは認めているもののどこか納得していないような表情で小首を傾げたアイルにシルシラは疑問を浮かべた。
「まだ何か合点がいかないことでも? まさかっ!! 不正でしょうか!?」
「それはないよ。今回は平等を期しているし、相手もそれができないように傘下の貴族を観戦させているんだよ」
「では何か?」
「あの時は焦ったけど、こうして冷静に考えてみるとまんまとやられたという他ないね。完敗だよ。ただ……」
「ただ?」
「なんて言うのかな……負けるってこういう気分なんだなと思ってね」
「……!! 悔しいのですか?」
成長の兆し。そうシルシラは感じた。
今まで相手の内側を探り、人心を掌握してきたアイルにとって自分を見つめ直すという機会はこれまで一度もなかった。
寧ろ、敗北を味わったのすら初めてではないだろうか。
「言うほど悔しさはないかな。ただどうにも敗因がわからなくてね。あの時こうしていればというのはあるんだけど……戦略云々じゃないような気がするんだよね。再戦しても勝てる気がしないんだ」
「何がいけなかったんだろう」と反省するアイルにシルシラは戦況を聞いた限りで感じたことを口にする。
そう、アイルではまず実行できない作戦だったからだ。打算や勝算、勝率、計算式の上で戦略を組み立てる彼には圧倒的に欠落している。
そう人を信じるという簡単で難しいことが彼にはできない。そしてこれが今回の敗因だ。
アルスとテスフィアの指示にない信頼――さらに言えばテスフィアが兵を駒としてではなく一人の人間として扱ったことが勝敗を分けた。信じて託す。理屈では測れない、だからこそアイルは見落としてた。
シルシラですら次やっても勝てるとは思えなかったのだ。仮に弓兵がいなかったとしても難しいのではないだろうか。
「そうですね、もっと他人を理解することができれば何か違うのかもしれませんよ。信頼とかしてますか?」
「もちろんだよ。僕はシルシラやオルネウスは信頼しているよ」
「そうではなくてですね。もっと他の方とかですよ」
「それって僕に何か得があるの?」
「そこでしょうね。今回の敗因を上げるとすれば……アイル様、友達っています?」
「何を言うのかと思えば……」
思考の間はすぐに名前が上がってこない証だった。そして考えた末にアイルが導き出した答えは。
「シルシラとかオルネウスとか、さ」
「それは有り難いのですが、私達の間には明確な主従関係があります。そういう意味ではなくてですね」
「僕はそんな風には思ってないんだけどなぁ」と口を尖らせ「ならいないけど、それっていなきゃダメ?」などと言う口にシルシラは頬を引き攣らせた。
「ダメということはないと思いますけど、ただ、私はアイル様には必要だと思います」
「そっか、じゃあ友達を作ろうかな。友達なんて作ろうと思えばいくらでも作れるし、まずは弱みを見つけようかな、さすがにお金で釣るのこともできるけど、たぶん違うよね?」
「当然です!! しかも弱みに漬け込んでは友達とは呼べませんよ。お互いが対等な関係で悩み事とか心配事を相談できるなど上下関係があってはいけません」
「難しい……というかそんなんで友達になる人がいるの?」
「いるんじゃないですか? いや、こちらから歩み寄るんですよ。笑顔でね」
「作り笑いなら僕の十八番だ」
「いえ、そんなんじゃすぐに見抜かれますよ」
「僕の作り笑いを見抜ける友達か、それは興味深いね。そういう意味ではアルス殿なんかは見破っていたね」
「そうではなく、自然な笑みですよ。無理に作る必要なんてないんです」
この主にしては珍しく眉間に皺が寄った。
表情筋がピクピクと動いているのがわかる。
「あれ? どうやって笑うんだっけ? いつも以外の笑い方を知らないんだけど」
「…………」
奇妙な疑問にシルシラは少しだけ悲しくなった。心が茨で締め付けられるような痛みもある。
「そうだ! 昔みたいにシルシラが僕に笑い方を教えてくれればいいよ。前にしたみたいに、さ」
自分で頬に指を押し付けて強引に持ち上げた。かなり不気味な表情だったが、確かに見覚えのある口元にシルシラは一瞬喉が詰まった。
そして、唇が震え、グッと堪える。
自然に溢れた出た満面の笑みでこう答えるのであった。
「はい。喜んで!」
道中アイルにしては珍しく自らの足で歩いた。それは戦略上の敗北を振り返るためだった。後ろを歩く歩兵にシルシラも含め、誰も口を噤んで妨げる真似はしない。
黙々と歩く一同だったが、アイルの思考を妨げたのはシルシラだった。前方を腕で遮られたアイルは目の前の包帯を見て、触れないように急いで足を止める。
「アイル様……少し様子が変です」
「何かあったのかな?」
「何かあったのでしょう。ここからでは確かなことがわかりません」
「うん、オルネウスも少し遅いことだしね、心配だ」
「オルネウスならば大丈夫でしょう。この方角ですとフェーヴェル家の陣営ですね」
「なるほど……なら軍で間違いないね」
「――!! ですが、今回の一件は軍内部でもアイル様が手回しをしていたはずですが」
「それは無理があるよ。ウームリュイナは元が付くとはいえ王族ではあるけど、軍そのものと対等に渡り合えるわけじゃない。特にベリック総督が座している限りは手駒でまず勝てないさ」
「アルス殿の保有権は……」
「あれは口先八丁に近いかな。あくまで僕は次期当主候補というだけだからね。当主である父上ならできなくもないかもしれないけど、ウームリュイナは疲弊してしまうよね。あれはアルス殿への警告ではなく父に対する警告でもあるんだ。国の最高戦力を引っ張りだす意味を……回りくどかったかな?」
「…………」
さすがのシルシラもアイルに仕えて――というよりウームリュイナに仕えて――薄々気づいてはいた。
吐露するように明かすアイルの顔は苦々しいものを湛えている。
「ちょっとウームリュイナは大きくなりすぎちゃったからね。だからこそ選ばなければならなかったんだ。誰を取り込み、誰を切り捨てるかをね。僕はウームリュイナが元首の地位に就くことで避けられることがあると思っているんだ。僕自身元首に固執している部分はあるけどね。でも、それによってウームリュイナ家は存続できる。フェーヴェル家を取り込むのも必要だからだ。もう方法は限られているんだよ。ここまで毒を飲んだら方法は限られてしまう」
「アイル様、それは……」
中継地点に出るとそこには審査員が5名だけで、肝心のフェーヴェル家はまだ来ていないようだった。もちろん、すぐにということではないので、この場合アイルが少し早く来すぎてしまったのだが。
アイルの予想ではアルスの捕物が行われているはず、事実それは合っていた。
「オルネウス――」
シラルシの声と同時に茂みから颯爽と飛び出したオルネウスが少し離れた場所で軽く膝を折った程度で着地する。
試合前は新品同様だった燕尾服が所々破れていた。髪もだいぶ乱れているようだ。
パッパッと服を払い、埃を落とすと何事もなかったように歩き出す。
「だいぶやったみたいだね」
「はい。できればもう少し手合わせ願いたいところでしたが、致し方ありません。それより向こうの状況を覗いてきたのですが最悪に近い状況ですね」
淡々と告げるオルネウスの表情はまったく関心を寄せない無表情だった。彼に限っては所詮その程度のことだとしても仕方がないし、アイルはそれぐらいでなければならないと思っていた。そういう契約だ。
だから、彼の報告がどれほど最悪かというとやはり言葉通り、額面通りなのだろう。
アイルは考えるのをやめた。まずは聞くべきと判断したためだが、最悪という言葉とこの状況を鑑みるに心当たりがないわけではなかった。もしかすると、予想を裏切ってほしいための思考停止だったのかもしれない。
アイル自身、表情は意識して笑みを作っていた。
だが――。
「モルウェールド閣下が交戦しております」
「…………」
ゆっくりと定位置にあった頬があっさりと下がり、比較的優しい口調でオルネウスに問う。
「ねぇ、確か閣下にはオルネウスから伝えておいてって言ったよね」
「はい。そのように計らいました。了承もいただいております」
「つまりはあの木偶が勝手に動いたってこと?」
「そうなりますね」
貴族の裁定において、ウームリュイナを支持する貴族には通達がいっている。特に軍内部での階級や影響力の強い家には直々にシルシラとオルネウスを遣いに出しているほど徹底した。
アイルが勝利を収めた際、その功績をウームリュイナが独占すること以外にも軍内部が二分している状況は貴族たちにとっても思わしくない状況なのだ。
もちろん軍が動くだろうとは予想していた。動かないはずがないだろうと。
これは仕方のないことだが、ウームリュイナの人脈は少々問題を抱えている家が多い。これは先代より受け継いだ負の人脈。特にモルウェールド少将には出てきてもらっては困るのだ。
現段階で手を切っていれば問題はなかったが、そういうわけにもいかない。すでに手遅れだった。
ここでモルウェールドが出張ってくる可能性を考えてアイルは釘を刺しておいた。もちろん彼には過去の大進行の際一階級降格という最低限の地位を確保した恩がウームリュイナにあるはずだ。だからこそ油断した。
数年前から私兵を潤沢にしていると思えばくだらないことを考え、指示を無視する始末だ。
最近、軍内部で極秘の招集がかかったと聞いたが、どうやらそこで軍を二分する出来事があったということもアイルは聞き及んでいる。
ならばこそ、ここでモルウェールドが出てくるとは考えづらかった。彼は軍部でもベリック総督とその座を争った。元首に決定権があるとはいえ、事前の準備や手回しは必要だ。
少将に降格後もモルウェールドは総督の席を常に狙っていたのだろう。
アイルは爪を口元に持っていき歯で挟む。
「功を焦ったね閣下。こちらにまで火の粉を飛ばすつもりかな。飛び火じゃ済まないんだよね。そこまで考えられるような玉じゃないか」
「どうしますかアイル様」
即座にシルシラが主の顔色を窺い見て今までに見たこともない深刻な状況が安々と察せられた。
「帰るよ二人共!!」
「「はい」」
全員が踵を返したことで目を剥いた審査員が一人大急ぎで駆け寄ってきた。これから誓約書がお互いの合意をもって取り行われることになっている。
「ウームリュイナ殿、これからすぐに手続きがございます」
隣を歩く初老をアイルは鬱陶しそうに見た。その手には丸められた厚手の羊皮紙が握られている。
「条件を再確認し、受領印をいただきませんと……」
「う~ん、今はそれどころじゃないだけど……ほらっ、ペンと朱肉出して」
歩きながら奪い取るように誓約書を握ると、要求条件に目を通さずにペンを滑らせサインと押印をする。
「これで文句ないね」
「い、いえ、これでは追加要求が万が一あった場合は無条件で呑んでいただかなければならなく……」
「大丈夫、相手方もそこまで横柄じゃないからね。まだ何かあるかい?」
そのアルカイックスマイルを向けられ、逆に恐怖を感じた初老の男はピタリと足を止めて「い、いえ」と返すのが精一杯だった。
「さて、解せないよねこの状況」
そうぼやいたアイルは考え抜いた末、奇妙な引っ掛かりを覚えた。実際の戦闘を見ていないアイルですら真っ向からアルスとやり合おうとは思っていないように、常識的に考えてモルウェールドの捕物は無謀な賭けだった。
そもそも彼にそこまで高ランクの魔法師を集められるとは思えない。もっといえば彼には公にできない秘密があるため、それが露呈することまで考えなければならないのだ。
そうした足し引きぐらいはできるだろうと思っていた。
仮にできたとしたら――。
(誰かに唆された、か)
急かされるようにアイルの歩調は間隔を狭めていった。