戯れと英詩の序章
最南端のアルファで内部分裂が起きようとしていた頃、その正反対の国では静かに安寧を崩す工作が進行していた。
最北端に防衛拠点を築くこの地には他国と比べて比較的魔物の進行は遅い。単純な魔法師の死亡率で言えば遭遇頻度からして低いのは当然であろう。
魔法師の練度には些か不安は残るが、死亡率が低いというのは単純な意味で軍事的に強固さを構築できる。経験を積んだ魔法師が昇進し階級を上げることで下の者の教育を充実させることができていた。というのもこの平和な地では他国と協力することがしばしばあるからだ。この国における戦術概念とは謂わば他国の入れ知恵に等しい。
7カ国全ての中でこのハイドランジという名は平和の象徴としての意味がある。領土が狭い代わりに穏やかな風土だ。そのせいもあり市井は片田舎を思い起こすほど民衆の気質の柔らかさがあった。
この国が魔物の脅威に晒されたのは彼此80年も前になる。過去の大災厄でさえ進行は南であったため、ハイドランジの人々は人類が魔物という上位種に恐れ戦く毎日とは少し縁遠い環境にあった。
特段誰が優秀であるということはない。確かに優秀な人材は多いと自負する国柄ではあるのだが、他国、特にアルファのような三巨頭だったりと時代を引っ張る人材には恵まれていない。
いや、そういった人物は苛烈な状況に身を置くことで生まれるのかもしれないが。
それでもやはりこの平和が続くのはハイドランジの軍勢が優秀であるからなのだろう。
だが、何もかもが秀でているわけではなかった。
「これでいいのだろうな」
「えぇ、もちろんですラフセナル様。全ては栄華のために必要なことです、私達の」
黒縁の眼鏡をかけた青年はレンズの向こうで柔和に微笑んで見せた。
元首邸宅内、厳重に隔壁された一室は二人が合う際に用いている場所だ。なおここはハイドランジ元首、ラフセナル・コージョドアの書斎から繋がる隠し部屋である。
全ての探知魔法を妨害するために用意されていた。
ラフセナルは30も半ばであるが、歳の割には若く見える。色素の薄い肌と髪は見るからに温室育ちと言った具合だ。贅の限りを尽くして育てられた、そんな人物だった。
だからこそ彼は常に正しいことをしようとするのではなく、合ってるか間違ってるかで判断する。しかもそれを他人の意見に乗っかるという小心者具合であった。
だが彼にも望むべき願望はあった。小物ではあるが血の高潔さだけは人一倍強い。典型的な上に立つ者の器ではなかった。
それでもハイドランジがこれまでやってこれたのは紛れもなく補佐する周囲が優秀だったからだろう。
「お前たちが頼りなのだ。お前の言う通りにここまで準備してきたのだからな。バルメスがなんとか気を逸らしてくれたから良いようなものだけど、もう勘弁してほしいな。お腹がずっとキリキリしているんだ」
「申し訳ありません。いずれも無法者であるものですから」
「しっかり言うことを聞かせてくれなければ私は終わりだ。当然お前もな」
「わかってますよ」
青年は満面の笑みを張り付けて従僕となる。実に長い間準備に時間が掛かったものだ。今更言われるまでもない。
「では私はショーに向けての準備を整えます」
「ちょ、ちょっと待て、わ、私は何をすれば良いのだ」
「当分は大丈夫でしょうから、贅の限りを尽くされるのが良いでしょうね。大局を俯瞰するのはいつの時代も偉い方々ですからね。豪勢な食事をするもいいですし、女を抱くのもいいのではないですか? さすがに悪目立ちをされては困りますが」
「わ、わかった。自重しよう」
不気味な笑みで皮肉を言われたラフセナルはばつの悪い顔で頷いた。小物感が凄まじいくせに自分よりも格下になると途端に強くなるのは人間の醜い部分なのだろう。
そんな欲に忠実、というより欲を自制することすらできない。この男は毎夜のように女人を床に呼ぶことで悪い噂がたっていた。
まだ子供を設けるのならば良かったのだろうが、そうでもない。火遊び、または夜遊びとでも言えばいいのだろうか。兎に角、手癖が悪いことで国内では有名であった。
元首邸宅の中から一人の青年が丁度出てきたところ。
ポケットにしまった小説も今ばかりは読む気にすらならないのか青年は首をコキコキと鳴らし無表情で前だけを見据えていた。
(ここまで使えない男というのも珍しいのかもしれない)
元首に向かって使えないという思いを抱くが、現に助かっていることだけは事実だ。未だ彼と仲間がこうして身を潜めることができるのは元首の配慮故だ。
もちろん、それも青年の誘惑あってだが。
巨大な門扉を潜った所、緊張で歯切れの悪い声が掛かった。衛兵はこの青年が一人で帰ることを良しとしなかったのだろう。だから、当然声をかけてはみたものの声が震える。
衛兵の意図はすぐに送迎のために魔道車を呼ぶというものだった。返答待たずに連絡を取ろうとしたが、その前に予想外な返答を受けた。
「いらないよ。結構距離はあるけど走って帰るし」
「――!! そ、それはなりません。すぐに迎えを呼びますので少しお待ちを」
「いらないって言ったよ、二度もね」
「――ハッ!!」
眼鏡の奥で目尻を下げ、柔和な表情でそう告げるクロケルに衛兵は姿勢を垂直に正して視線を上空に向けた。
それ以上のやり取りはなく、舗装された道路を、それでも青年は逸る気持ちを抑えて歩く。
脳なしであろうとこの瞬間から始まる鎮魂歌を聴く為に青年の胸は害されない。待ち遠しくも早かった。
一度振り返り邸宅ではなく遠目に映るバベルの塔を見据えていた。
元首邸宅は富裕層の最奥部に位置するためまずこの辺りには人影すらない。
葉や草の擦れる音が静寂の中に様々な情報をもたらす。眼鏡を外し、胸ポケットに引っ掛けた。この眼鏡がないと妙に見立ち過ぎてしまうが、もう必要がなくなった。
そして誰もいないと思われた中で問う。
「準備はどお?」
「盛大な狼煙は整いましたわ」
灌木の奥から声だけが風に乗って届く。青年には誰だかわかったが、その人物と声音がまるっきり違うようだ。声を聞いただけで性別が違うことがわかる。それは澄んだ女の声だった、すぐにその理由も思い至る。不要な心配と知っていながらも問わずにいられないかった。
「また変えたのかい? 君のお気に入りはお蔵入りかな?」
「いえいえ、あれは知る者が見れば悪目立ちしますのですわぁ」
「キャラが随分ブレブレじゃないのかい?」
返答は言葉だけでなく声音がくぐもったように濁声と変わった。
「どうも最近は多用し過ぎている所為か、うっかりしてしまうんですよね」
今度は若い男の声へと変わって茂みから姿を現した。その制服を見れば誰もがわかる。ハイドランジ軍人の制服だったからだ。
やれやれといった具合に青年は苦笑を浮かべて頬を掻いた。重宝する能力ではあるので指示を出した側としては些か罪悪感もある。
「本当の自分を忘れてしまうんじゃないのかい」
「ハハッ、今更ですよ。随分と前に忘れましたね。覚えていないということは多分ろくすっぽ使えなかった身体だったのでしょうかね」
「それは元の君が才能がなかったということ?」
「どうでしょう。少なくともこの異能を持っていただけ特殊ではあるのですが、それも血液を必要とする能力において身体はただの入れ物ですからね」
「さすがに性別は覚えているよね?」
「はて、男だったのか女だったのか。どちらでもいいとは言え、言われてみれば思い出せないのがどうにも歯痒いですね」
「君は嘯くのが得意だね。微塵も思ってないのが声でわかるよ。その癖だけは姿が変わっても変わらない所だ。なんとなくだけど君は女性な気もするんだけどね」
「誘導ですか、そう言われてみると女の記憶量は結構多いので、そんな気にもなってきますね」
「はいはい……で、メクフィス……でいいんだよね?」
「ずっとそう名乗ってますけど」
「いやいや、君は偽名が多過ぎるよ。この前はイノーベって言ってたと記憶しているよ」
「あれですか、まぁ響きは良かったのですけど浸透するまでに時間が掛かるので今はメクフィスに戻しています。で、女です」
クロケルは横目で疑わしげに取り繕う。
「男の姿で言うと危ないよホント……と雑談はこの辺しておこうか」という声にメクフィスは顔を鋭く変えて一歩後ろを歩く。
シングル魔法師の付き人を装った。
「準備はできたと思っていいんでしょ?」
「首尾は上々ではあるのですが……」
言葉に詰まる。メクフィスの顔にはここに来てという懸念が含まれていた。
「イリイスが今回の件は手を引くということですが……」
「ふ~ん。まぁ組織というほど纏まりのあるものじゃないからね」
「殺しますか?」
「う~ん、結構骨が折れるよ。彼女はあれで鼻が利くし、何と言っても強いからね…………彼女に限ってはメクフィスもコピーできないよね?」
「恐らく、イリイスの場合は血液が流れているのかも怪しいですから」
「だろうね。それに邪魔をする気はないんだよね?」
「不可侵は弁えていると思いますよ」
「…………まったく一人でアルファに向かったと思えば勝手なことをしてくれるよねホント」
不思議と明るい声の青年は一切曇り気もなく唐突に話を飛ばした。
「それで頼んでいた物はできたかい?」
「一応言われた通りに作ってみましたが、これが何の役に立つんですか」
「君でも分からないことがあるんだね。この手のことは僕なんかよりよっぽど造詣が深そうなのに」
メクフィスから一本の試験管を受け取る。どす黒い液体は血液のような粘り気と生々しさがあった。きつく栓をされている試験管を満足そうに青年は眺める。
「いえ、これに関しては未知の分野ですからね。まさか現1位の魔力情報が欠損しているなんて、私が知り得ないことに知見を披露することはできませんよ」
「だろうね。一つ訂正するなら彼の魔力は欠損じゃなく欠損自体が情報であるんだ」
「……?」
「う~ん。なんて言うのかな魔力に含まれる情報は誰にでもあるし、彼にも存在する。だけど彼の場合は情報が記録された傍から破壊されていくんだ。血液が意思を――この場合は血中に含まれる魔力とでも言うのかな、意思を持っている」
「興味深いですね。でも、何故そのことを……? いや、それこそ不要の質問なんでしょうね」
「そういうこと。で、話を戻すと、血中に面白いものを持っているのは当然メクフィスも同じ、今回は本当に運が良かっただけなんだけど、君と彼の血中を精製して互いを調和できる形にしてもらったわけだ」
「で、それがなんの役に立つんです?」
「万が一さ……そうだね、一応これをハザンにでも持たせて上げて、使い方は教えてあるから。これを聞いた時の彼の身震いは地震でも起きたかというほど見物だったね」
クスリと思い出し笑いを浮かべた青年は嗜虐的に口元を歪めた。
「了解しました」
「他のメンバーで脱落者は……」
「当然いませんよ。元々一線を越えた人種ですから……いつでも創造の始動は可能です」
ニッと口端を持ち上げた青年は灰色がかった髪を掻き上げる。碧眼の双眸が未来を予知するかの如く細められた。
無慈悲な表情が冷淡な声音を紡ぎ出す。
「では、始めようか諸君」
その声を皮きりに全ての崩壊がゆっくり動き始めた。
メクフィスはすでに背後におらず、姿が消えている。これから始まる浄化と構築は青年が思い描いた危機を避けるための手段。
この世界を救う手段でもあった。
彼は思う。
守るものは選別しなくてはならない。全てを守ろうとするのは傲慢に過ぎないのだ。この世界で生きれる人間を制限しなければならない。
選ばれた人間とそうでない人間。この両者には明確な格差を敷くべきなのだ。
魔物に滅ぼされかけてもまだ気付けない人類に引導を渡す役を青年が代わっただけのこと。守る存在に限界がある以上、守られる存在にも限界がある。
だから今の世は壊れかけの台座の上で不安定に立っているに過ぎない。一つの綻びが全てに連鎖するのは避けなければならない。
だからこそ惜しい。青年が自ら選んだ者たちが表に姿を晒すためにはクラマよりも強い脅威がなくてはならなかった。
「残念だアルス。君は新しい世界の箱舟に乗せてあげられない。いつの時代も英雄は全てを救うのではなく救える命を救うだけなんだよ。その命の重みだけが英雄たらしめる」
幼き日に読んだ記憶を手繰り寄せるまでもなく、青年は憧れた話に登場する英雄に想いを馳せる。悪役であったヒーローはずっと人々を救っていた。しかし、その悪の英雄は悪者を倒すために何人も罪のない人を殺した。
そんなヒーローは最後に世界を救うために何万という人々を犠牲に平和を守って見せるのだ。
数多ある創作物の中では大抵の英雄は全てを守ろうとし、守ってしまう。だからこそ英雄なのだけれども……それはどう贔屓目に見ても夢物語だ。全てがハッピーエンドになるように現実はできていない。
だからこそ、青年はその悪の英雄こそが本当に正義だと感銘を受けたのだ。
今、それが結実しようとしている。