手の汗
テンブラムにおいてすべての兵が絶えず動き回るというのは意外にも少ない。命令が漠然とした前進などであれば敵と遭遇し戦闘にならない限りその兵は次の命令が下されるまでひたすら前進しなくてはならない。
これは命令の解釈範囲の程度に原則がないからだ。手慣れていればそれこそ通信するが如く指示を下させるものだが、素人のテスフィアではそこまで頭が回らない。
盤上のすべてを見渡すことはできても的確な指示を出せているかの疑問は常に付きまとう。指揮官として兵の運用がわからないのだ。
たかだか数日の付け焼刃では限界がある。それでもチグハグながらなんとか思考は回る。
手元の仮想液晶に釘付けになって次の指示を考えると同時に秒読みによって出せる命令回数を念頭に入れねばならない。
テスフィアが拠点としたのは丘の上でもなければ身を隠せるような場所でもなかった。というよりもアルスとロキが出てきた場所からほとんど離れていないのだ。すぐにでも戦場となりそうな位置は木々の間に出来た小さな空き地。
テスフィアの足元には拠点としての旗が刺さっている。彼女も腕輪を装着しているが、これは拠点の目印となる旗から離れないためのものだ。
つまり、王は拠点から逃走することもできない。いかに場所を突き止められないか、もしくは敵を近づけさせないか、敵兵を全滅させるか、そして討たれるより早く王を討つ。この四点が王の役目となる。
テスフィアは周囲の警戒すら怠るほど焦っていた。セルバからは相手の命令数を気にしないようと警告を受けている。
彼女自身、気にしても始まらないとわかっていた。相手は何回とテンブラムで勝利を収めてきたウームリュイナだ。悔しいがアイルはテスフィアより遥かに頭の回転が速い。
だから、考えてもわからない。気にしても意味がない。
そうわかってはいても、次々に増えていく数に焦りは募っていく。このまま何もせずでいいのかと、言われた作戦通りでいいのかと。
アルスもセルバもテスフィアの肩に掛っているとさえ言ったのだ。何か予期せぬことが起きた場合、その対処が委ねられるということになる。
そんな重責をテスフィアはどれほど応えられるか、その自信が揺らいでいた。
今にも新たな命令を紡いでしまいそうになる。震える手が意思に反してパネルのボタンを押しそうに持ち上がった。
意味のある命令かの判断もつかない。それでも何かしなければと急かされた指がボタンを触れ。
「歩兵1は左に直進し、交戦に移ってください」
続いて。歩兵2を追随させて一定距離で左翼を広げる。すでに歩兵は右翼で戦っているミルトリアの苛烈な遠距離魔法によって退避させている。それは相手も同じだ。一度目の交戦は左翼側に集中した歩兵同士だった。
そこにアルスがオルネウスを引き連れて乱戦にもつれ込む。
だが、二人の戦いに歩兵の出番などない、中央で展開されたアルスとオルネウスの戦闘は数分続いた。
単純な歩兵の戦闘でもテスフィア陣営はたった一度の交戦で3人も欠いている。そこに分断する形で割り込んだアルスは乱雑とした戦闘ではなく一時退却の旨を相手陣営にも強制するための乱入を試みた。
時間が経ち、テスフィアは何かに取り憑かれたように命令ボタンに触れた。マップ上のテスフィアの兵はさらに人数を減らす。
見ればアルスが乱入してから5分が経過していた。
「歩兵1はそのまま敵陣に駆け上がってください……今度は右に……歩兵2は………」
アイル陣営の兵がすべてマッピングされた。
一人木々の隙間でいつ襲ってくるかわからない敵兵に戦々恐々していたため傍にいないことがわかっただけも早鐘を打っていた心臓が静まり始める。だが、自軍の歩兵との距離が予想以上に離れていない。
気がつけば命令が追加される30秒が待ち遠しい。命令回数が0になっていようともボタンに触れようとする。
呼吸は荒々しく自分の命令の正当性を訴えるように生唾を飲み込む。
(大丈夫上手くいってる。大丈夫、大丈夫。これで……)
先ほどよりもミルトリアの方面の攻撃の音が激しくなり、何かあったのではとビクッと反応してしまう。
一人が不安で怖かったのだ。昼下がりとはいえテスフィアには木漏れ日を避ける影が陰鬱とした暗闇に見える。
一つ大きく跳ねる心臓に手を添えてテスフィアは大きく深呼吸を繰り返した。開始前まで意気込んでいたのが嘘のようだ。
命令を出すだけで背中を嫌な汗が伝っていく。
すでにテスフィア陣営の兵数は3人欠いている状況だ。歩兵同士で一度の交戦の末、現在は7対9という状態になっていた。マップに表示された光点を数えるまでもない。被害はあまりにも大きい。
兵同士の交戦の決着は審査員が戦闘不能と判断するか、腕輪が破壊された、もしくは奪われた場合のみだ。倒した場合は兵が自己申告として腕輪で伝えることもできる。しかし、戦闘不能となった兵はマップ上から消失する扱いとなる。
今試合に限り死者を出さないための配慮はされているが、何にでも事故はつきものだ。もちろんそれが貴族の裁定、戦争の縮小版と呼ばれる所以でもある。
フェーヴェル家に協力してくれた貴族はフローゼの人徳なのか相応の覚悟を持って臨んでいた。それでもできれば腕輪の破壊による戦闘不能であることを願うのだった。
そしてテスフィアは天に昇る矢を見て息を呑んだ。じわりと無意識に握りしめた拳の内側が湿る。
♢ ♢ ♢
アルスは背後からの攻撃を間一髪でかわし続ける。この戦場ではシルシラとミルトリアの真逆と言ってもよい一方的な戦況にあった。
幹を足場に大きく跳躍する。その後をオルネウスの拳が粉砕していく。
その後を見てやはりアルスは得体の知れない能力だと確信を得た。いくら木といえど破壊のされ方があまりに不自然だ。内部から弾かれたように破片が舞う。
およそ拳の範疇に収まらない威力が幹そのものを爆散させていた。
体術に含まれる近接戦闘ではオルネウスの使う技は魔法とは異なるプロセスを踏んでいるように思える。技術と言い換えてもいいのかもしれない。
周囲にはフェーヴェル家が掻き集めた歩兵が数人こちらを窺い見て徐々に後退している。
乱戦を上手く分断することには成功したようだ。
直後、空中でアルスは器用に反転する。背筋が警鐘を鳴らすのはこれで5度目だ。この場所に留まる程に形勢は不利になっていた。
オルネウスの驚異的な脚力は瞬間的な直線距離の速度でアルスを凌駕する。空中に逃げたところを狙われたのだ。
反転するアルスの視界の端で両手を引いたオルネウスが涼しい顔で狙いを定める。
刹那――アルスのナイフが遠心力を乗せて振われる。ナイフの先端からは魔力刀が伸び、すでに大剣と呼べる代物となっていた。
何かを摘むように軽く握られたオルネウスの腕はナイフの側面を叩く。正確無比というほど懸絶した戦闘力の差はない。しかし、大凡のタイミングは図られたのだろう。
刃と手刀は完全には触れていない。
「――クッ!」
手刀の威力にナイフを握る手は痺れ、とても握り続けることができない。急にナイフが何百倍にも重たくなったように手から勢いよく弾かれる。鎖が引かれ地面へと落下していった。
腕が下方に引っ張られ、体勢は逆さに近い。それでもアルスは空中で蹴りを顔面目がけて見舞う。
当然のように大した威力のない蹴りは腕で防がれてしまった。
だが、ギリギリ腕を蹴るようにして距離を稼ぐ、あの腕に触れさえしなければまだマシだ。
そんな消去法のように選んだ手段は痛みを伴う。
手が届かない距離でもオルネウスの脚は十分届く。空中で身体を捻り一回転した蹴りが逆さになったアルスへと薙ぎ振われる。
魔力を纏い鉄のような強度で鞭のようなしなりを見せる脚力は鈍い音をたてた。
十字に腕をクロスさせた腕の上を鈍器のように堅い足蹴りが防御を貫通して衝撃を伝わせた。腕越しの衝撃にアルスは意識が飛びそうになるのを堪える、その加えられた威力に腕の骨が悲鳴を上げる。
振り切られたと同時にアルスの身体は引っ張られるように吹き飛ばされた。
幹に直撃しないことを祈りながら木々の中へと消えていく。
すぐさまオルネウスも後を追おうとする……が。
「――――!!!」
空中で両手を組み、真後ろへと振り下ろした。
そこに迫ったのはアルスが取りこぼしたナイフだ。鎖が波打ち魔力で覆われたナイフがオルネウスの背後から襲いかかっていた。
刃と拳の衝突は一瞬で決着する。魔力同士のぶつかり合い、金属同士の衝突のような音が響き、ナイフは軌道を倍の速度で戻り地面に身を埋めた。そして、すぐに鎖は引かれていく。
機を逸したオルネウスは一度木に着地し、鎖の後を追う。
「おもっきし蹴りやがって!」
だいぶ速度も弱まったあたりでアルスは枝を掴んで空中で体勢を整え、ふらつきながらも着地した。
あの蹴りを受けて腕が折れていないのが不思議なぐらいだった。
というのも本来ならば魔力でガードしたとはいえ、そもそも魔力単体では防御に使える代物ではない。アルスのように形状を形成するならまだしも。
だからこそ魔力で腕を覆ったのだ。いくらかの威力は殺せただろうが、気がかりな点が解消された。
「魔力を弾くのか」
「さすがにわかりますか」
わざわざ奇襲を捨ててでもオルネウスは離れた場所から姿を晒して答えた。
「反発だろ?」
この答えにオルネウスは頬を緩める。
これが【狩人】と呼ばれた能力だ。いわゆる魔法師殺しとは行い以上にオルネウスの能力に理由がある。
魔法と呼ばれるものは魔力をエネルギーとしているがその核となるのは構成を辿り発現するために魔力を原動力としている。
以前、魔力操作による訓練でテスフィアとアリスに対してアルスが指で触れ、接触面から魔力を流すということをしたことがあった。これは異色の魔力による反発によって自身の魔力を知覚しやくするためにやったことだが、問題は魔力同士は反発するという点だ。
それをオルネウスは肌を打つ程度の反発から易々と相手を吹き飛ばせるほどの反発を生むことができた。
これは彼の持って生まれた資質とでもいうのだろうか、その代償として反発以外に使い道はなく、魔力を魔法へと昇華させることが永久にできない。
だが、この反発というのは物体だけでなく魔力そのものを弾くため、魔法による一切の攻撃を彼は受け付けない。
さすがに脚では上手い魔力操作まではできずに反発という能力で終わったが、その真骨頂は極められた両腕にある。
「ご想像にお任せします。ですが、そうですね。私の力を私は【ギルティ・ギフト】と呼んでいます」
「厄介な異能だな」
「お褒めの言葉と取らせてもらいます。それにしてもそろそろ疲れませんか?」
「……」
訝しい視線を向ける。試合中であり、彼はアイルの忠臣のはずだが。
「結局のところ、こんなお遊びでは私もアルス殿も全力にはなれません。私も主の命に背けませんし、お互い腕輪を取って再戦というのは」
「……抜けたこと言ってんな。外したきゃあんたが外せばいいだろ」
「そうですか、こんなことで殺してしまうのは惜しいのですが」
「失格扱いだぞ、それ」
「テンブラムは何があるかわかりませんからね」
猛禽類のような鋭い眼が嗜虐的な光を灯す。
手が小刻みに震えている。指の関節がパキパキと音立てるほどに奇怪に曲げられた手の甲は筋張っていた。
明らかな禁断症状だ。アルスは一つ思い出す、それは魔法師が手を染めやすい薬物。
「ケミカル・ブーストか」
「…………」
魔力の生成を強制的に促す違法薬物。その副作用として攻撃的になるというものがある。依存性が高く、魔力量の多さは長期間をかけて増やしていくものだが、突発的なかさ増しは本人の高揚を促進させる。
だが、オルネウスを見る限りでは身体が適応しているのか副作用と見られる症状は抑制されているようだった。もちろん体質的なものもあるのだろうが、見た目に現れないだけで内側はボロボロになっているのかもしれない。
「良質なものは手に入りづらいんですよ。それにせっかく強い方と拳を交える機会なんです。付き合ってもらいますよ」
アルスは待っていた。本当の意味での戦いが始まる時、準備した歯車が連結し、すべてが動き始める瞬間を。
それはすぐに訪れ、通信機器からの合図を聞き。
「そうも言ってられなくてな」
アルスはナイフを背後まで半円を描いて一閃させた。高木に切れ目が入り、緩慢な傾きを始める。
「これも反発できるか?」
近場の枝にぶつかりながら葉を落とし、バキバキという無数に折れ合う音を上げて木が倒れた。回避しようと思えば難しくないがオルネウスは挑戦と取ったのか微動だにせず、ただ両腕を突き上げる。
木はやはり地面に触れることができず、弾かれる。だが、今回は反発の威力に木では耐えることができなかった。何かの射出音ようなドンッと連続する音が鳴る度にいくつもの穴が穿たれ、粉々になった破片が宙を弾け飛ぶ。
その惨状をアルスは置き去りにして疾駆する。
(やっぱりか……)
音を背後に聞き、推察する。反発の原理は魔力同士の反発だ。自分以外の魔力に触れることで反発を促しているのだろう。その理屈で言えば無機物――魔力を持たない物体に対しては反発は発動しないはずだ。
だが、実際に成功している。予想することしかできないが、あるとすれば瞬時に魔力を移し、内部で反発を誘発させることだ。つまり異種の魔力を必要とせず、オルネウスの魔力そのものが反発という効果を生む。
万が一それが可能だとすればオルネウスの体術は恐ろしいほどの必殺である。反発状態から近づくのではなく接触直前で発揮される。一気に両者間に生まれる反発力は最大値に上がるだろう。
それでも魔力同士のぶつかりのほうが反発力は上昇する。内部から自分の魔力のみに反発を促すのであれば反発力は比較的小さい。もちろん内部でそんなことをされれば人体など一溜まりもないのだが。
魔力制限がなければまだ対応のしようもあるが今は分が悪いと言わざるを得ない。それに時間も差し迫っている。
背後から追ってくる気配を感じアルスは最も苛烈な戦場に向かった。