凶報の先手
話に一区切りが付いた時、まさに見計らったように乾いたノック音が室内の意識を奪う。
セルバがすかすざ扉に近寄るが、先にフローゼの入室を許可する声が上がった。来客の知らせなのか、メイドが訪れるというのは珍しいことではない。
蝶番の軋みはなく、スッと開いて行く扉の向こうには赤みのある茶色の髪をしたメイドが直立していた。首の辺りで癖のついた毛先は全体的にヘッドドレスで纏められ清楚に整っている。
足首を覆い隠すエプロンドレスには染み一つない。
「どうかしましたかミナシャ」
扉から半歩ずれたセルバが即座に一礼をしないメイドに怪訝な声を掛けた。即座に要件を言わない不信感を抱く。
彼女はフェーヴェル家に仕えてかれこれ3年になる礼儀作法を怠るようなミスをする女性ではなかった。たっぷりと沈黙の間を降ろしたミナシャはぎこちない歩運びで室内に踏み入れた。
彼女を良く知るのは何もフローゼやセルバだけではない。アルスの隣で身体ごとメイドへ向けているテスフィアもどこか様子がおかしいことに恐る恐る声を掛けた。
「ミナシャ? ……どうしたの?」
彼女の返答はなく、見開いたままの目は普段の彼女から想像もつかないほど感情を投影していない、濁った瞳だった。
乾き切った瞳は瞬き一つせず、焦点を誰にも定めていない。
アルスが目を細めたと同時だった。
「キャッ!!!」
「ミナシャッ!!!!」
咄嗟の奇行にテスフィアは悲鳴を上げ、フローゼは叱責の声を弾かせた。
ミナシャはポケットから曇り一つない果物ナイフを引き抜き、一切の躊躇いもなく自分の首に向かって走らせたのだ。それは思考と行動が別々の生き物のようにも見えた。
テスフィアだけが室内の凄惨な光景を幻視した。
経験の差と言ってしまえばそれまでだが、経験しないで済むのならば誰も見たくはないだろう。しかし、そんな望まざる環境を生き抜いてきた者がこの場には多くいた。
「コラコラ、御当主様の前でいけませんよミナシャ。そういうことは迷惑にならない所でしなさい。悩みがあるならまず、侍従長に相談してからですねぇ……」
扉の脇に控えていたセルバは瞬時に背後に回り、後ろから伸びた手がナイフを摘まんでいた。勢いを加速させたナイフの刃を二指で挟んだだけだったが、皮膚まで数ミリで時間を止めたように制止している。
「そういう問題じゃないでしょ、セルバ」
フローゼの難を越えた皮肉が飛び出したが、少なくない安堵故だろう。
「闇系統ですね」
「えぇ、そのようです」
アルスの見解を肯定するようにセルバは手刀でミナシャを昏倒させた。闇系統の中でも操術魔法は相手の意志を完全に掌握するため、気絶させるのが常套手段となっている。この稀有な例に対処できる辺りセルバの実力は計りかねるというものだ。
糸が切れたように崩れる小柄な身体を支えるが、傾いた拍子にミナシャのポケットからするりと滑り落ちた純白の書簡が床を滑空してフローゼの足元で動きを止めた。
「えっ! どういうこと?」
少なくない期間を共に過ごしたテスフィアは彼女の心配と同時に原因についての説明を求めて、隣に座るアルスに物言いたげな目を向ける。
間近で知る人の死を予感させられて血色を失いながらも、この場では彼女だけが理解できていなかった。
無論、ロキにしても知識として持っていただけだ。実際に目の当たりするとこれほど恐ろしい魔法に嫌な想像をしてしまう。自分の意志すら反映されない操り人形。
もし、自分が同じ状況になりアルスに刃を向けたとしても自害することすらできないのだ。
が、二人の恐怖心に対してアルスは淡々と簡潔な説明をした。
「闇系統でも操術魔法をここまでできる人物は稀だな、本来は意識に介入する程度なんだが。とは言え、対処はそれほど難しくない。洗脳のレベルによるらしいが、気絶させることで魔法による支配下を解くことは可能だ。このメイドはただの運び屋と余興に付き合わされたんだろう。後遺症も残らないはずだ」
「よかったぁ。でも誰がこんなこと……」
もちろん闇系統を使う奴にろくなのはいない。差別的な考えであるのは事実だが、実際問題闇系統は犯罪者になる率が高いのだ。
不安に堪えない表情のまま青白い唇をしたロキにアルスは「難しく考えるな」と助言をするが、彼女の中では拭いきれない恐怖なのだろう。
絶対にありえないことを可能にする魔法はロキの中の絶対が覆る。
ネガティブな思考に陥りそうになった所で思考を遮断するチョップがいつもの如く軽く脳天を打った。
「迷う、な。考えたところでどうにもならんし、どうしようもなくなれば俺がなんとかする」
「はい!!」
薄い表情で何も変わらないと告げるアルスにロキは心に波紋一つ立てないほどストンと落ちて行く感覚。
足手纏いにならず、彼を傷つける存在にだけはなりたくない。だからアルスの言葉はロキが最も欲していた言葉だったのだろう。
「アルスさん宛てみたいよ」
じっくりと拾い上げた書簡をチェックするように見つめたフローゼはその裏に「アルス・レーギン」の名前を見た。
これ以上ないほど嫌な予感を抱きながらアルスはその中身が入っているのかわからないほど薄い手紙を受け取る。
数行の文字を追うのに時間はほとんど要さなかった。
部屋の隅にある簡易ソファーにミナシャを寝かしたセルバが「どうにも厄介な臭いがしますね」と変わらぬ柔和な表情で定位置であろうフローゼの背後に着く。
「ッチ、予想以上に早い」
その書簡を懐に無言で仕舞ったアルスはため息を溢した。
「申し訳ありません。どうやらこちらの案件でご迷惑をかけてしまったようです」
「見せて貰っても?」
「すみません」
フローゼは仕える従者が死に掛けたことに対して知る義務を主張すべきと思ったが、恐らく彼もその責任を自覚しているだろう。それを以てしても説明できないというのであれば訊き出す術はない。
「ただテンブラムには影響はありません」
「まったくの別件ということね。事後でいいから説明はしてもらえる日が来るのかしら、それともこちらも未定?」
「どうでしょう。こちらからは動けないので……ただこちらから説明するまでもないような気もします」
「手伝えることは?」
もちろんダメ元の提案だ。一枚噛めるのであれば恩を売ることもできるし、巻き込まれることで事情の説明を求めたが。
「それには及びません。これ以上ご迷惑をかけないように早期解決できるよう努めます。お心遣いありがとうござます」
「今更遠慮するような間柄でもないでしょう?」
それが何を意味しているのかをアルスは苦笑気味に悟った。要は半ば義理の親子だとでも言いたいのだろう。
それすら今はあり難い気遣いだ。アルスは作らず表情の動きに任せて自然に微笑む。
しかし――。
「ありがとうございます」
どちらとも取れる言葉だったが、フローゼは間違えるはずもないとばかりに「残念」と肩を竦めた。
今回の件が誰によるものなのか、アルスは脳裏に焼き付いた文字に対して内心で燃え上がる怒気を全力でねじ伏せなければならなかったのだ。
(つくづく邪魔な連中だ)
アルスにとって不利な状況とならなかったのはフローゼが軍人上がりだったことが功を奏した。個人的な遺恨ではなく軍で対処しなければならない案件が個人をターゲットにしてきたからだ。端的に言えば配慮すべきだったが、突き詰めれば責はない。極論を言えばテロの責任を主犯格や実行者・加害者以外に求められないということだ。
ましてや被害者に追及の手が伸びることはあってはならない。
それをどこまで察してくれたのか、判断は付かないまでもフローゼの表情はそう告げていた。
テスフィアも空気を読んだのか、はたまた衝撃的な光景から立ち直るのにそれどころではなかったのか、言及の言葉は最後まで発せられることはなかった。
それとは別の意味で空気を読んだロキが機転を利かせる。少なくとも今回フェーヴェル家は単なる巻き添えを食らった。アルスがこの場に留まる限りまた良からぬことが起きなるともしれない。
「アルス様、そろそろ……」
「あぁ、そうだな。では俺たちはこれで失礼します」
「まだゆっくりできるんじゃない?」
「いえ、待たせているものですから」
「ルサールカだったわね。ここで引き止めるのは何かと外交問題に発展しそうな……」
「さすがにそこまではいきませんよ」
アルスの気遣いが無駄になることはなかった。フローゼからすれば単なる形式的な文言に他ならなかったのだろう。あっさりと引き下がった。
「お前もサボるなよ。紙の上とは言え一時でも婚約者を名乗るんならできませんじゃ許さんぞ」
という悪戯っぽい顔で激励する。もしかすると勤勉な彼女には不要だったのかもしれない。事を頭を使うタイプでないのが気掛かりではあったが。
カッと赤くなった少女は熱を誤魔化すためにふるふると震えた指を一本突き出して怒声を上げた。
「言われなくてもわかってるわよ! やってやるから見てなさいよ……あ、あんたも私の婚約者を名乗るんだから体たらくは許さないからね」
誰に言ってる、とはさすがのアルスも水を差すことはしない。寧ろ発破をかけることには成功したようだ。
これにはロキも黙っている。この場で婚約云々を言っても始まらないからだ。本心は別としても是が非でも勝って貰わなければ困る。
それでもキリッと眦が吊り上がってしまうのは不可抗力だった。
「な、何よ……」
「いえ、どんな言葉も成績が物語っていますからね」
「うっ」
全てにおいてテスフィアより優秀であることを成績を持ちだしたことで少しだけ溜飲を下げる。
「ハッハッハ、これは手厳しいですな。御心配は当然、ですがここはこの老いぼれを信じて下さいませ。必ず満足のいく水準に到達させてみせましょう」
いつになくやる気を見せるセルバ、ここぞとばかりに活躍の場での功績を約束する。
「セルバさんがそう言うのでしたら、頼もしい限りです」
「ちょっと、私を信用しなさいよ。やる時はやる子なんだから」
言っていることの信頼性はあるものの彼女自身の口から出てきた言葉に全員がしらけた目を向けた。
彼女の味方はこの場に執事一人きりとなったが、頼りになる執事も擁護する前に。
「お嬢様……」と微苦笑を浮かべたが、やはり彼の選んだ言葉は一流の執事ならではと言えた。少し可哀想な気もしたが。
「え、えぇ、お嬢様ならば短い期間でもやってやれないことはございますまい。微力ながら私めも後押しぐらいはさせていただきましょう」
「も、もちろんよ。よ、よろしくね。本当に……」
呆気なく仮初の自信が剥がれた。セルバ抜きでは結果は見えている気さえする光景だ。
「では、後のことは頼みました。こちらもなるべく早めに帰るつもりですが」
「作戦の成功率も結局はタイミングですものね。練習をしておくにこしたことはないわ」
フローゼが先に立ち上りアルスに手を差し伸べた。元軍人にしては綺麗な繊手は陶器のような艶と少女のような張りをもっている。
それに応じると力は入っていないものの力強さを感じたのは彼女の覚悟だろう。
「フェーヴェル家としても今回の一件は早々に解決したいわ。協力感謝します」
「いえ、それはこちらの台詞です。では……」