初壁
早朝の薄ら寒さを感じる。体温を上昇させるための太陽は昇ってから間もない時刻。この季節の防護壁内の気温は平均して15度を基準に調整される。
しかし、早朝ともなれば防寒具は必須と言えるだろう。
どこかに旅行でもいくのかという大荷物を持ってアルスは転移門を潜る。その隣にはロキが申し訳程度のバッグを下げていた。
そして反対側では赤毛をピクピクと揺らした少女がほぼ手ぶらな状態で少し距離を取っている。
昨晩テスフィアを呼び付けたアルスは共に彼女の実家に報告の連絡を入れたのだ。無論、当日はテスフィアのみで報告を済ませているのだが、やはり今回の一件ではアルスは深く関わっているため、挨拶ついでに事情の説明が責任として発生している。
だが、液晶通信の向こう側で開口一番フローゼは喜色満面を浮かべて「一度いらっしゃい」とだけ告げた。
その結果翌朝からこうして学園祭の振り替え休日を返上してフェーヴェル家へと向かっているのだ。
あの日以来そっけないテスフィアだが、その原因をロキは未だ知らない。もちろんアルスもそれほど大したことをしたつもりはなかった。
「おぃ、もう少し寄れ、転移門とは言っても転移盤での座標特定は集中していたほうが正確だ」
そう言って肩を引き寄せるアルスにテスフィアは「ひゃっ」と奇声を上げてふらっと体重を寄り掛からせた。
普段こんなことをしないアルスだが、大荷物の中には研究に使うために魔力を乱す作用の物も含まれている。
「そんなんじゃ先が思いやられるな」
慌てて姿勢を正すテスフィアは俯き気味に鼓動を落ち着かせるように目を閉じた。
眇めて見るロキと盛大なため息を吐くアルス。
パートナーである彼女には事情を説明してある。激昂するかと思われたが、呆れ混じりに納得してくれたのはこの後に控えたスケジュールのおかげだろうとアルスは考えた。
タイミングが悪かったのだ。
ウームリュイナとのテンブラム前にジャンを通してルサールカに二日程出向することを伝えてしまったのだ。つまりこれは元首であるリチアにまで伝わっているはずで、当然ながらお忍びでなくなったのは言うまでもない。
元首自らの歓待をキャンセルするということはアルファに対しても負い目が発生しかねないのだ。順位による立ち回りづらさというのは如実に表れる。憶測ではあるもののルサールカの軍内部にまで浸透しているとすればアルファはルサールカを軽んじているというふうに取られかねないのだ。
この休暇はすでに決まっていることだったので今更断りを入れることもできない。もちろん、テンブラムにそこまで徹底した時間を費やすつもりもなかったのだが。
過密スケジュールにはなったが当初の目的であるささやかな休暇と言う点では、目的は果たせそうだった。下準備も含めて時間はあるだろう。学院における騒ぎも少しは鎮静化するに違いないと安易な考えを抱く。
この後、フェーヴェル家で事情説明や対策を考えた後、アルスとロキはルサールカに向かう。そのための荷物だった。しかし、アルスの荷物は少しばかり多いようにも感じる。
「テンブラムについてお前は熟知していると思っていいんだな?」
富裕層への最後の転移を済ませた直後の質問だった。正しくは知っていて当然だな、と言ったつもりだったが。
「概要程度じゃ……ダメ?」
恐る恐る訊いてくるテスフィアにアルスは見下すような冷ややかな視線をぶつけた。
「ダメに決まっているだろうが」
「そんなこと言ったって貴族の裁定なんて私が生まれてから数えるほどしか聞いたことがないんだから」
「公に行えるようなゲームじゃないのは確かだがな……俺も軽く流し読みした程度だが、一つ言えることは俺が参加しようと勝敗を決定づける一打には成り得ないってことだ」
「えっ!! いやいや、あんたが出て勝てないなんて言わせないわよ。それじゃなんのために引き受けたのか……」
アルスは絶対の勝利を約束できないことが分かった上で気休めを言うほど楽観してはいない。それにあの場で異議を立てなければテスフィアは間違いなくアイルとの婚約に歯止めが利かなくなっていたはずだ。
「中々頭はいいんだろうな。俺が参加することを見越しての提案だ。先に王を討ち取られたら敗北、勝敗を分けるとすればそれは王の資質次第だろうな。つまりはお前次第ってことだ。問題はテンブラムが主流だったのは一世紀近く前の話だ」
魔物が現れるまで、人々が互いに争いを繰り広げていた時代のもの。今とは大きくその内容も異なってはいるが、王を討ち取るゲームであったのは確かだ。
ロキがしかめっ面でできるだけ主に悟られないようにテスフィアに対して苦言を代弁する。
「それは魔法の技術が飛躍的に進歩する前ということですか?」
「もちろん。そこが今回の厄介な所だな。見越しての提案というのはこれが肝だからだ。テンブラムは主に白兵戦がメインになる。魔法での大立ち回りなど論外も論外なんだよ。改訂されている部分はあるが、テンブラムの趣旨である戦術としては個の力に限度を作っている。だから俺がバッタバッタと相手を薙ぎ倒すことが困難なわけだ」
それを聞いたテスフィアは一層蒼白となる顔で愕然と冷や汗を流した。
「確かに駒の差はでるだろうが。今回の場合王を取ることを考えれば数がモノを言うし、王の指揮が肝心要となる」
「――!! 待って私テンブラムなんてしたこともないのに」
「だろうな、その様子だと兵学もわからんだろう」
「う、うん」
「ま、このご時世に修めているほうが不自然なんだがな」
ウームリュイナ、ひいてはアイルはその兵学を奇特にも修めているのだろう。
「じゃ、じゃあ勝算は……ッ!!」
ビシッとテスフィアのでこにチョップを見舞ったアルスは嘆息しながら言う。
「馬鹿いうな俺の人生まで掛かっているんだ。なんとしても勝つぞ」
「う、うん」
「とは言っても俺は明日から二日ほどいないのだけどな」
「こんな時に何考えているのよ、まったく」
弱々しい悪態にロキが代わって返した。いつもような棘は鳴りを潜めている。既に覆らない決定事項だからだろうか。余裕が垣間見えた。
「それは仕方がありません。偶発的な事故なのですから、今更いったところでどうこうなることではありません。それよりももっと建設的な話をしたほうがいいのでは?」
「だな、具体的にはお前はテンブラムについて隅から隅まで目を通せ。特に禁止事項だけは必ずだ。反則負けなんてのは笑えもしない」
「そんなの私だって同じようなものよ。人生どころか全てが掛かってるんだから、手なんか抜かないわ」
「その意気だ。だが、俄で勝てるような相手じゃないのは確かだな。王道の戦法など軽くあしらわれるだろう」
「それじゃどうすれば……」
三人の固有座標が富裕層の転移門に固定され、全ての工程が完了したことを告げる安全バーが上がり、アルスに続いてロキが降りる。
その後ろでテスフィアだけが重い一歩を踏み出せずにいた。
アルスは背後を一瞥し「言ったろ俺が手を貸してやる、とな」と不敵な笑みをテスフィアに向けた。
♢ ♢ ♢
いくばくかの道のりを経て現在アルスとテスフィア、ロキがいるのはフェーヴェル家の応接室である。ここは以前にアルスが通された場所で違いない。
当のテスフィアは終始緊迫した面持ちで現当主を待ち構えていた。余人から見ればこれが母と子の会合だとは思いたくもないだろう。
送迎のために魔動車を運転したセルバは全員に飲み物を用意すると主人を迎えに部屋を出て行ったきりだ。
硬めのソファーセットの片側に腰を降ろす三人は重苦しい空気の元凶であるテスフィアにロキが紅茶を勧めた。
それを申し訳程度に片手を振って拒絶する。
アルスはお構いなしに口を付けた。この期に及んで何をいまさらと思わなくもないが、通話越しの彼女の仕草では想像に難くない。
当主の座を長年守り続けた女傑だ。その娘であろうと一般的な親と子の間柄とは懸け離れている。
夏休みの帰省でもテスフィアは渋面を作って後ろ髪を引かれる思いで旅立ったことが思い起こされる。
だが、今回に限っては彼女に非は見当たらないのだから毅然としていればいいのだろうが。そう言った所は無用な横やりなのだろう。
話を聞く限りではフェーヴェル家としてもウームリュイナと契りを結ぶことは避けたいはずだ。その点、アルスは水際で止めることに成功している。
コトッとカップを置くと同時――ドアから数度のノックが室内の緊張を吹き飛ばす。
テスフィアの肩がビクッと跳ね上がった直後、外から入室の声が掛かり扉がゆっくりとセルバの手によって開けられた。
「お母様、こ、この度は判断を仰がず……勝手に」
と、たび重なる謝罪が彼女の腰を数回に渡って折らせた。が、フェーヴェル家当主、フローゼ・フェーヴェルは微苦笑を漏らしただけで数歩近づき娘の頭に手を置いた。
「私は安心しているのよ。ウームリュイナの横暴に屈しなかったことを次期当主としての自覚が芽生えたと思ってるわ。それに私も少し安直に考え過ぎていたわね。今更引っ張り出してくるなんて予想もしていなかったし」
アルスとロキも当主の登場に立ち上がり会釈で迎えた。
首を突っ込んだ彼にも申し開きの場は必要だったのだ。たとえ功を奏したとしても貴族間の問題に貴族でないアルスが立ち入るのはフローゼにとっても良い顔はされないだろうと。
しかし――。
「そう畏まらないでアルスさん。娘を助けて貰ったのだもの」
拍子抜け、というよりは以前のフローゼからは想像だにしない穏和な声が掛けられた。
ここで肩の力を抜く程アルスは低い壁ばかりを踏破してきたわけではない。真っ先に訝しんだ視線を向けるが、飄々と受け流されてしまう。
黒いドレスは胸元を強調するかのようなホルスターネックで腿に掛けて深いスリットが入っている。それらの上にロングカーディガンを着ていた。扇情的とも言えるファッションだが、以前も似たような服装であった。
アルスは動じた様子もなくその後を視線で追う。
テスフィアの反応からもフローゼが普段と大差ない程度のコーディネートであると推測した。
簡単な事情説明は既に連絡しているのでここでのやり取りとは主にフェーヴェル家当主の承諾と対策である。名家と言われているフェーヴェル家ならば貴族の裁定についての助言は大いに期待が持てる。
何分ご令嬢の方はてんで役に立ちそうになかったのだから。
裾を巻き込みながら婉然とした笑みを崩さず向かいに腰を降ろした。
「本題に入る前に一つだけ確認したいのだけれどアルスさん」
「何でしょう」
「順位についてはもう隠すつもりもないのでしょ?」
「最初から個人的な意図で隠すつもりはありませんでしたよ。今となっては学院も針のむしろ……確認しますか」
フローゼは軽く手振った。
九割九分確信を持っていたのだろう。今の彼女はそんな確認よりも胸のつかえが取れたような気晴れを抱いている。
「レティの言っていたことが気掛かりだったのだけど、その理由もわかったことだし理解したわ。でも、それならそうと早く言ってくれれば、夏にわざわざ手荒な真似をしなくて済んだのに」
「それは失礼しました。理事長からもきつく言い含められておりましたので」
囁かな応酬は上辺だけだ。
過ぎたことに対して、フローゼは互いの非を主張する。避けて通れなかったと。
娘に素性の不確かな男が付いているとなればわからなくもない。そのため、アルスもそれ以上は掘り下げて何もなかったこととして流した。いつまでも根に持っていたのでは話は進まないだろう。
だが、フローゼはレティの言っていた気掛かりが杞憂に終わったことで本格的に始動する決意を滾らせていた。『アル君は私のっすから』というたった一言が尾を引いていたのだ。
まさかアルファのシングル魔法師から意中の相手を奪ったとなれば二人の関係に亀裂を生む。これは単に体裁を気にしたからではなく、友人としての配慮だった。
だが、確証を得た今、レティの言葉は彼の力に対する憧憬だったのだろう。
親としてフローゼは娘の望む相手を探しまわったつもりだったが、見る目だけはテスフィアのほうが確かなようだ。
勘繰りというよりもこれは直感だった。
ウームリュイナ家との問題が起きた時、事情説明のためにテスフィアが連絡を寄越したが、その際、液晶通話の向こうの娘の表情を見て気付かぬ親はいないだろう。それが女同士ともなれば尚更だ。
子供だと思った娘が一人の女の表情へと変貌していたことにそこはかとなく安堵した自分がいた。
だからこそフローゼは品を無視して爆弾を投下する。全てがレールの上に乗ったことを疑わずに。
「アルスさん、娘をよろしくね」
「え、えぇ、それは俺から願いでたことでもありますので」
「まぁ、アルスさんから……そうよね、こういう時に頼りになるのは野獣のような血気よね~。それでフィアもイチコロと……」
チラッと向けられた意味深な視線にテスフィアは小首を傾げる。
「はい?」
「若いってそれだけで価値のあることよね」
独白を続けていたフローゼに剣呑とした空気をアルスは隣から感じた。
何を思い違いしているのか、すでにわかりきったことだ。
「フローゼさん、本題に入る前に誤解を解いてもいいでしょうか」
「あら、他人行儀ね。誤解というのは既にということでいいのかしら? 既成事実のことなら気にしなくていいわ。本当ならば問題なのだけど、ね」
ちゃめっけたっぷりにぱちりとウインクを放った。
何が既になのか、潔白のアルスからすればウインクを鬱陶しげに跳ねのけたとしても納得がいく。
隣を見ることができない気配にアルスはこのまま話を進める恐ろしさを肌身に感じた。
恐る恐る一つ空咳を吐くのであった。
♢ ♢ ♢