恩返し
今までの経験にない。いや、勝ちは揺るがないはず、そう確信したアイルは自分の見るマップに明らかな矛盾を見つけて無数に考え付く限り思考をフル回転させた。
命令が足らない。正確にはテスフィアが命令して動いた兵が見当たらないのだ。それは行動中に相手の兵がいる場合、見分けが付きにくいもの。しかし、見分けが付きにくいだけであって完全に見抜けないことと同義ではない。
無駄に命令を消費する、という手も考えられたが、それこそ意味のある選択ではない。合理的ではないのだ。相手を混乱させる意図があったとしても、今、このタイミングで消費することになんの意味があるのか。
そう、何も意味がない。騎士は完全に戦闘不能、退場なのだから早く決着を付けてくれとアイルに頼み込んでいるようなものだ。
テスフィアの性格を考えれば、まずあり得ない選択だった。
ならばミスなのだろうか。今もっとも可能性があるとすればテスフィアが命令ボタンを無意識、不可抗力として押してしまった場合だ。回数を消費することになるため命令を下さなければならない。
いや、それでも何かしらの動きがあって然るべきなのだ。後退するにしても兵を一切動かさないという行為はアイルに疑心を抱かせる。
相手の兵はマッピング時から今まで見落としはない。はずだ。確実に把握している。
それだというのにアイルは自信を持って全兵に進行の命令を下すことが出来ずにいた。
合理的な理由を脳内で計算し、次第に焦りからか爪を噛み始める。何かがおかしいという違和感を解消するには時間が足らなさ過ぎた。この違和感はもっと前から蟠っていたのだから。
それが今、ようやっと肥大するように違和感としてアイルが気付けた。だが、その頃にはもう違和感という靄ではなく、相手の意図が、放った刺客の足音が鼓膜を掠めていく程に差し迫っていることに限りにない可能性が浮上する。
ビクッと心臓が跳ねたアイルは背後で不自然な葉擦れの音を聞く。と同時に総毛立ち、一つの結論を導いた。
すぐさま、命令ボタンを連打し、シルシラに命令を下す。
「即刻帰還しろ!! 速く、今すぐだ!!! …………?」
それはまるで本能的、反射的なものだ。不自然な音と認識してしまった時にはアイルは背後を振り返っていた。人間として自然な行動だったのだろう。
一つ言えることはアイルにとってそれは見たくもない光景だったはずだ。
「誰だ……誰なんだよ!! お前ええぇぇ!!!!」
悲痛に変わった声は潜在的な恐怖を駆り立て、喉が勝手に震えだした。初めての光景、初めてのことだったことも関係しているだろう。
♢ ♢ ♢
その兵は意外にも中年だった。着ている戦闘服も上等なものだ。だが、どこか質素な感を抱いてしまうのは間違いなく似合わないからだろう。身なりや見形からして代役というには些か違和感がある。
その実、彼はフローゼの招集に真っ先に手を挙げた人物だった。大恩を感じているといっても過言ではなかったのだ。
貴族という意味で彼は下位に属する。そんな男はあまり貴族らしくなく、どちらかというと庶民に近い人種だった。贅沢はせず、家も取り立てて大きくはない。近所付き合いもそこそこに家族円満に暮らしていた。
魔法師としてもうだつが上がらない、貴族なんてすぎた冠は男の代で終わるはずだったのだ。一人娘も魔法の才能はなく無理言って他家にメイド見習いとして奉公に出したのだ。そんな時、早々に娘はそこの主人に言い寄られた。
下位貴族の娘ではそれは仕方がないことだとわかっていても、身体を委ねることをしなかったのだ。それを父である男は咎めなかった。寧ろ自分を責めたほどだ。
だが、その際、娘は主人を爪で引っ掻いてしまった。それが事の始まりだった。許しを請う頭は下がりっぱなし、陰湿な貴族だと見抜けなかった自分を責めずにはいられなかった。結果として膨大な借金を背負わされ、一家は路頭に迷った。
蓄えは早々に尽き、男は娘だけはと数えきれないほどの貴族に頭を下げ、時には踏みつけられ、額を汚した。
近所の付き合いから数カ月は食いつなぐことができたが、それも日に日にやせ細っていく妻と娘にかつての面影は薄い。
仕事を探そうにも相手の貴族が裏で手を引いているのか、ことごとく断られた。だが、それでも男は小さな街の辺境で良くしてもらっていた近所の店で働くことができたのだ。
小さな町工場。AWRの材料で金属の選別や加工。単純な作業で給料も安かったが家族を餓えさせるわけにはいかず、身を粉にして働いた。だが、それもそう長く続くことはなかった。
何が起きたのか、男にはわからなかった。出勤してみれば小さな工場は轟々と燃え盛っていたのだ。周囲の戦場のような騒音を男はただ茫然と立ち尽くすことしかできない。
見れば火の粉が降りかかる距離で懇意にしてくれた工場主が膝を折り、難度も地面を叩く姿があった。
それからというもの男は一日一食すら取らない日が続いた。貧しくも笑顔だけは絶えない家庭はあの日から見なくなってしまったのだ。もう限界だった。
男は恥じない人生を送ってきた自負があった、それはこれからも同じだ。取り柄一つない男が唯一の誇り、親から受け継いだ家名を守り、正しく生きてきた。誰に問われても恥じない、自慢できる人生だ。裕福とは言い難いがそれでもこんな世の中で最良の妻と巡り合い、子宝にも恵まれた。
だが、それももう終わりだ。妻を見、娘を見、男は日に日に一線を越える決意を固めていった。たった一度、一回だけ……と制約を己に課し、男は最後まで手放せなかったAWRを手に取る。その決断が間違っていたのか、それは男にはわからない。ただ何回と繰り返そうとも行動は変わらなかったはずだ。火を放ったのが例の貴族であると知ってしまったのだから。
AWRも売れればきっとこんなこともしなかったのだろう。だが、最後に家族を守るための力を男は捨て去ることができなかった。
男は夜闇に紛れて忍び込んだ。自らを貶めた貴族の家へ、娘に手を出す下劣な男の住む家へ。
霞む視界は飢餓が続いたからだ。それでも一心不乱に武骨な剣を片手に塀をよじ登り、背後から警備を全力で昏倒させた。
荒くなくなる呼吸と罪悪感に締め付けられる心臓。元凶を前にしても絶対に殺さない誓いを立てるので精いっぱいだ。それすら本当の意味で守れる自信もなかったのだが。ただ……ただ食べられるだけの金品を奪い返せればよかったのだ。
こんな状況になっても男には相手を破滅に追い込むことを優先しなかった。よくしてもらった工場主にいつか詫びるようと、それでも優先するのはいつも家族のことだ。
だが、少しの希望も悪行を許してはくれなかった。いつの間にか男にとっての合理性を世間では不条理と呼ぶ。それに気付けなかったのだと男は目の前の女性を前に思った。
フローゼ・フェーヴェルが何故ここにいるのかはわからなかったが、見放されたのだ。それだけは理解できてしまう。全てが悪い方へ悪い方へと進んでいくのを止めることができなかったのだ。
たまたま忍び込んだ先にかの三大貴族がいようとは夢にも思うまい。
だが、そんな男に対してフローゼはただ手を差し伸べる。
後から聞いた話では貴族間の抗争と判断したフェーヴェル家が乗り出したようだ。全ての経緯を聞き、フローゼは独自に制裁を加える。
相手貴族はウームリュイナの派閥に属していたが、見放されたように手を貸されることはなかった。
元々フェーヴェル家は下位貴族である男と一度コンタクトを取るつもりだったようだが、男の家はすでに差し押さえられた後だった。その経緯を調べたところ、この家の主に行きついたようだ。そんな矢先の放火だ。
フェーヴェル家の執事の調査によって全てがフローゼの耳に入ったため、この家に宣戦布告に来たということだった。
それからというもの、男は夢の中を生きているような目まぐるしい温情を預かった。一家は差し押さえられた家を取り戻し、工場はオーナーをフェーヴェル家の元、従業員を同じくして立て直された。
もちろん男も何度も工場主だった男に事情を説明し、数えきれないほど頭を下げた。
娘はフェーヴェル家へと奉公に出すことでお互いの体裁を保つ。だが、そんなことは男にとって何も保たれないと感じた。ただ、ただ滂沱のように泣き続け感謝の言葉を延々吐き出すことしかできない。
だが、これには少なくともフローゼのためになる手段が取られた。それは男が貴族であり続けること。もちろん、男に異論などなかった。
だからこそ、今回の貴族の裁定は少しでも恩を返す機会なのだ。なりふり構わず名乗りを上げたのはそれこそ一瞬の躊躇いもない。
娘の名前を【ミナシャ・ブロンシュ】、愛おしい娘。
そして妻の笑顔を取り戻すきっかけを与えてくれたフェーヴェル家に恩を返すことができるのならば男は何を投げ打っても足らないとさえ思っている。
キケロ・ブロンシュは息を殺しながら草むらを掻き分け、木々に身を隠しながら視認する。
(フローゼさん、あなたに少しでも恩を返す機会を与えてくれてありがとうございます)
手に握るAWRを一層の力を込め、茂みの中から一気に飛び出した。
「誰だ……誰なんだよ……お前はああぁぁ!!!!」
「うおおおぉぉぉおおお!!」
腰が引けたアイルは腕で顔を覆い、目を瞑った。足を詰まらせ尻もちをつく。
キケロの剣は真横に薙ぎ、寸断する。
バサッと落ちたのは、旗だ。アイルの足元に落ちた勝利の証をキケロは拾い上げて高々と掲げた。
全試合に決着を知らせるブザーが高らかに鳴り響く。勝者であるテスフィアの名前が続いた。
♢ ♢ ♢
オルネウスとの戦闘がピタリと止まり、アルスはホッと安堵した。終始オルネウスは腕輪を狙う事をしなかったのだ。
確実に肉体的な負傷を狙った戦いだ。それでも押されるアルスはほぼ全力に近い戦いを繰り広げていた。
魔法を制限された状況では苦戦は免れない。ましてやオルネウスの魔力反発【ギルティ・ギフト】は近接戦闘において絶大な力を発揮する。
少しでも決着が遅ければどうなったか。
アルスは左腕を掴まれる変わりに右手の先端に魔力刀を形成し、オルネウスの左肘へ。
お互いが負傷する結果は直前で有耶無耶になる。それこそ後、コンマ数秒終了のブザーが遅ければアルスは左腕を内側から破裂され、オルネウスは肘から魔力刀を生やしていただろう。
そういう戦いだった。
一瞬の静寂の後、二人は弾かれたように距離を取る。
「残念な結果ですが、楽しめました。次会う時は全力で……」
そう言うとオルネウスは勝敗に関しては無関心を貫き、淡泊な表情で踵を返した。
アルスは完全に姿が消えるまでその背中を無言で見ている。
「もうやりたくはない相手だな」
一人溢したアルスは思考を切り替えて、自陣へと引き返した。一体テスフィアが何をしたのか、それをアルスは推測するのではなく本人に訊くことにする。
そのほうがいいのだろう。やはり最後は彼女自身が打開する鍵を自ら手にしたのだから。