不測の尻拭い
ロキが目を覚ました時、そこには黒髪の少年がベッドの脇で腕を組み、微かな寝息を立てていた。
カーテンの隙間からはオレンジ色の陽が差し込んでいる。時刻は夕方辺りなのだろうか。
状況が把握出来ていない頭で視界に収まる情報から現状を再構築していく。
それでも自分が禁忌を犯したことだけは鮮明に覚えていた。
寝ていたからなのか体が温かく感じる。
ほんの僅かに体を起こし、掛け布団の衣擦れする音が鳴った。
鳴ったかどうかも怪しい、それでも結果として寝ていた黒髪の彼を起こしてしまったのだから。
「やっと起きたか」
欠伸を噛み殺して彼……アルスは疲れたようにうなじに手を回した。
「私……」
自分のしでかしたことを後ろめたく感じたのかロキは真っ白な布団に視線を落として俯く。
「賭けはお前の勝ちだな」
突然の敗北宣言。
ロキは反射的にアルスを見たが、声までは紡げなかった。
「……!」
アルスは右袖を上げて、ボロボロになった袖を見せた。
「一太刀受けたからな」
「でも……」
それは衣類も体の一部だという主張。それが許されるのかはアルスが決めることで、ロキからしてみればこの上なく有り難い判定だ。
ロキが言い淀んだのは条件達成の是非ではなく禁忌のことだった。
軍部の耳に入れば当然罰が下されるだろう。それはすぐにでも起こり得ることだ。
ましてや軍人が法を犯したとなればどんな沙汰が下されても不思議ではない。
「だが、命を賭けるのは看過できないな」
それもそうだろう。今やロキは犯罪者だ。それを匿えばランク1位のアルスだろうとただでは済むまい。
ロキはこの後に続く言葉をただじっと待った。というよりも何も言えばいいのか言葉が見つからない。
軍に引き渡さなければならないだろう結末は決してロキの望んだものではないけれども、全てを出し切った結果であれば受け入れるしかなかった。その方法が禁忌であろうとも後悔は微塵もない。
思考に耽ったロキは脳天に響く痛みに顔を顰めることになる。
「――――!! イタッ」
突然の手刀が頭を打った。
それは柔らかく労るモノだったが、確かな重みを持っている。
その意味がロキにはわからなかった。頭を手で押さえながら弱々しくアルスへと疑問の視線で見つめることが精一杯だ。
「これぐらいで勘弁してやる。あとはこれからの働き次第で挽回するんだな。馬車馬のようにこき使ってやる」
口の端を上げて病み上がりのロキに「行くぞ」と後ろ手に指を数回クイッと曲げる。
確かな嬉しさ、報われたものがあったがロキはアルスの立場を危ぶめる存在であってはならない。
だから――。
「私は犯罪を……」
ベッドから急いで起き上がりアルスの後ろに駆け寄ると開きかけたロキの口をアルスの手が覆った。
首を傾げて何事かと思ったら、勢いよく扉をスライドさせ――。
「何をやってる」
「いや、その……」
「はははっ……」
ばつの悪い顔は正当化出来ない不正があった証だ。聞き耳を立てていたテスフィアとアリスは低い姿勢からアルスを見上げた。
アルスは呆れ混じりの顔を浮かべているだけなのに……叱責は免れないだろうと思ったのか、謝罪の言葉すら聞くことはない。不正自体をなかったことにしようとの目論見なのかもしれないが。
潔いのか、疑問は残るがテスフィアが次に発した言葉によってうやむやにされたのは意図してなのかはわからない。
「見ない顔だけどそっちの子は?」
背伸びするように隙間からアルスの背後に控える少女へと話題が移る。
「一年生だよね? 見たことないと思うけど」
アリスもやはり気になるのだろう。テスフィアとは反対側の隙間から覗き見るように爪先を立てた。
聞き耳を立てていたことについてはうやむやにされてしまったが、アルス自身それほど気にしてはいない。そんなことで一々咎めていたのではきりがないというのもあるが、ロキを紹介するのにも良い機会だった。
「お前達には紹介しておくか、今度俺のパートナーになったロキだ」
「「「――――!!」」」
この紹介にはロキ本人も驚きを隠せずにいる。願ってもないことだが、やはり歓喜することはできなかった。
「ですが……」
テスフィアとアリスに聞こえない小声。
アルスは背を向けたまま身体を傾けてロキの耳傍で口を開いた。
「あの場には俺と理事長しかいなかった。隠蔽は容易だ。それともなんだ軍に突き出して欲しいのか?」
悪い笑みを浮かべるアルスにロキは首を左右に振る。確かにパートナーになれないのならば自棄になったかもしれないが、目の前には手を伸ばせば届く距離にある願いがあった。
「なら問題はないな」
そう言い切る強引なところはロキの知るアルスのままだ。一歩横にずれ、二人の視界にロキが収まった。
この高揚、嬉しくてしようがない高鳴りを抑えつつ。
「ロキ・レーベヘルです」
その顔は満面の笑みを湛え、微かに目元に滴を載せていた。
お互いの自己紹介を終えるとすぐにテスフィアが食い付く。
「そ、それよりパートナーって」
「何のパートナーなの、か、かしら」
動転したのかアリスはつっかえつっかえだ。いつもと違い少し赤くなった頬の笑顔が引き攣っている。先に済ませておく用事があり、一蹴というより見ないことにしたほうが賢明だろう。
おそらくひどくどうでもいいことを考えているに違いないのだから。
「俺は行くところがあるから、先に研究室に行ってくれ」
「畏まりましたアルス様」
「……様?」
恭しくお辞儀するロキをテスフィアとアリスは釈然としない目を向けるのだった。
「それでは向かいましょうか。私は場所がわかりませんのでご案内をお願いします」
「う……うん」
クルッと翻ったロキは打って変わって無表情だ。
アルスのいない道中、まだ陽は落ちていないため街路灯は点いていない。本校舎からアルスの研究室がある研究棟まで転移門を使わず徒歩で向かうことになった。
単にロキが転移門を使用するための校章を持っていないことだけではなく、聞きたいことがテスフィアとアリスには山ほどあったからだ。
「パートナーとは二桁以上の魔法師が外界に出る際に魔物の居場所を探知したり補佐する役目を担う者です」
「へぇ~そんなのもあるんだね。でも、アルは学院に通っているんだから必要ないんじゃないの?」
ピクッとロキの柳眉が上がったが、隣を歩く二人がそれに気付くことはなかった。
「アルス様は学院に通われてはいますが、籍は軍にありますので召集が掛かれば出頭せざるを得ません」
「ふ~ん、あいつも大変なのね」
今度は二度、ロキの眉尻が上がり目が鋭く細まった。
「アルならしょうがないのかもね」
「でも、あのやる気のないアルが素直に命令に従うのかしら」
テスフィアが冗談交じりに嘲りの笑みを浮かべ、それをアリスが手を当ててクスリと溢す。
このやり取りにロキが堪らず口を挟む。
無表情で侮蔑を含んだ眼差し。
「お二人は1位を冠するアルス様がどれほど人類に貢献してきたのか知らないようですね」
「え……!」
「ん!?」
二人の足が止まった。
続いてロキもそれに合わせて足を止め、数歩前を行って振り返る。
その瞳には何も知らない彼女達に対しての腹立たしさが覗いていた。
「大国アルファがこうして平和で居られるのもアルス様がいればこそだということを貴方達は知らないのだと言ったんです。でなければアル? あいつ呼ばわり出来る筈がありませんからね」
無表情からは蔑みの言葉が選ばれていた。
一呼吸分の静寂、呆気に取られてから我に返るまでの間は考えるまでもないということだろう。
「そんなもの知らないわよ。でも1位であるのは認めているし、そのために私なんかじゃ想像も付かないほどの努力や苦難があったんでしょうね。アルがどれだけこの国を救ったか知らないけど、今の私じゃ想像出来ないんだから考えてもしょうがないでしょ」
「そうだね。先を行き過ぎちゃって尊敬するのも目標にするのも遠い存在だから……なんていうか一周回ってって感じなのかな」
ロキが憤りを感じるのもアルスが国のために身を削った成果と代償を知っているからだ。
これは乖離した認識のずれで、同時に彼女達が未熟であることを意味していた。
「それにアルは気にしないと思うけどなぁ」
「そうね。あいつはあいつだし、あなたがとやかく言うことではないんじゃない」
こういった口論でテスフィアが突っ掛かってこないのはロキの見た目が原因だろう。
無表情ながら幼い一面があるのだから、テスフィアとしては姉のような立ち位置なのかもしれない。
ロキは自分の主張を呑み込むことにした。もちろん彼女達の言い分を受け入れることは出来ないが、一理あることもまた事実だと思ったからだ。
さらに言えばこれは魔法師としての認識のずれだ。
今の彼女達にアルスの凄さを説いたところでその一片も理解できまいと。
明確な隔意があるのだと諦めのように厳然たる差異を受け入れた。
「わかりました。アルス様がそう仰られたのであれば私が口を挟むのはお門違いですね」
だが、ロキは自分の非を非とは思わない。だから謝罪を口にしない。
研究棟までの数分の距離を長く感じる距離にしたのは紛れもなくロキだが、そう感じているのは彼女だけだろう。
その後もテスフィアとアリスはロキに対して無遠慮に質問を投下し続けた。
「お二人はアルス様のご指導を受けているんですか」
この問いはすでにアリスの言葉によって述べられているが、ロキは目を瞠って反芻せずにはいられなかった。
「うん。始めたのは最近だけど」
「そうですか、研究のために学院に移ったのだと思ってましたが……」
「う~ん……アル自身そう言ってたから研究のためなんだろうけど、色々あって見てくれることになったの」
訳知り顔で頬を掻くアリスは申し訳なさ半分といった表情だ。
「見てくれるって言うんだから」
その原因たる赤毛の少女は悪びれもなくというか、開き直ったように言う。
アルスの指導を投げやりに言うテスフィアにロキは良い顔など出来なかった。元々感情を表に出すのが苦手なロキは内心で。
(こんな傲慢な女はアルス様が教えるに値しません)
などと毒づいていた。
時々立ち止まっては立ち話へと変わったりと、僅かな距離にも拘らず三人はたっぷりと時間をかけた。
アルスとの出会いから今に至るまで、それはたかだか一カ月程度の範疇に収まらない話だったということだろう。
和気藹々と語る二人にロキは憤るばかりではなかった。
この二人は自分の知らないアルスを見て来たのだと少し羨ましく聞き耳を立てるのであった。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「囲ってくれる気になってよかったわ」
「…………」
手に持った紅茶を口に含む前でよかったとアルスは思った。
まるで剥き出しの刀身を突き付けられた気分だ。
ここで言い返せば理事長の思う壺だとぐっと堪えることにして、ティーカップを改めて傾ける。
口止めのために赴いたのだが、どうやら杞憂のようだ。
テーブルを挟んだ向かい側で楽しそうに微笑む理事長が用意していましたとばかりに脇に置いてある紙束を机の上に滑らせた。
「これは?」
「ロキちゃんの編入手続きの申請書。もちろん全て本人のサインも入っているし、当然合格」
「随分都合の良い話ですね」
つまり前もって準備していたということだろう。全て理事長の手の平の上で踊っていたようでアルスとしては釈然としないながらも、話が早くて助かるという思いが重複していた。
どの道避けては通れない件であるのは事実だ。
アルスは座ったまま目礼で手間の感謝を告げる。
「で、理事長はロキを手塩にかけろと?」
「それだけじゃないけどね。まぁ概ねそんな感じ……とは言っても私の場合は私情だから気にしないで、軍も監視として押し通しているけど実際は総督の意向ではないわ。体裁と言えばいいのかしら、事は単純で明瞭なのよ。私や総督は単なる仲介役」
苦笑いを浮かべる理事長は私情のほうを優先させているといった様子だった。
さすがにアルスもロキをパートナーと認めてしまった以上、引き返すことは出来ないのだが。
「確かに理事長が言うようにロキは予想以上にできる……」
アルスはロキとの戦闘中の疑問を残したままだった。
「あれで四桁は何の冗談なんです? 単純な戦闘力なら二桁に切迫するんじゃ」
「ロキの最高順位は100位よ」
その声音は溜息混じり、呆れ混じりのものだ。
苦笑いを浮かべると組んでいた足を解いた。
「ロキは未練もなくサポーターに移ったわ。元々適性は合ったみたい。その間誰とも組まずに今日まで来たわけ、だから順位が下がったの」
アルスは腑に落ちなかった。確かに探位を取得出来れば給与も含めかなりの高待遇が約束される。それでも二桁、三桁に勝るものではない。だから敢えてサポーターに進む意味は金銭的な不遇を嘆いたものではないということになる。
「あとはロキ本人から聞くことね」
突っ撥ねるように投げ捨てられた言葉は理事長の口からは言えないということなのだろう。
「それは今更ですね」
もう後には引けないという意味合いだった。アルスが前線に行けと一言言えば彼女と模擬戦でしてきたことが無意味になってしまう。
アルスは残りの紅茶を一息に飲み干し、立ち上がり。
「俺の用事は理事長にロキの使った魔法について口止めしたかっただけなんで、それも徒労に終わって何よりです」
それが確認できただけでも大いに収穫はあった。
背を向け、さも当然のように出て行こうとするアルスの背中に爆弾を投げられるのは理事長ただ一人だけだ。
「あら、口止め料はもらってないわよ」
「……!!」
アルスの手がノブに触れる直前にピタリと止まった。
「払えと?」
それは理事長がロキをあてがったことで生じた結果であり、理事長にも責任の一端があるのにも拘らず、ここに来て我関せずの態度はアルスと言えど見過ごせない。
しかし――
「私にも責任はあるのだけど、禁忌を使ったとなれば黙秘するにしてもそれ相応のリスクが伴うわよね」
白々しく指を顎に当てる。
アルスはそんな理事長を見て確信した。
これこそが魔女と言われる所以なのではないのかと、頬を引き攣らせながら思うのだ。
非を認めておきながら、そのリスクに対して請求をする図太さ……いや、図々しさと言うべきだろう。
「わかりました。で、お金ですか?」
アルスが学院に通う間の上下関係がすでに決まっている以上、荒唐無稽な言い分でない限りは従わざるを得なかった。
「残念ながらお金は余り有るのよね」
なんの嫌味かと思ったが悪態を吐く間すらなく理事長が用意していたような提案を下す。
「そうね。今度の実戦訓練を頼めないかしら。何にしてもあなたの力は必要なのよ」
だろうなとアルスは思った。
二人で散々悩んだ挙句、一番の不安材料は納得のいく案を提示出来ずにいたのだ。
一カ月後に控える実戦訓練は魔物の討伐を目的とした課外授業だ。
五人一組に+監督者が加わるのだが、それを上級生に割り振るしかなかったわけだ。それも実戦経験のない者を。
万が一が万が一でない状況を生むのは容易に想定できる不安要素だった。
「いくら俺でも全校生徒はカバーしきれませんよ」
これは事実だ。アルスがたとえ最高峰の魔法師だとしても広範囲に散らばる魔法師を全てサポートすることは出来ない。
決して安くない依頼だ。
「それで構わないわ。あなたが動いてくれるなら多少なりとも予想される被害を軽減できるもの」
過大評価だとは言わない。
生徒達に経験を積ませないのであれば、なんとかなる見積もりはある。
「その件ですが、まさか生徒が危ない時だけ助けろなんて無茶は言わないですよね」
「ま~多少はね~」
視線が明後日の方向を向いていた。
「それをするんでしたら自分はあまり役に立てそうにありませんね」
「うそうそ!! 細かい指示は考えておくから」
システィは手をブンブンと振ると謝罪のつもりなのかアルスの黒髪をわしゃわしゃと掻き乱した。
つくづく年齢のわからない言動や仕草が一々あざといと思ったが、口には出さない。その代わりに視線で迷惑を訴えたが聞き入れてもらえたかは疑わしいものだ。
「わかりました」
「また今晩ね」
存分に言いたいことを言ったはずなのに外連味たっぷりの艶笑は知らない者が聞けば誤解されかねないだろう。
それでも頷くしか選択肢のないアルスは盛大に溜息を吐いて理事長室を後にした。
扉が閉まったことを確認したシスティは表情を戻して溜息を吐く。
それはロキについて……。
「あの子はロキのことを覚えていないのかしら」
すでにシスティはロキからだいたいの事情を聞き及んでいる。何故、サポーターに移ったのか。
ロキはアルスのために命を張る覚悟を持って志願しているのだ。それがロキの生きる全てだと訴えられれば、システィは無下に出来なかった。
結果として最善にはなったが、アルスがロキのことを覚えているかは未だわからないままだ。
それを老婆心からシスティが言うのは余計なおせっかいというものだ。
二人の問題であって、それ以外は全て外野にすらなり得ない。
だから、このまま知らないでいるのが良いことなのかは神のみぞ知ると言ったところだ。
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・タイトルは「最強魔法師の隠遁計画 1」
・出版社はホビージャパン、HJ文庫より、2017年3月1日(水)発売予定