思わぬ報告と魔法師が故の……
ルサールカ内における最高級ホテルに宿泊中のアルスとロキはジャンの要らない気遣いの所為で同じ部屋に宛がわれた。
昨晩の夜食はそれはそれは……大変だった、とアルスの胸中を代弁する。
いや、それもまた翌日に疲労が残らないことからすれば然して問題にすべきではないのだろう。
食べ終わるのに2時間も掛かったのは単にシェフの不手際ではない。詳細に語るならば、最高級のディナーにはそれに相応しいドレスコードというものが存在する。
そして当然のようにアルスがその手の服装を持ち歩いているはずもなかった。もちろんその日に着ていた服装でもきっとクリアできたのだと思われたが、ジャンの要らないお節介の所為で少しばかり汗を吸っていた。
さすがに臭うということはないまでも、相応しくはないのだろう。
いろいろと手の行き届いたホテル内には当然のように衣装ルームが用意され、そこでレンタルできるようだった。
コーディネーターに着せられるままに任せたアルスは夕食の場に赴く。凄まじく広いカーペットはワインレッドと落ち着いた色調のレストランだった。高層にあるレストランは閑散と満たされた空気だというのに情緒豊かだ。どこからか仄かで柔らかい優しい香りを漂わせている。
きっと通常営業ならばここにはいくつものテーブルが並ぶのだろうが、アルスが見た限りではテーブルと椅子が二脚しかなかった。
ガラス張りの景色は月光を採光として、絶妙にテーブルへと降り注がせている。
ゆったりとした楽器の音色が心地よく鼓膜を振るわせ、心を落ち着かせていく。せかせかと働くことを拒否されているような気分になってくる、そんな空間だった。
アルスは一望できるガラス張りの窓に寄ると心が揺れるのを感じた。フォネスワの街並みが夜闇を押し退けるように輝いて見えた。
それはフォネスワという街の構造上、中心から放射状にメインストリートが伸びているため花火のような景色を生んでいる。こんな景色はアルファではまずお目に掛かれない。
「綺麗ですね」
いつの間にか隣で同じ景色を眺めていたロキが胸の内に抱いた率直な感性を紡いだ。
「あぁ……」
愛想のない相槌を吐いても仕方がない。どう言葉を探そうとも表現するだけの語彙が見つからなかったのだから。
振り向いたアルスは即座に呼吸が止まった。息を呑んでしまったのだ。
一つ胸が跳ねた。
つい今し方景色を視界に収めたのと同じ現象が起きた。
眼前にある銀糸の髪はセットされ月光を反射して光り輝いている。首のラインから脇の下に伸びるドレスは袖を取り去った大胆な格好だった。その上にショールを羽織っている。
アルスは反応に困る。というか言葉がすぐに出てこなかった。思考は漂泊され全ての意識は眼の前の美女に注がれていた。
「アルス様……?」
立ち竦むアルスを心配そうな、それでいて何かを訴えかけるような声が投げられた。
ロキにとってはこれが最も重要なことだ。自分を異性と見てもらう為の努力。だからこそ背中が露わになってしまう服装を選んでもらったのだ――たとえ肩口から走る傷痕が見えようとも。
この第一声はロキに糸を張ったような緊張感を伴わせた。浅ましくも期待してしまう自分に罵声を浴びせたい程だ。でも、姿見の前でこれならと期待したロキにとっては自問自答にすらならない。正装と言えば軍服以外着たこともないのだから、きっとその時に女性である何かが心の中で膨らんだのだろう。
たった一言が欲しいため。
しかし、そんな期待とは裏腹にアルスは拙い作法でロキの傍まで移動して椅子を引いた。
あっと心の落胆が漏れた。冷えていく胸の内を抱き、ロキは裾を巻き込むように椅子に座る。
しかし、アルスが離れる間際……耳元で悪魔が囁いた。いや、ロキの場合は神の神託だったのかもしれない。
「凄く綺麗だ」
「ッ…………」
心臓がバクンッと舞い上がる。
待っていた言葉を聞いただけで、当然心の準備をしていなかったと言えば嘘になる。だというのに全身を白を基調とした衣装で唯一真っ赤に染まっていく箇所があった。
ニヤけてしまう頬に嬉しくて歯が浮きそうなる口元を必死に押さえ込んだ。
「反則です……」
静寂の中にいてもその呟きだけは消え入りそうに溶けていく。
こんなやり取りがあったがために食事が始まるのはそれから30分も後になってからだった。
♢ ♢ ♢
翌日早朝、アルスとロキはルサールカ中層から富裕層の中間に位置する宮殿に招待されていた。
ここはルサールカにおける内政・外政を司る国家機関である。ただやはりというべきなのか、アルファにも言えることだが旧世代風の建物であるのは元首であるリチア・トゥーフ・インフラッタという皇族故だろう。
ケイエノス宮殿と呼ばれるここの見た目は両手で囲うように湾曲している。圧巻な広壮宮殿であるが、ひとたび足を踏み入れれば内部は最新設備が整った仕事場に変わる。
外観の期待を裏切られることはすでにアルファの王宮で経験済みだ。
なお、この宮殿は迎賓館も兼ねており、現在は丁度宮殿の中央に設けられた庭園で会談に興じていた。宮殿内にこんな憩いのスペースがあることには驚いたが、聞けばリチアのティータイムのためだけに作られたらしい。周囲はガラス張りのサンルームとなっている。
咲き乱れる花の中央に小しゃれた東屋があり、そこのテラスで優雅な時間を過ごしていた。少し格式ばった会合を予想していただけに意外感はあったものの、気は楽だ。
そんなわけで昨日のように正装しているわけでもないアルスとロキはまるで友人感覚で招待されたのではないのかと思ってしまうほどだった。
大理石のような円形テーブルは一つの石からくり抜いたような作りだ。この場にはリチアとジャン、アルスとロキが座っている。
「わざわざ学院で講義までしていただいたようで無理を言ってしまいましたかしら?」
「いえ、これぐらいならばお安いご用です」
アルスは比較的柔和な顔を作った。他国元首に真っ向から喧嘩を売るのはアホのすることだ。招待されて来ている以上やはり避けらないことだったのだろう。
それに実りがないわけではなかったのでアルスとしてはそれこそ無為な時間だったとは思っていない。
「それと、どうでしたかフォネスワの街並みは」
ティーカップを受け皿に置いたリチアが快活に問う。その表情からも学院に対しては専門外といったところだったのだろう。彼女がもっとも聞きたいのはこのルサールカという国の評価だ。
「えぇ、素晴らしかったですよ。中々アルファには見られない光景でしたね」
「そうでしょうとも、私が心血を注いで改革したのですから、なんて言ったら業腹かしらね。やっぱり民衆が賛同しない改革でないとどんな妙案でも意味がありませんもの」
内政を先導するリチアの手腕は顕著にルサールカを彩っている。
しかし、次の瞬間語気が強まった。
「その点、シセルニアさんのやり方にはあまり好みませんわ」
「リチア様……」
他国の元首を誹謗しそうな雰囲気にジャンが止めに入る。
「ま、まあ先見の明という点では認めざるを得ません、けど」
リチアはシセルニアをライバル視しているが、それは自分にはない才覚を宿しているからだ。だからこそ比較の矢面に立つのは仕方がない。
それにこれは何も感情だけで話していないことがアルスにはわかった。
ジャンの目配せにアルスは気にしていないと返す。それほど愛国心がないアルスにとってシセルニアはただの元首だ。それ以上でもなければそれ以下であろうはずもない。
最もアルス自身が彼女をあまり信用していないことにも原因はあるのだが。
それでもここは一旦自国の元首を立てておこうと口を開く。
「リチア様にも先見の明はございますよ。でなければ類を見ないほどの発展はありえません。それとシセルニア様にはシセルニア様なりのやり方があります。我が国の元首は転移門を始めとするライフラインをすぐさま整備させるその手腕に疑いはありません。ただなんと言いますか、裏工作を得意とされる方なので……」
「そう! それよ。私はそれが好きになれませんの、元首とは国のシンボル。それが裏でこそこそと」
さすがのジャンも匙を投げたのか今回は割って入ることをしなかった。相手がアルスでなければこうはいかなかっただろうが。
「リチア様とは気が合いそうですね。俺もシセルニア様の考えが唯一読めません。たぶんですがテーブルゲームで彼女に勝てる人間はいない気がします。そういう駆け引きにおいては天賦の才がおありですから」
「気が合うというわりには持ち上げますのね」
「少し違いますね。持ち上げるのではなく、すでに持ち上がってるんです――厳然とした事実として。もちろん自国の情報を漏らす気はありませんよ」
「あら、連れませんわ。とは言ってもそんなつもりで招待したわけではありませんのよ」
朗らかで上品な笑みを口元に湛えるリチアは上機嫌で次の話題に移る。
この辺りはシセルニアにはない巧みな話術と言えるのだろう。しれっと、一切継ぎ目を感じさせない流れからバルメスに進行した変異体の話題に切り替わった。
さすがのアルスも全てを秘匿できるわけもないので核心を突かれないように思考を回転させる。
鋭い切り込みをギリギリで躱すのはさすがのアルスでも間一髪と言えただろう。相手が元首である以上、黙秘は良い印象を与えない。突き放すことができないのもこのリチアという人間の持つ巧妙さだ。
この防戦はもしかするとアルスだからこそ感じているのかもしれなかった。そう、あくまで談笑の一つ。その装いの技術はアルスの不得手とするところだ。
これはどちらかというと貴族に類する人種の得意とする処世術なのだろう。
表面上リチアはかつて経験したことのない未曽有の危機を退けた英雄譚を聞きたい。そんな表情だった。
アルスが難を逃れることができたのはリチアが魔物に対して深い知識を有していないことが幸いしていた。
しかし、この場にもう一人シングル魔法師が存在する。その者が魔物について無知とは言えまい。
「だがなアルス、俺も悪食と呼ばれる魔物を直に見たことはないが、魔法師を数百規模で喰らってその程度で済むとは俄には信じられないんだが」
アルカイックスマイルを維持したまま含むところを勘繰らせない声音でジャンが問う。
「報告書は上がってるだろう。見た目ほど楽じゃないのは確かだな。俺も悪食は知識だけだったから足元を掬われかけた」
実際には足元を完全に掬われたのだが。
「なるほど、まだまだ魔物に対する知識は人類共通の急務か」
「そうなる。無理難題だとは思うが魔法師に求められる技術も魔法だけに留まらなくなってきたのを骨身に染みる討伐だったな。正直魔法に頼るだけの戦い方じゃ生き残れなくなってきている」
「魔物もまた進化するということか」
ジャンの総括をアルスは苦々しく頷く。
過去の大災厄の際も、そして今もアルスが警鐘を鳴らすのは魔法師の身体技能の向上だ。魔物の強固な外骨格を砕くには魔法を駆使するほかないのは事実だが、動かない的などありえない外界で魔法師は攻防ができるだけの技術が要求されてしかるべきだ。
最後とでも言うようにジャンがダメ元で爆弾の投下を図った。
「それだけの魔力を内包しているから魔力爆発という事態になったわけだろ?」
「あぁ」
「魔力爆発は魔力の総量に比例するはずだけど、よく無事だったな」
明け透けなく他意を感じさせないジャンとその解答に聞き耳を立てているであろうリチア。
「…………防ぐだけならどうとでもなる。まぁ防ぎ切れなかったわけだが」
担ぎ込まれたことを暗に告げ、気付くのがもう一瞬遅れていたらそれこそどうなっていたか嘯く。
「結果的に被害は最小限だったんだ。結果良ければ誰も文句は言わないだろ」
「はいはい、物騒な話はそれまで」
収穫を得られないと見切りを付けたリチアが手を可愛らしくパンッと鳴らした。
その視線はあからさまな喜色を湛え、アルスの隣で黙って見守っていたロキへと移る。