一刻千秋の芽生え
「――ッ」
「ヒヒッ!!」
それが煙を吐いたのは一瞬のことだった。煤けたような黒い種子に罅が入り、弾けるように赤銅色の煙が瞬く間に二人を包む。
その勢いは凄まじいものがあった。だが、一定範囲以上拡大拡散することはない。
種子から生えたであろう黒い茨が地面に根を張り、今にも大輪を付けそうな蕾があった。それらが僅かな間煙を吐き続ける。
黒雲に飲み込まれ、ノワールは視界の利かない状況で上手いこと着地した。
膝をついて慣れない左手で大鎌を拾う。
「ゴホッ!? …………やっぱり耐性があろうとも無害とはいきませんの。ハアハア、でも……これで先輩と同じですの、ただ先輩のほうが少しばかり痛いでしょうけ、ど」
【黄泉の黒蓮】は即効性の猛毒ガスを発生させる。もっと言えばウイルスを拡散させる魔法だ。体内に入り込み、魔力に寄生し増殖、魔力を含む血中から全身を駆け巡る。
感染経路は空気感染と接触感染の両方。
範囲が拡大しないのもウイルスとは、ノワールの魔力球を毒素として変質させているからだ。つまり魔力情報の劣化によって大気中ではすぐに死滅する。同時にウイルスを散布する茨も数分と待たずに枯れてしまう。
だが、これだけの至近距離、息を止めようともアルスには額の傷がある。確実に感染させることは可能だ。
(これは防げませんの、私が先輩のことを想って毎夜血を染み込ませたのですから)
痛みさえなければ悦に浸った満面の笑みを浮かべられただろう。
魔力の変質は即席でできるようなものではない。ましてや魔法として発現させる場合、膨大な魔力量と時間――魔法の発動としては掛かり過ぎる時間――が要求される【黄泉の黒蓮】は変質段階を事前に済ませておく必要があるのだ。これによってAWRを経由せず発動が可能になる。種子自体が魔法のトリガーとしての役目を果たしている。ある種、遅延型の魔法と言えなくもない。
魔力ウイルスは体内で相手の魔力と同化、組織を破壊し続ける。数秒で全身に異変がおき、肌が黒ずんでくる。そして1分もしないうちに真っ黒な血を吐いて絶命。
その瞬間の激痛は耐え難く、神経が侵される感覚は絶叫する間もないだろう。僅かとは言えもがき苦しむ姿をノワールは幾度と見てきた。
「フフッ、どこですの先輩。早くドロッとした血を吐いてください。子鹿のようにビクビクと痙攣している姿を見せてください、焦らしちゃイヤですの」
額の汗もしとどに真っ赤に染まった右腕を庇いながら目を凝らす。黒いシルエットのみのアルスを見て、今か今かと急かされる気分だ。
狂おしいほど焦がれる。
(殺した。殺してやったの)
覆りようもない結果。すでに脳内ではアルスの助けを求めることもできない苦痛に歪んだ顔が浮かぶ。わかっていようとも直に見た時の胸のトキメキは何物にも代え難い。
今にも快哉を叫んでしまいそうだ。
赤銅色の煙が断片的に消失し始める。それは虫食いのように晴れ始めた。情報の劣化もそろそろ頃合いだろう。秒読みが体内時計でカチカチとカウントダウンを開始する。
直後、煙が中心に向かって渦を巻き始めた。
まるで煙を噴出した瞬間を巻き戻しているような光景。
渦がノワールの眼前に集中し。
「はい? ――――ッ!!!」
中心から漆黒の剣先が突き放たれた。渦がナイフの周囲に集まり凝縮されていき、今度は逆風が吹き荒れる。それは無害な微風。
放射状に下草を撫でていく。その中心にいた人物は【黄泉の黒蓮】の発現前と何も変わらない表情のアルスが黒髪を乱雑に揺らしている。
大きく一歩踏み込まれた足はノワールとの距離を確実な殺傷範囲へとした。
「なッ!!」
なんで、という言葉は最早アルスの突きの前では遅い。反射的に慣れない左手で大鎌の柄を突き出し、突きの軌道にすんでのところで柄を割り込ませる。
体制は傾く上に慣れない左手では満足に力も入らないだろう。ノワールは弾かれないように目一杯力を込めた。
ここに来てピタリとナイフの先端が動きを止めた。そしてアルスの手首が返り、ナイフはそのまま往復するように横薙ぎに払われる。
(――!! フェ、フェイントッ!!)
まだ、間に合う。コンマ数秒差で大鎌を元の位置に戻した。そう、間に合ったのだ。
この状況でほぼ無傷のアルスがノワールの速度を上回ることは想像に難くない。だが、今の彼女には防戦に回ることしか頭になかった。
もうこれ以上の痛みは耐えられない。
こんな一方的な痛みは嫌だった。だからこそ、悪手であったことに気づいた時には手遅れとなる。
「しまっ――」
今度は振り下ろし気味に防ぐ。
ノワールはそれが致命的な選択であったのを見た。アルスが振るったナイフの刀身にはこれまでの戦闘で見せた空間を断絶する魔法が付与されている。
あれを防ぐ手段も魔力も残されていない彼女にとってあまりに簡単なミス。いや、全てアルスの手のひらの上で確実に死へと近づいていたのだろう。
もっと冷静でいたならば防ぐのではなく回避したはず――そう思ったのも束の間。違う、そうじゃないのだ。回避できないように仕向けられた。
回避できる状態だったならばそれを見越した攻撃を仕掛けてきただろう。
アルスのナイフが大鎌の柄を断ち、一直線にノワールの胴体に狙い違わず閃く。
(あぁ、これはこれで素敵ですの……二人はいらないですもの。でも、少しだけ……悔しいですの)
諦念もあった、しかし、どこか胸がすく思いだ。この瞬間は全身の痛みも遠く、恐怖もない。走馬灯でも流れそうな時間の遅延。脳が誤作動でも起こしているのだろう、もっと言えば考えられないような高速回転を実現しているのだろうか。
もうノワールにとってはどっちでも良くなっていた。
死を待つ時間がこれほど長いとは思いもしなかった。それでも濃密な瞬刻の一時。考えるのではなく、湯に身体を浸からせたように何かが内側を満たしていく。
そんな密な幸福感は死ぬ直前の人間がするような絶望の表情を作らなかった。
フッと目を閉じたノワールは無垢な微笑を浮かべていた。
刃が衣服の上に触れる刹那、ナイフが半回転し、ノワールの脇腹を予想に反してナイフの鎬が叩く。
それは死を覚悟したノワールにとって脱力してしまいそうなほどの威力だったが。
「――ッウ!!!」
完全に無防備だった左脇腹に凄まじい衝撃。続いて身体が折れるように吹き飛ぶ。蹴られたと分かった時にはバキバキと肋骨が数本折れた音を聞き、ノワールの身体は宙を飛んでいた。
鎌は手から離れ、ただ暴力的なまでの打撃に為す術もなく、蹴り飛ばされた身体は地面に何回も叩きつけられる。
人形のように転がった末、モルウェールドの数歩先で止まり、無意識に身体を抱きかかえた。顔を地面に擦らせて苦悶する痛みは転げ回ることさえできない。
「ウゥゥ……ああぁぁぁ!! イタッ……イ、アッ……ゲホッ!?」
痛みで蹲るように脇腹を押さえる。声どころか上手く呼吸もできなかった。骨が肺に突き刺さっているわけではないのだろうが、圧迫されていることだけはわかる。
口端から垂れる血の混ざった唾液。苦鳴を上げて悶えることしかできなかった。
「…………」
アルスはノワールに対して歯牙にも掛けず呆然と立ち竦む。自分が今何をしたのか。確実に殺すつもりで放った刃が直前で逸れたのだ――それも自ら。
陽動のためなどではない。その証拠にノワールは完全に敗北を悟ったはずだ。
案に相違した行動だった。
何が原因だったのか、アルスは今の一瞬の間で見たものを想起させた。何も考えていなかったのだから見た情報だけを遡る。だが、それは無駄なことだ。
アルス自身その原因を今も進行形で明確に覚えているのだから。あの一瞬に見せたノワールの表情が刃を逸らさせたのだ。
殺しの顔ではなくなった。未来ある若い顔だ。あの僅かな瞬間だけはテスフィアやアリスとなんら変わりない表情。それがチラついたのだ。
アルスも含めて何人と人間を殺めてきたノワールには真っ当な死などないはず。
それがわかっていながらアルスは殺すことを最後の最後で躊躇ってしまった。それは自分の浅ましい願いの表れだったのかもしれない。すでに手遅れであり、これからも二人は人間を殺めることがあるだろう。
その贖罪がどこかにあるはずと探しているからこそ、ここで彼女を殺すことができなかったのかもしれない。それをやってしまえば、あの騒々しい場所へとアルスは戻れなくなる。そんな気がしたのだ。
身体の異常を確かめるようにアルスは手を開閉させた。意味のないことだとわかっていても、これは彼自身が選んだ――培ってきたものから導き出された結果だということを理解しなければならない。
そう思えばどこか納得してしまう自分がいることに気がつく。
どこか胸のすいた面持ちでいると怒号の如き罵声が無音の静寂を引き裂いた。
「ノワールッ!!! 何をやってる。さっさと立って奴を始末しろ!!」
「ウゥゥ……ハアハアハアァァ……ッ……」
モルウェールドが憤慨を露わにノワールの元へと近寄った。その歩調はアルスを警戒してか、急かされるように短い間隔を刻む。
「何をしている。もうお遊びは十分だ!! お前が奴を始末すれば、それでお前が一番なんだ。そして俺はトップに成り代われる。わかってるだろ」
「……ッツ、ハアハア、グッ!?」
「わかっているのかって訊いてんだぞ!!! お前が痛みなど感じるはずはない、俺がそうしたんだからな」
ノワールの脇で足を振り被る。上質な革靴の先端が抉るようにノワールが抑える脇腹を突き刺した。
「あああああああああぁぁぁぁっ!!!! カハッ!!」
口から溢れるようにして喀血。吐き気を催しそうな程の激痛、グッと目を閉じ、涙が絞られるように溜まり、頬を伝う。
二度・三度、モルウェールドの苛立ちが蹴り飛ばす度に力が込められる。
口から血が飛び散り、声にすらならない叫びで喚く。
髪を掴み強引に顔を上げさせた。
「ああああぁぁぁ……」
「まだやれるなノワール?」
「おい!! モルウェールド!! 貴様……」
「少将だ、ヴィザイスト! お前が何もせんからこいつに働いてもらうしかないのだろう。それにこの程度はノワールにとって戦えぬ理由にはならんのだ!! そうだろ? ノワール、いつものように悦んでおるな、悪い子、っだ!!」
叩きつけるように手を放し、鈍い音を立てて足を振るう。何度も振り子のように叩きつけ、モルウェールドの額に汗が浮かぶ。呼吸が切れ始めるが、その頃にはもうノワールは叫ぶことすらできず、ただ口から赤い血を吐き出すだけの人形と化していた。鼻なのか口からなのか、葉笛のような呼吸音が風前の灯を訴えている。
「いい加減にしろッ!」
いきり立ったヴィザイストが一歩踏み出した時だ。
「ハア、ハア……おっと!?」
疲れたのか、まるで誰かに背中を押されたように蹴りが空振りに終わった。仕切り直しとばかりにモルウェールドは服の上からでもわかるほど腫れ上がった彼女の脇腹に爪先の狙いを定める。
大きく振り被り。
「お、あん?」
片足立ちになった時、視界が傾きバランスが保てなくなっていた。立っていられないほど傾いた身体を立て直すために振り被った足は慌てて地面を踏む。
ドスッと振動が全身を駆け巡り、一点に響かせる。
「ん?」