躊躇いの境界線
モルウェールドは急激な体調の異変に気が付き、やけに重たく感じる右側へとふと顔を向ける。
そこには真っ黒な刀身が至近距離で右肩深くに突き刺さっていた。
「ほッ!! ぎゃああああぁぁぁ、う、腕がああぁぁッ!!!」
脳髄の深くまで突き刺さるような痛みが、痛覚以外の感覚をシャットダウンした。
絶え間なく流れ出る血が服に染み込み、ずっしりと重い。ちょっと揺さぶった程度では抜けないほど深く肩口にめり込んでいた。この状態で腕がくっついていることが不思議なくらいだ。
ダラダラと溢れ出す汗は疲弊とは関係のない冷たいもの。足に力が入らず、ガクンッと膝をつき、そのまま膝立ちの状態で深すぎる傷口をワナワナと痛みに耐えながら見ることしか出来なかった。
早くこの短剣を引き抜いてしまいたいが、どうすれば良いのかがわからない。それどころか1mmでも身体を動かせば痛みが全身を駆け抜ける。
こんなことは初めてだ。血を流したのすらいつぶりか、そもそも自分が死に直面するということ自体想定外。
溜めに溜め込んだような膨大な血液が今なお、止まる気配を感じさせない。まるで蛇口に綿で蓋をしているような有様だった。
指先に血が伝う感覚すら感じることができない。
「はぎゃああああぁぁ!! は、早く、速く救護班を、わ、私を早く治癒しろおおぉぉ!!!」
「アルスッ!!」
ヴィザイストの叱責にも近い怒声もまるでアルスの意識を揺らすことができない。
ダラリと垂れ下がっただけの腕からモルウェールドは元凶であるアルスへと視線を上げた。ナイフの柄から伸びる鎖を辿る目が、少年の空虚な視線と交じわる。
「ヒィッ!? ま、待て。わ、わたたたしは何も悪くない。もう、な何もしないと誓う。だから、な。こ、これを早く抜いてくれ。助けてくれ、な、治してくれ。ヴィ……ヴィザイストお前からも、早く言え! 俺を守るんだよ!!」
痛みに耐えるように手は服の袖を握りしめている。
もう右半分が失くなってしまったかの如く麻痺し始めていた。それが唯一の救いだったのか、形振り構わずにモルウェールドは助けを求めた。飛沫を吐きながらの必死の懇願だ。
それは今の今まで自分がしていたこと、これまでしてきたことに対して不合理な手の平返し。
ヴィザイストはこの男を無表情で見下ろした。軍に巣食う貴族派の中核にいる男の情けない姿に何も湧くものがなかったのだ。
掛ける言葉もない。
内心でこの男に対する哀れみよりも収拾のつかない自己嫌悪が湧き上がってくる。どこまでベリックは想定していたのか。決してアルスが過去を呼び起こすことまで想定してはいないのだろう。
グッと握り拳を作った直後。
「不愉快だ」
ゾッとするような言葉が遠くで小さく鳴った。だが、この場の誰一人としてその言葉を拾えなかった者はいまい。
明確な殺意は一人の男に向けられていたが、全員が咄嗟に身構えたのは仕方のないことだった。
ヴィザイストとモルウェールドは同時にアルスへと顔を向け。
「――!!」
「やめ……ろ……」
二人が見たものは、魔法ではなかった。それだけにモルウェールドも自分の身に何が迫っているのかを容易に想像することができる。無意識の拒絶がそのまま言葉として口を動かした。
大きく波打つ鎖、それは死への宣告だ。波が食い込んだ短剣に伝わればどうなるかなど誰にでもわかる。ビリビリと傷口を抉じ開けるような振動が徐々に強くなった。
カチカチと歯が不規則な音を鳴らし、モルウェールドはぐっと全身に力を込めて目を瞑る。その瞬間を待つことの恐ろしさは瞼の裏側で極限まで達した。
後悔はいつも都合が悪い状況になって初めて得られるものだ。この時、モルウェールドは死にたくないと神に祈るように一心に悔いる。
だが――。
ジャラジャラと絡まるような鎖の音が連続して鳴り響く。
うねりが突き刺さる短剣へと伝わるのと同時……そこにはヴィザイストが腰を落とし、右手で掌打を柄へと放っていた。
よって遥かに威力で勝った掌打によってアルスの短剣は肩口から離れ、宙を舞う。即座に鎖が引かれてアルスの手元に戻った。
「そこまでだ!!」
脇腹の傷が少し開いたヴィザイストはグッと奥歯を噛む。そして一度大きく息を吐き出すと。
「こいつを殺すのであれば俺も軍人だ。見過ごすことはできなくなる。もちろん、お前も軍人だ。それを忘れるなアルス」
横っ腹を手で押さえつつ(テキトーな治癒を施したな、後で文句の一つでも言ってやるか)と悪態を吐く。絶対安静の状態から抜けだしたのだから実際に文句など言える立場ではない。それがわかっているのか、ヴィザイストはすぐに身体の力を抜く。早く座りたい気持ちが先行していた。
だが、こう思えるのもどんな状況であろうとアルスが敵に回ることがないと確信しているからだ。もちろん、フローゼの言う根拠のない自信であるのは違いない。
後ろを指すように親指を向け。
「安心しろ。こいつに関してはこちらも動いている……! ハンッ気絶したか、肝っ玉の小さい奴だ」
嘲笑するような顔を作るとヴィザイストは遠くを見るように視線を横に向けた。
「やっと来たか。お前も今の状況じゃまずい、さっさと行け」
シッシッと手をヒラヒラさせるヴィザイストにアルスも戦闘が終わったと切り替えるように瞳に光が戻る。AWRを鞘に収め、気息奄々たる状態のノワールを一瞥した。
そのなんとも解読しづらい表情を見て、ヴィザイストは頬を上げる。
「任せておけ」
どっちつかずの心をヴィザイストが導くように告げた。彼女は助けると。
せっかく変化の兆しが見えたのだ。それをむざむざ閉ざすことなどできるはずはない。彼女を助けることはアルスにとっても大きな意味を与えるはずなのだから。
「お手を煩わせます」
丁寧に頭を下げるアルスに、やはりヴィザイストはヒラヒラと手を振るだけだ。もちろん感慨深いものを感じながら。
「もし彼女が生きていたら伝えていただけませんか。………………」
ヴィザイストは「わかった」と頷く。その顔はやはり喜々としていて、部隊にいた時のアルスとの決定的な違いを見た。
彼が未だに軍を退役しないのはこうした息子も同然のアルスの成長を見たいというのもあるのだろう。
それ以上、ヴィザイストは言葉を用いない。アルスが隊にいた時も決まって指示がなければ自由に動けという暗黙の了解がある。だからなのだろう、アルスもそれ以上ヴィザイストに対して口を開くことはなかった。
脇腹を押さえて片膝をつくヴィザイストはノワールの状態を確認する。隣で白目を向いて寝ている少将の所為で折れた肋骨が内臓を傷つけていた。専門家ではないが、虫の息に近い。
もうすぐ、ベリックの放った部隊が到着するだろうが、間に合うか際どいところだった。
◇ ◇ ◇
心の整理がつかない状態でアルスは一段落と見た。ヴィザイストが感じ取ったようにこちらに向かってくる大隊規模の魔法師まではさすがに戦闘を避けなければならない。
間違っても顔を突き合わせるという事態はアルスと隊の益にはならないのだ。アルファの魔法師が指をくわえて逃げる背中を眺めていたのでは他国からの批判は免れまい。
現状では国を上げて擁護していると取られるのは最悪の結果。
真正面からアルスと対峙することはアルファにとっても無駄な死傷者を増やすだけだ。無論、アルスにとってもいよいよ引けない状況に追い込まれるだろう。まさに名実ともに犯罪者の仲間入りだ。
一息つく間もない。ワサワサと後ろ髪を掻くと「ロキ、行くぞ」と声を上げた。
いつもの彼女ならば戦闘が終わった段階ですぐ隣に来るはず、だが、呼ぶまでの間ロキはテスフィアの傍にいた。
ゴシゴシと袖で涙を拭い取る。
心を宥めるように大きく深呼吸をするとロキは毅然と言い放つ。
「だから、あなたが何の覚悟もなく彼の傍に居続けるのはこれまでです。わかったでしょう、世界が違うんです。だから……もう……」
その後の言葉が紡ぎづらいのをロキは感じた。もしかするとアルスの意向とは大きくかけ離れているのかもしれないからだ。
彼女たちはすでにアルスから多くのことを学んでいる。それはもしかしたら、これからも……。
だが、テスフィアやアリスが教え子から更に一歩踏み込んでくるのならばアルスのことを知らなければならない。その一端を見た彼女の反応は至極真っ当と言えたが、どこか寂しさは禁じ得ない。
こんなことを言うのもテスフィアが彼の領域に踏み込んだからだろう。ロキでも気づいた。気づいてしまった。
婚約の話になった時、テスフィアの表情はおそらくロキ自身が抱く感情と酷似していたからだ。そうだと確信を得てしまった。
だからこそ言わなければならなかった。恋敵という以前に彼を身近で理解できる者が一人でも増えるならば、胸の奥がスッと軽くなるように喜ばしいことなのだから。
「では、テスフィアさん、さようなら。」
「…………」
その他人行儀な別れの言葉にテスフィアは何も返すことができなかった。耳に入ってくる情報よりも自分の見る凄惨な光景が思考を塗り潰していく。
そしてロキが駆け、テスフィアは返す言葉もないままに膝から崩れた。背後から「お嬢様」というキケロの声も遠い。
「ハァハァ、うっ……」
即座に手で口元を押さえつけた。絶対に吐かない。真っ青な顔で何故かそれだけは意地でも拒んだ。
些細なことなのだろう。何をしようとも今更だというのがわかってしまう。けれども、吐き出すものはきっと胃の中だけでは済まない気がしたのだ。
自分を嫌いになってしまいそうになる、そんな恐れからだった。
ロキが言った「拒否」の二文字が脳裏にこびり付く。まさにその通りだったからだ。拒絶したい気持ちが目を逸らさせたのだ。
わかっている。わかっているのだ。それが自分に対する背信行為だと。見たいものだけ見て、見たくないものは拒むように世界を閉ざす。
与えられた平和に浴するだけのお粗末な人間だったのだ。結局、それを聞かされてもテスフィアは平和という甘美な浴槽から出ることができなかったということなのだ。
何をもってアルスが無感情に人間を殺せるのか、到底理解できるものではない。それでも彼の全てではないはずだ。
学院での彼も全てではないのだろう。
結局、テスフィアは自分が何も知らないことが今になって悔しかった。薄っぺらい恋心を自嘲してしまいたいほどに。
目尻に溜まった涙が視界を歪ませ、テスフィアはアルスを朧気に見た。
半身になってこちらを一瞥したアルスはどこか物悲しそうに見える。踵を返した彼はまたしてもテスフィアに何も言葉を掛けない。
それもそうだろう。アルス自身、こんなことは知らないで生きて行けるならそれが一番だと考えている。
だからテスフィアがこれで離れたとしても誰も咎める権利などないのだ。
しかし――。
テスフィアは地面の上で拳を作る。爪に土が潜り込もうと気にせずに力を込めて握った。
(情けない。何を期待してるんだろ、私……)
何か優しい言葉を掛けてくれるとでも期待していたのか。浮かれていた自分が恥ずかしい。好きだなんだと言ってもアルスの何を知っていたのか。
そして知った途端にこの有様だ。つくづく自分が矮小な人間に見えてくる。
考えれば考えるほど自責の念が涙となって頬を伝った。何も知らないが故、知ろうとしなかったツケは重く心を苛む。
行ってしまう背中を追いかけることも、手を伸ばすことさえも彼女には許されなかった。