しがない執事
シルシラとオルネウスは間違いなく主力となる存在だ。
二人の動向如何で戦況が大きく揺れ動くだろう。しかし、それは相手にとってのアルスも同じはず。
今考えても仕方がない、とアルスは話を戻した。
ここに来るまでテンブラムについて多少知識を身に着けたアルスは一つだけ手土産を引っ提げていた。もちろん未経験者の意見だ。これが採用されるかの意見を訊きに来たわけなのだが。
♢ ♢ ♢
じっくりと説明すること10分ほど。途中に差し出口を挟まれても即座に切り返すだけの熟考をアルスは繰り返している。問題はこれが適法かどうか。ルール上反則にならないのであればいいが、反則であるかの判断はルールブックにある規則まで目を通すことができなかった。
それにアルス自身が提示するだけの勝算は彼一人では達成できないのだ。全面的にフェーヴェル家のバックアップがなければ難しい。
ほっそりとした手で口元を押さえたフローゼは難しい顔でセルバを見やった。
「面白いわ、けど……」
その視線はテンブラムというゲームの隅々まで熟知していないがために弱々しい。同意、もしくは判定を執事に委ねるのは彼の年齢が伊達ではないからだ。
無論、テンブラムについても精通している。
投げ掛けられた主人の視線にセルバは一拍間を置いてから、
「判定は難しいでしょう。私が言い切れることは完全に逸脱したルール違反ではないということだけです。この辺りは審査員の器量次第、それも相手に抱きこまれないようにこちらでも手を回す必要があります」
「俺はそれぐらいしないことには勝算は低いと考えています」
「ちょっ! えっ、どういうことよ。よくわからないんだけど……」
テスフィアが俯き気味に理解が追い付いていないことを露呈した。もちろん、この作戦は全てにおいて彼女に掛かっている。
「フィアさん、一先ず全て訊いてからにしませんか? 今回、アルス様がご提案された作戦は謂わば御当主の協力がなければならないのです」
「う、うん……」
ロキの淡々と告げられた正論に従わざるを得ない。
向かい側でフローゼの呆れた顔にテスフィアは縮こまるばかりだ。置いてけぼりを食らった彼女に続ける言葉はなかった。
「お前はまだわからなくていい。まずはルールをしっかり叩き込め。あとはセルバさん、お願いできますか?」
アルスはこの場において最大限の礼節をセルバに送っている。これは歳の差と達観した相手への敬意だが、それだけではない。実に聡いこの老執事を嫌いにはなれないのだ。
それが彼の執事足る素質なのかもしれないのだが。
「わかりました……大丈夫ですよお嬢様、私めも微力ながら全力でお教えします。このセルバお嬢様のためとあれば身を粉にしてもできることをするまでです」
「でしたら俺の役目をやりたかったのでは?」
アルスは実質的にフェーヴェル家の代役として参加しなければならない。そうなればセルバは参加できなくなってしまうのだ。
ことの発端はどうあれ、彼も参加したかったはず。
しかし、セルバは微かに口端を上げると柔和な顔で首を振った。
「もちろん老骨に鞭打つ覚悟はありますが、この場合私よりアルスさんのほうが断然勝率が高い。合理的な判断に基づいてです。私ではなくお嬢様のためを思えばこそなのですよ」
そう言って胸に手を当てたセルバは追想するように思い出に浸った。言葉に偽りがないと確信するように。
ふう、と軽く息を吐きだしたアルスは「わかりました」と変わることのなかった配役を改めて引き受ける旨を発した。
(執事は皆こうなのか……)
仕えるもののために己すら律する。そこに誇りなど微塵も感じ取れない。優先すべきは彼の全てに勝っているのだ。
これはアルスの素直な感嘆であった。
「俺もできることをしましょう。でなければ最初から首なんて突っ込むべきではありませんしね」
セルバはそこで言葉を止めることなく見透かしたように視線だけフローゼに向ける。
「それに私は最初からお呼びではありませんよ」
ん? と含むような台詞にアルスは何か見落としている気が湧いてくる。その見落としは向かい側のフローゼが早々に知らせることになった――満面の笑みで話が進むことを願うかのように。
だが、その笑みの正体について彼女はまさに頃合いだと形の良い玉唇が動き出す。
「ではこれで行きましょうか」
「わかりました。こちらもその方向で作戦のパターンをいくつか検討しておきますが、それは保険用と考えておいて下さい」
「そうね。じゃあアルスさんに頼りっぱなしで悪いのだけどよろしくお願いするわ」
「いえ、乗り掛かった船です。焚きつけたのも俺ですしね」
必要最低限の言をかわし、集める人員についての条件をフローゼが受けた後のことだった。
フローゼは比較的自然に話を切り出した。
「それでアルスさんはどうやって代役になるつもりで?」
「はい? …………!!!」
言って気付くとはアルスには珍しいミスだった。いや、それを言うならばもっと早く気付いてもよさそうなものだったのだ。
アイルとの会合時に……。
だから、アイルは最後の捨て台詞吐いたのだ。
「ちょっとした意地悪は許しておくれよ」と、そのちょっとしたが、この場では暗雲を呼ぶ。
そう、アルスは例外として最初から参加できるものと思い込んでいた。それを込みでの交渉だと勘違いしていたのだ。つまり、アルスも代役として正式な手順を踏まなければならない。
だが、
「多分だけど例外はありえないわ。それを踏まえてこの交渉を持ち掛けられたのでしょう」
「貴族に仕えた従事期間が2年以上、もしくは貴族として協力することで参加を許されるはず……」
苦々しい思いで網目の解れを探るアルスだったが、最初から解れがないことは既に知識として学んだことが裏付けている。
アルスが参加しなければ作戦としても機能しない可能性がある。フローゼもそれを承知の上のはずだが、彼女にはいくらか余裕があった。
というよりも少し意外感を露わにしていた。
「結果的に俺の参加は不可能に近い……」
「え、うそっ! ちょっとあんたなんとかしなさいよ。顔が利くんなら総督にお願いするとかさ」
テスフィアの藁にも縋る案も一蹴してしまうのを忍びないと思いながら。
「馬鹿言うな。これは貴族間の問題だ。貴族と軍に密接な関係があるとはいえ、それは業務や立場的なものだ。だから言い得て妙だが、貴族は不可侵を敷いている。軍は貴族に関して明らかな越権行為がない限り黙認しなければならないんだ」
「そうね。貴族と軍は利害関係上一致しているに過ぎないわ」
フローゼの補足を得てテスフィアは愕然と言葉を失う。
しかし、一方では妙に落ち着いているのが気になるフローゼ。
アルスは迂闊と言うか「これだから貴族に関わるのは……」と内心で言いかけてから呑み込むことにした。首を突っ込んだのは自分なのだ。浅学を言い訳になどできようはずもない。
そんな時、張り詰めた空気を割くように満を持してフローゼの提案が火を吹いた。
「アルスさんならば貴族になることも可能でしょ?」
「えぇ……」
「でも今からでは到底間に合うものでもない」
「その通りです」
「なら一つだけ、抜け道があるわよ。おそらくアルスさんが気付かないだけでウームリュイナの子倅はわかっていたのでしょうけど」
唯一癪だと言いたげに苦笑したフローゼにセルバが一枚の羊皮紙を盆に載せてくる。
得も知れぬ不安に駆られながらアルスは言葉を紡ぎ出す抵抗を感じていた。
フローゼはその羊皮紙を丁寧に掬いあげると、向きを変えてテーブルの上で滑らせる。
アルスの目の前で止まると、それを覗き込む三人の姿があった。
「…………婚約ですか」
「――!! お母様!!」
テスフィアがダンッとテーブルに両手を突いて抗議を放つ。抗議というよりもこれは驚愕に対しての反応だったのかもしれない。
完全に暗示が解けたのかは関係はないだろう。暗示がなくとも彼女は婚約という言葉に対して嫌悪する。
しかし、凄まじいまでの不快感を感じているようにフローゼには見えなかった。
「いや? とは言えこの場合他に抜け道はないわ」
「確かに……」
アルスは正当性に同意したが、ここまで引っ張られたことに対してこめかみを押さえる。まんまと見えないレールの上を歩かされたのだ。
この非常事態にそこまで考えていたのかと、逆に何も言えない。そう、参加の決意を表明した時点で撤回などできないのだ。
アルスは涼しげなセルバを見て嘆息した。この老執事もグルなのだろう。
弁が立つわけでもないアルスは貴族の恐ろしさに身を震わせた瞬間だった。
「アルス様……」
悲しげな瞳を向けてくるロキは逃れられないことを悟ったからだろうか。
彼女が願うのはアルスの幸せだけだ。たったそれだけだが、少なからずテスフィアという人品骨柄を知っているため無聊は尽きない。
そもそもロキは誰よりもアルスのことを気に掛けている。自分よりも優先すべきは彼だ。感情論ではあったが彼の望みが阻まれるなんてあってはいけない。
だというのに……ロキの胸中で行き場のない遣る瀬無さだけが蟠る。本音を言えばロキは全てを投げ出して拒絶してほしい。彼自身が招いたことかもしれないが、それでもロキはもっと我儘になってほしいと願ってしまうのだ。
しかし、そうできないことを何よりも彼女は理解している。それがアルスの美点でありロキが今もなお生きていられる理由でもあるのだから。
霧のように靄が掛かった胸中はどんな感情を引き出すのか、嫉妬だろうか。嫌な予感を抱きながらもロキは心の内に留めた。
だというのにポンッと乗っかる手はいつものように安息を抱かせる優しいものだった。靄は一瞬で晴れ、全てを彼に委ねてしまいたいほどに。
つくづく現金な性格にロキは不承不承折れた。その表情はある意味で自分に対しての言い訳を湛えている。
「一ついいですか、この婚約は解消することができますよね」
「随分ね」
「先ほども言ったように俺には様々な厄介事があるのでそちらに迷惑をかけない配慮です」
「そういうことにしておきましょう。ですって、よかったわねフィア」
ずっと熱を帯びた頬を冷まそうと沈黙していた彼女はハッと我に返り母の言葉を内心で繰り返した。
「え、いえ、私はただ嫌なだ、け……で、す」
自分で紡いでいて胸が軽くなるのを感じていた。ほっとしたのをニヤリと母に見られて再燃する頬。嵐の後の空のように心配事は去っていた。
「フィアもそこは了承してちょうだい」
疑問符を浮かべたテスフィア。
「貴族として婚約解消は痛手だけど、女性に関して言えば珍しいことでもないわ。寧ろ男性のほうが蒙る不評は大きいけど……」
「もちろん、俺のほうは問題ありません」
そんなことすら脳内になかったテスフィアは遅ればせながら誤魔化すように頷く。
「じゃ、ちゃちゃっと署名してくれるかしら、それと捺印なんだけど、こちらは拇印で構わないわ」
言われるがまま、というわけにはいかない。貴族の巧妙さに気付かされた今のアルスに油断は皆無だった。
婚約書に目を通す視線は研究しているように文字を高速で読み解く。
「大丈夫よ。さすがにあなたを騙そうなんて考えないわよ。どうせ無駄なんだから」
それが順位を指していることをアルスは汲み取った。信じられないならば順位を使えば良いと。力を行使してかまわないと。
さすがにフェーヴェル家でも軍に真っ向から喧嘩を売ることはできないだろう。アルスの順位とはそういうことだ。
唯一の懸念は総督と結託しかねないことだ。警戒を解くには至らないが、それでも不信がられない程度には全てを読み終わっていた。
あの憎たらしいべリックの笑みを思い浮かべながらペンを走らせる。
「はいこれで正式に婚約」
「確か解消時にはその婚約書も必要ですよね。失くしたとかは勘弁ですよ?」
「もちろんよ」
仮初の婚約だとしてもこの時、フェーヴェル家として……いや、母として心の帯が緩んだようにフローゼは微笑んでいた。




