赤華に彩られる
部下に追尾を任せて、ヒスピダは珍しく軍に足を運ぶ。
そこでのやり取りは実に素っ気ないものだった。任務――外界調査の一環と体の良い嘘を吐いて防護壁を潜った時、ヒスピダの顔は不敵に歪んでいた。
AWRの製造、そのための資源調査などヒスピダに限っては珍しいことではない。一切の疑いもなくスルー。
悲願と形容しても当の本人の表情は何かに取り憑かれたように遠くをだけを見つめている。
国の防衛を一手に引き受けるヒスピダは取り分け積極的な討伐には駆り出される頻度が少ない。というのもそれは彼女の魔法上の特性ではなく効率を考えれば、もう一人のシングル魔法師、ジャンのほうが適任だっただけだ。
だから、ヒスピダが防衛を主な任務としているのは彼女の魔法とは一切関係がなかった。
突き動かされる鼓動が足を動かせと指示をだす。早く、早くシグサムを殺した奴を嬲り殺してやれとドス黒い何かが指示を出してくる。
ヒスピダはそれを笑顔で受け入れた。
「場所は?」
『【脆弱な木柱】です。例の老木近辺にいます』
耳に着けた通信機器から今日の今日まで慕ってくれた部下の声が決意を込めて届く。ヒスピダの復讐を影で支えてくれた彼女には感謝してもしきれないだろう。
こうして二人三脚で数年、やっとこの日を迎えることができたのだ。
ヒスピダは天高く跳躍した。そしてふわっと彼女の身体が風に撫でられるように浮く。今、ヒスピダの前には分厚い図鑑のような魔法書型AWRが手も触れずに一定の距離に浮いていた。
開かれたページが淡く発光している。
直後、彼女の背中で爆風が巻き起こり身体は押されるままに宙を移動した。ヒスピダは【風乗り】で背の高い木々を眼下に飛翔した。ただ、その速度は到底【風乗り】というには速度において圧倒的だ。
巨木が傾き、根を地面から浮き上がらせるほどの暴風を伴ってヒスピダは空を一直線に飛翔した。
あっという間に目的地に着いたヒスピダは少し手前でローブをはためかせて眼下の人影目掛けて着地する。
警戒を一瞬とはいえ緩めたのもそこに見た人物が酷い違和感を与える一方で顔見知りでもあったからだ。
木陰から姿を露わした少年は外套を羽織っていた。ヒスピダは疑問よりも違和感を抱きつつ問う。
「何故あなたがここに? アルスさん」
「この辺りには珍しい魔物が自生しているらしいと聞きまして、後学のために。もちろん元首様には許可を得ました」
ヒスピダは警戒心故にいつものような間延びした声は鳴りを潜め、語気を強めた。
あまりにも不可解な偶然。何よりも昨日とで決定的な違いに気がつく。
「アルスさん、ロキさんはどちらに?」
そういって気付かれないように後退りする。
昨日会った印象としてパートナーと紹介されたロキは随分とアルスにご執心のようだった。そんな姿が初々しく記憶に留めておくに至っている。
だから、違和感というほどの疑問でもない。外界で単独行動させるには少し不可解。ここは勝手知ったるアルファではないのだから尚更だ。
微妙な変化に注視するようにヒスピダはアルスを見る。
「……ロキはもちろん置いてきましたよ。どれほど時間が掛かるかわかりませんし、わざわざ連れてくる必要もありません」
僅かな逡巡をヒスピダは見逃さなかった。何よりも二人には上下関係という程の距離はないように感じていた。
彼女が感じた違和感とはまさにそれだ。連れてくる必要性での判断はロキの役割であるパートナーしか見ていない。ヒスピダから見たアルスとロキはそれこそ二人で一対と呼べる程に親密だった。
致命的な点は時間の想定をしていないということ。馬車に同乗していたがために偶然聞いた話だが、事前にアルスの予定を聞かされていれば絶対に気付く。
腰を低く、臨戦態勢に入る。そしてようやくヒスピダは自分の置かれている状況を理解した。距離はあるものの背後に一人、斜向かいにも一人潜んでいることに気がつく。
「貴様は誰だ!」
「おや、どこで気付かれました?」
これまでのやり取りが茶番、蛇足だとでも言うようにあっさりとアルスは自白する。
「あんた、アルスさんのこの後の予定を知らないでしょ? まさか元首との会談が控えている状況で外界に出る者がいるわけないわ」
「これは迂闊、迂闊……でも、そこまで徹底する必要はありませんから、あなたにはここで死んでもらいますし」
誘い込まれたのか、それとも出くわしただけなのか。おそらく前者であるとヒスピダは考えた。ならば思考の流れとしてはこの後に彼女が考えたのは必然。
「ミゼリィに何をしたのっ!」
そう、直前まで通信で位置を教えてくれたミゼリィは長年共に犯人を追った友人だ。嫌な考えが過る。
「あ~、はいはい、彼女ですか、すぐに思い出せませんでしたよ……」
「……!!」
直後、アルスだった何かは全身を液体のように鮮血に染まらせるとすぐに新たなシルエットを構築する。少し小さくなると色が着き。
「――――!! 貴様ッ!!!」
「おや、この方であってましたか」
ヒスピダの前には新たに変化した姿でミゼリィが立っていた。が、そこに刻まれた表情をヒスピダは一度として見たことのない。それほど奇怪に醜悪な笑みを湛えている。
ヒスピダの憎悪に燃える表情は異能に対する疑問を押し退けて復讐を一つ追加させるだけだった。
「あぁ~その顔が見たくてわざわざこんな雑魚を記憶したのですから、無駄にならなくてよかった。安心してください命乞いすら許さず殺してあげましたから。今頃魔物が貪っている頃合いでしょう」
これで誘い込まれたことが確定した。おそらくこの位置情報を知らせる前にミゼリィはすでに死んでいたのだろう。ヒスピダは胸中で謝った。必ず仇は討つからと。
瞬間、爆発的にヒスピダを取り巻く魔力の奔流が偽りのミゼリィを襲う。
「さすがはシングル。ルサールカの片翼……い、いいですねぇ、欲しいですねぇ」
だが、すぐに戦闘は始まらない。その前にヒスピダにはやらなければならない……確認しなければならないことがあった。
「オラン、オラン・トピットホンはあなたねっ!」
「えぇ、もちろんです」
「……気付かせるためね」
「はい」
快活にミゼリィは声を跳ねさせる。
逆鱗に触れられてもなおヒスピダは自制する。
全てが繋がった。シグサムが殺された日、当時すでに死んでいるオランが軍内部に姿を現したこと。そして今、またオランが姿を見せた。
ヒスピダは唇を噛み千切る。
そう、何もかもこの時のために準備されていたという事実。
「あなたなら必ず気付くと思っていましたからね。また姿を現せば必ず乗ってくると思っていましたよ。けれども一つだけ誤解を解いておかなければなりませんね」
「何が誤解だというの!」
「それは……シグサムがまだ生きているという事実ですよ」
「――ッ!! ふざけないでそんな訳ない!!」
火葬まで見取ったヒスピダは断言する。別れを告げ、復讐を誓ったあの日を。
だからそれが虚言であると確信し、こちらの怒りを逆撫でするための言であるはずなのだ。
「いえいえ、これは事実ですよ。彼は随分と重宝していますし」
小馬鹿にしたミゼリィの見たこともない笑みが臨界点を容易く超えた。友人を侮辱され、夫を貶められた。
膨大な魔力が魔法書型のAWRに注ぎ込まれ、パラパラとページが捲れ、3枚の紙が破れ正面に浮遊する。
それに対してミゼリィの姿を模したメクフィスは潜んでいる仲間に手を出さないように目配せした。
「もういい、しゃべるなあぁぁ!!」
「せっかくですから愛した者に殺されてください」
嗜虐的な笑みを見せると同時。
ヒスピダの魔法が発現する。
注がれた魔力の総量は膨大にして圧倒的。構築される魔法は彼女の怒りを代弁するように猛威を振るう。三枚の紙に刻まれた魔法式は全てが半端だった。それが合わさるように重ねられ、初めて一つの魔法式を作った。
たった一度、この時のためだけにとっておいた使い捨ての単一魔法式。残酷さだけを追求した魔法。
瞬間、メクフィスは風に項を撫でられたような怖気を感じた。
気がつけば風の流れが見て取れるほど濃密に自分の周囲、全方位を取り巻いている。その流れの中にキラキラと映る礫を見。
「これは凄い、まるで研磨機ですね」
この中に身を晒せば向こう側に辿りつく前に削られてしまうだろう。
だが、それで終わりではなかった。ボコと外側に現れた木柱が四つ。
その頂点に魔力で作られた球体が浮遊している。
それが何の効力を持つのかメクフィスは身を以て体感した。そう両腕、両足が引っ張られるのだ。
爪先が暴風に触れた直後鮮血が飛び散る。
「おぉ~これは素晴らしい。死ぬ前に魔法名だけでもお聞きしても?」
「冥土の土産に持って行きなさい。【絶界反引】」
まるで処刑のような光景だったが、ヒスピダの顔はそれを無表情で見た。これで長きに渡る戦いが終わる。ただそれだけだった。
やっと墓標に報告ができると。
が――。
「な、何ッ!!」
全てが終わると思った瞬間、メクフィスを中心に黒煙が溢れ出した。まるで嵐の前の黒雲が一帯を覆いつしたようだ。
バチバチと雷鳴がヒスピダの身体を襲った。しかし、それは電撃ではない。肌をヒリヒリとさせる感触にヒスピダは驚愕する。
「う、うそ……そんなはずないわっ!! ありえない」
視界のきかない状況でヒスピダは混乱をきたし、迷子のようにうろうろと覚束ない足取りで周囲を見た。
この魔法は彼しか使えないはずなのだ。
「【極黒雲】!!」
この迸る電撃のようなものは電撃とは意を反するもの。この内部では術者以外の魔法を阻害する。魔物に対しても魔法師に対しても絶大な効力、絶対的な優位な状況を一瞬で構築する魔法。
これを使えるのは世界広しと言えどシグサムだけだった。この魔法があったが故に彼はシングル魔法師にまで手を伸ばしかけたのだ。
ヒスピダの脳内はそんなあり得ない光景に堂々巡りを繰り返していた。
(嘘、嘘、嘘よ。絶対……こんなことシグサム……シグサムだけのま、魔法……)
この魔法に欠点などない。シグサムの場合たった一つ、この魔法を使うために系統の訓練を捨てた。魔法としての構成を一から組み上げ、性質そのものに手を加えた。絶対無二の魔法。
その開発にはヒスピダも付き合ったことがある。
だからこそわかってしまうし、拒んでしまう。
視界の利かない霧のような黒雲に呑み込まれた時点で魔法は行使できない。ジャミングではなく追加する効果は正確に魔法の構築を阻害する。
構成を妨げるジャミングではなく、構成段階で余分な要素を勝手に追加するのがこの【極黒雲】の厄介な点だ。
幻想だと言い聞かせるヒスピダは必死に手で雲を掻き分け、払う。
「ありえない、ありないのよ。シグサムはもう……」
濃い霧がヒスピダの前で割れた。
「しまっ……!!」
が、その中から現れた顔にヒスピダは張り詰めていた糸が弛緩する。迎撃に備えた魔力が一瞬にして緩む。
「ヒスピダ……」
今も鮮明に思い出せる、その聞き間違いようもないシグサムの優しい声音。続いて時間が止まったように左手がヒスピダの頬を撫でる。
復讐が遂げられるその日まで思い出さないようにしていた幸福な記憶がフラッシュバックしていく。心が瞬く間に満たされた。
震える喉が当時を振り返らせる。募り、溜め込んだヒスピダの涙が頬を伝った。
「あなた……」
ドンッと衝撃に続いて胸が熱くなる。そして彼女の口から鮮血が勢いよく溢れ出した。
「言ったでしょう。彼は私の中で今も生きていますよ」
メクフィスはシグサムの顔で醜悪な笑みを浮かべて右手に持つ短剣を更に深くヒスピダの胸に押し込む。そのまま足を動かし、突き刺したまま幹に押し付ける。
「彼と同じように死ぬといい」
その言葉はすでにヒスピダの耳には届いていない。掠れた光の乏しい瞳はシグサムの姿をしたメクフィスに向けられている。
幹に釘付けにされた衝撃にヒスピダはドロッとした血液を吐きだす。それでも彼女は弱々しく真っ赤に染まった腕を持ち上げ……シグサムの頬に触れた。
何をしゃべったのか、口が僅かに動いたがそこから音が発せられることはない。
事切れたように腕が落ち、首の力がスッと抜けて行く。
メクフィスは短剣から手を離し、軽いステップで着地すると頬にべったりと付き、滴る血を舐めた。
「極上の情報だ。さて、順調なら次は……」