悲劇の花嫁
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7年も経つだろうか。
その家は昔とは随分様相を変化させていた。本来適度な調度品が置かれ、どこにでもある家庭の形として年を重ね味わい深い物に変わるはずだった。
一つ一つが日々の想いをその内に蓄積し、感慨深く老朽化していく。年季を感じさせてくれるはずだったのだ。不幸も幸福も一緒に良い思い出として変わっていくことで年の経過を実感させくれる。
だが、この屋内にはそんな想いの不幸な部分だけが集約されていた。
二階建ての家屋は広くもなく狭くもない。本当にどこにでもある一軒家。
しかし、当時の面影を残しているのは無駄に劣化した外壁だけだ。部屋という部屋には散らかるだけ散らかった書類の数々が山積みに置かれている。収納棚はいくつも壁面に置かれているものの、それを遥かに凌ぐ量が置き場を求めてスペースを独占していた。
そんな部屋の中でも彼女が毎日のように訪れる部屋がある。この家には彼女一人しか住んでいないにも関わらず、そこには鍵が掛かっていた。
セキュリティの為でないのは彼女がポケットから取り出した旧時代の鍵が鍵穴に通されたことを見れば判断できよう。
一歩踏み込んだ室内は暗く閉ざされていた。壁面を埋め尽くす膨大な資料を誰にも見られたくなかったのだ。そう、誰にも。
ここにある資料は全て一つの事件に関連していた。
『シグサム・シェヴァン』の殺害に関するものだ。7年前の事件は当時ルサールカ国内を騒然とさせた。シグサムは当時12位という高位魔法師、次のシングル魔法師候補として有力な男だった。未だに解決の目途すら立たないこの事件は人々の記憶から忘れさせようとしている。
そんな中で彼女だけは今も鮮明に記憶を辿ることができた。今も変わらない憎悪を身に宿すことができた。
時間を重ねることで増す憎悪の炎を彼女は絶やさぬためにこの部屋に毎日足を運んでいる――薪を焚べるかのように。
艶のない髪と張りを年毎に失いつつある肌だけが年の経過と焦燥を募らせる。
彼女は夕方に帰宅してすぐこの部屋に足を運んだ。今日はこれで二回目だろうか。
日に日に訪れる頻度が増えているようにも思えた。
当時の事件を一面にした記事のデータを紙面に落とし、それを壁面いっぱいに張り付けている。彼女は迷いなく寄ると大きな見出しとして書かれた『シグサム・シェヴァン』の名前を指でなぞった。すでに何百、いや何千回と擦っているせいか、掠れてきている。
「あなた……」
7年前に呼んだ言葉が今も続けて彼女の口から発せられた。
結婚して間もなく、事件は起きた。まさに幸せの絶頂にある彼女はシグサムと同じ隊の中で愛を芽生えさせた。当時としてはまさに魔法師の憧れの形だ。
結婚まで幾度となく任務を共にし絆を深めていった。結婚までは本当に早かった。今にして思えば運命を信じてしまいそうになるほどに順風満帆。人類が絶望的な状況に追いやられてもなお幸福を見つけられた二人は魔法師たちの希望でもあった。
誰もが祝福してくれた。いつ命を落とすともしれない魔法師は人としての幸せには程遠い人種である。その先入観を壊したのが二人だ。
当時、魔法師同士の結婚は珍しいことではなかったが、貴族でもない魔法師にとっては博打も良い所。実情は同棲しても籍は入れないという手段が大半だった。
ある意味では高位魔法師の二人は先駆者として大いに背中を押したことは事実であろう。
シグサム・シェヴァンとヒスピダ・オフェームは大差ない実力であり一目置かれる魔法師だった。
大々的に式を挙げ、国民に愛され尊敬される夫婦となった。
ヒスピダは任務を極力減らして家事に専念し、シグサムは外界で任務をこなしていく。彼は任務の後は必ず帰宅するという夫の鏡のような人だ。
円満な生活は結婚前と変わらない、変わったことと言えばシグサムを「あなた」と呼ぶくらいだろうか。それでも充実した毎日は濃密な幸せを与え続けた。
だが、そんな幸せは最悪な形としてすぐに瓦解する。訃報がヒスピダの耳に届いたのはシグサムがいつものように外界の任務に出て翌日のことだった。
ヒスピダも魔法師だ、いつかは覚悟していたこと。あまりに早過ぎるとは嘆いても覚悟はできていた。納得できるか、受け止めきれるかは別としても考えたことは幾度もある。
彼ともそれを理解した上で契りを結んだのだ。だからこそ彼女は彼が任務に向かう時は必ず無事を祈って送り出していた。
そんな覚悟を一瞬で崩壊させる一言を嘆き悲しむ彼女は聞くことになる。
それはシグサムが外界で殺害されたという事実。胸を一突き、幹に張り付けられていた。隊は全滅、犯人はわからないそうだ。
シグサムはルサールカでも期待のホープ、シングル魔法師にもっとも近いと目される人物だ。たとえ隊員の離反だとしても易々とやられるような男ではない。
なんとか魔物に喰われる前に死体を回収できたのが唯一の救い。いや、それも不幸中の些細な救いでしかない。
そう、この時ヒスピダは胸中で渦巻く激昂を抑えることができなかった。哀悼すら抱かせない程の怒りに打ち震えた。涙は悲しみを湛えない。
まだ……まだ外界で魔物に敗北したと言われればどれほどマシだったか。いや、それでも喉が潰れるまで慟哭しただろう。身体中の水分の分、涙しただろう。くしゃくしゃの顔で何日も泣いただろう。
だが、いつかは越えられるはずだ。
しかし、魔物ではなく人間に殺されたとなれば名誉ある死とは程遠い。こんな理不尽は何日泣いても許せるはずがなかった。
その頃からヒスピダは復讐の炎を胸に灯らせる。必死に魔法を磨き、彼が手を伸ばしかけたシングルにも就くことができた。
ヒスピダの力は復讐するためだけに研ぎ澄まされたといえる。コツコツと任務の合間に情報を集めるが、やはり軍でも目星すら付けることができなかった。それも三年もすれば未解決事件として捜査は一端の打ち切りとなる。
それでもヒスピダだけはずっと、今日まで情報を集めて回った。当時の彼女の妄執に取り付かれたような必死さを知る者は密かに彼女を『悲劇の花嫁』と呼んだ。
そんな彼女の焦燥は未解決に終わることとは少し意味合いを異にする。
それは怒りの炎に薪を焚べるための部屋が最近になって少し別の感情をもたらしていた。思い出してしまうのだ、幸福だった往事を追憶してしまう。
満たされなかった胸が憎悪の炎ではなく思い出が満たそうとするのだ。胸を重く鋭い悲しみが締め付ける。
ヒスピダはそれを拒むためにこの部屋を作ったのだ。だというのにここしばらくは過去を追想してしまう。
この部屋にはシグサムとの思い出は一切合切排除している。彼にだけは見られたくなかったからだ。
だというのに……。
商人としての顔はヒスピダの本質とは少し食い違っていた。才能、商才があるのではと気付いたのも市井と関わりを持つようになったからだった。魔法師では知り得ない他国の裏情報も商人の間では流れることが多い。
シングル魔法師という枷に気付いた時はすでに遅かった。自国から離れることも難しく、他国に潜入するなどもってのほか、シングル魔法師とは自由を奪われた蔑称だと感じていた。
だからこそヒスピダはルサールカを最大商業都市として発展させた。他国からも商人を招き入れるほど大きく盛んにしたのだ。
ここまで数年を要し、やっとここまできた。元首に進言して商人の関税を撤廃させるなど手を尽くして情報を集めた。
だが、わかったことは些細な不一致。
事件当時ルサールカ内の全魔法師の動向を洗い出したヒスピダはそこであり得ない映像を目にした。事件が起こった数時間後のルサールカ軍内部の監視映像では『オラン・トピットホン』という外界任務を主とする30代の魔法師が映っていた。
これだけならば何も不自然ではない。だが、後に彼は記録映像の前日に自宅で急死していたことがわかる。
持病によるものだったが、この映像はヒスピダに確信めいたものを抱かせた。だが、それからというものオランに関連する情報は皆無、それ以降姿を捉えたという話はない。
だが、それもつい今し方までの話だ。ほんの数十分前に信頼する部下から入った情報によればオランはここルサールカにいる。
ヒスピダは身支度も碌に済ませずこの部屋に足を運んでいた。そう、彼の名前を擦るのもまたこれで最後となるだろう。