貴族の盤上
「安心していいよ。聡明な彼だ。僕を手に掛けるリスクは考えるまでもない。もちろん今は、だけどね」
アイルは二人の従者に対して気さくな言葉を投げかけた。
しっかりとアルスに対しても牽制を放ってくるあたり目ざとい。そう、今はアルスも手を出せないのだ。
アイルは不敵な笑みを浮かべて前で庇う位置取りをしているシルシラと、更に一歩前で臨戦態勢を取るオルネウスに微笑みかけてから間をすり抜けるようにしてガラスの破片をガリガリと踏み締める。
「――!! アイル様、それ以上は……」
「言ったでしょ、彼は今は手が出せない……だからこっちから手を出してはいけないよ」
「しかし……」
アイルはにこやかに無表情のシルシラの心配を無視して話を進めた。
オルネウスは既に理解した上でいつでも動ける位置に着いている。
「さてさて、これでわかったかな番犬君」
揶揄をアルスは飄々と受け流す。国の番犬であるのは事実だ。しかし――。
「なら口には気を付けろ、俺の中での一線をお前が越えた時は自覚もないままに首と胴を切り離す」
「ふむふむ、君の中とやらの境界線には興味があるけど、僕も馬鹿じゃないし、ブラフに乗ってあげるほど寛容でもないんでね。何にしてもこの理事長が統括する学院において僕に有利な点なんかこれっぽっちもないしね。だから……乗らない」
「ふん、食えない」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
アルスは忌々しげに吐き出す。こちらに有利な展開にもってくことができれば造作もなく叩き潰すことができたのだ。
この部屋には魔力の感知記録装置が備え付けられている。正当防衛という言葉は便利に働くことだろう。
まんまと攻撃でも仕掛けてくるならば問答無用でねじ伏せる手段を取れたのだ。そうなればテスフィアどころではないはず。ましてやアイルはまだ当主ではない。ウームリュイナ家としてアイル個人の責任の追及は回避しきれないはずだ。
理事長の口添えでもあれば全てがアルスの掌の上で転がってくれるはず、順位とは言わば人類にとっての価値だ。保身を考える愚か者でも大衆の前にそれは覆らない。
しかし、そこは腐っても貴族ということだろう。アルス程度のブラフでは腕に覚えのある者は引っ掛けられても頭で先に考えるタイプにはボロが露呈してしまう。
だが、一瞬とは言えアルスが放った残り香のような殺気に無反応というのは些か顔を顰めそうになる。
死を直感してもなお反映されない、アイルは自分の命に執着しない、もしくは希薄なのかもしれない。
本能的な恐怖すらも凌駕する異常な思考。アルスとは別の意味で畏怖されるべく異質さだ。
アルスは強引ながらも僅かな手段をかわされた形となった。
「随分散らかってしまったけど、立ち話でも?」
アイルは呆れたように周囲を一瞥してから問い掛ける。まだ座ろうと思えばソファーも健在だが床に散らばったガラス片や割れたカップが物々しさを演出していた。
「俺は構わん」
「それはよかった」
満面の笑みの下でアイルは一勝にほくそ笑んだ。このブラフを潜り抜けたのは大きい。この後の話を全て優位にすることができるのだから。
優位に提示できる関係作りは一先ずアイルの目論見通りとなった。
(命綱を着けずに綱渡りをしている気分だなぁ、でも渡り切ったのは僕のほうだ)
だが、やはりアイルは一線を越えないように配慮しなければならなかった。最初からそのつもりはなかったとはいえ、アルスには自分たちを殺すことが可能なのかもしれないのだ。この瞬間に限り、可能かもしれないは大きな意味を持つ。
アイルは最高位を冠する魔法師の実力を手勢の戦力で計算する。
(……厳しいか)
そう判断した。ウームリュイナ家の筆頭戦力であるシルシラとオルネウスですら全力のアルスには魔法戦で敵う道理はない。
一先ずはアルスがどんな状況下においても独断での行動に制限がないことを知れただけでも良しとしなければならないだろう。本当の意味でアルスを制御することなど不可能なのかもしれない。
人は自分の命が危機に晒された場合、軍の規定を無視せざるを得ない。これは思考ではなく反射的な行動だ。自分の命より重たいものは限りなく少ないし、そう割り切れる人間も多くはない。死に対する恐怖を越えた目前の危殆、また命の重みを越えた使命や譲れない願いが自分を顧みない結果に繋がる。
つまり、命よりも上位に位置する決まりや誇り、大事な物が存在しなければならないのだが、アルスにはその範囲が常人を凌駕していた。
無論、力ある者として広量なことだが、それ故に慎重を期さなければならない。
それはアイルにはどうしようもなく我慢ならないことだ。下賤は力を付けようと下賤のまま、高貴さは高貴な血を受け継ぎ存在自体が貴重な宝であり財産だ。
身分はなろうとするものではなく最初から決まっていること。
だが、下賤とは言えアイルは力ある者には敬意を表し、正当な評価をする。刃向う強者をアイルはねじ伏せてきた。権力という力は個の力に勝る数を動かせる力。
一騎当千だろうと、千がダメならば万で当たるのがアイルの考えだ。手駒にならないならば去ってもらうか落ちてもらうかするだけの話。
しかし、アイルが今までに落とした――人望も職も全てを失った――者とは比べるまでもなく難儀な相手だ。それ故に試みる価値は大いにあった。
本来ならばアルスは外界でアルファの名を広める駒でしかなかったはずだ。その役割だけで十分満足がいく。いずれ手にする国がアルスのおかげで7カ国でも類を見ない功績を残しいるというのは涎すら出てくる。
そんな物は幻想でしかなかったとアイルは一つ学んだ。アルファという芳醇な香りを放つ花には数多の敵が集っている。
その中で勝ち抜くにはどこかでアイルも覚悟を決めなければならないのだろうと。
それが今である。アイルは意を決するまでもなく全てが自分を上に押し上げるために必要なことだと試練のように受け止めていた。
だが、運任せでのし上がれるほど易い場所ではない。
アイルは事前に決めておいた案を引っ張りだし、さも今思い付いたように演技しながら。
「僕と君の意見は平行線だけど、こちらの提案は呑んで貰えるんだろう?」
「で……」
その内容をアルスは急かすように問う。ここまで来たらなるようにしかならないだろう。
「アルス殿は知らないかもしれないけど、貴族間での揉め事を解消するには昔から一つの手段が用いられることが度々あるんだ。最近ではなんでもかんでも金だとかで解決を図るが、少々浅ましい。高貴さを吐き違えている者も少なくはなくてね。でだ、もっともわかり易い方法を採用しようと思う……貴族の裁定がいいね」
当然のように聞き覚えはない。それこそ貴族間にしか適用されないマイナーなものなのかもしれないのだが。
「貴族の裁定は今でこそあまり活用されなくなったが、一世紀ほど前まではごく当たり前に使用されていた。簡単なゲームさ。そうだね、よくチェスやテーブルゲームといったギャンブル要素を含んだゲームは代役を立てたりしていろんな条件を相手に呑ませていたんだ。交渉事や両者の意見割れなんかでも白黒はっきりさせることは大事だからね。もちろん互いがその試合を了承した上で行う」
その中でも取り分けテンブラムは血生臭い方式である。これをゲームと呼ぶのは圧倒的に優位な立場の者に限る。
貴族の裁定は最大で10対10の王取りゲームだ。メンバーに関しての制約はただ一つ、その家に連なる者。この解釈は家の力に含まれるかという点である。家に仕える執事や私兵もこれに該当する。その意味では働く従業員も従事した年数が2年以上であれば参加資格を有すること。
貴族としての知名度、いわば横の繋がりを用いて人材を用立てるのだ。貴族としての人脈を頼らなければならない。
が、各家で出せるメンバーは1名まで、代役を立てることも可能だが、このゲームはいわば家名が掛かった大勝負。
そのため易々と参加を受諾する貴族は少ない。そうなると1対10という構図さえできてしまうのだ。
テンブラムが活用されなくなったのは粛清のために使われる傾向にあったことがきっかけだ。対象となる家だけならばマシだが、参加した貴族も連座するというルールが協力する足枷となって働いている。
テンブラムのルールは実にシンプルだ。ある意味でチェスやミニ戦争として見立てられることもあるのだが。
まず王役と臣下役に分かれる。王はもちろんテンブラムを交わした者が努めなければならず、唯一代役を立てることができない。
王を守るための臣下――貴族がこのゲームの参加者に当たり代役を立てることも可能だ。王役は全体の指揮や指示しかできない代わりに臣下役としてメンバーはその命令を順守しなければならない。
お互いの王は全参加者の位置を把握するマップを見て戦況を組み立てていくが、相手側の敵が誰なのかまでは実際に仲間から報告が上がらない限り把握する術はない。
常套手段として王役はメンバーに様々な呼び方で命令することで相手に誰がどの位置にいるのかを悟られない工夫を凝らすものだ。
今回に限り相手を故意に死に追いやった、もしくは致命的な外傷を与えた場合、即敗北となる旨までをアイルは説明し終えた。
無論かなりぼかし気味だが、これぐらいはちょっとした遊び心とでも言うのだろう。
これに承諾すれば全てが望み通りだ。
テンブラム、というより貴族との制約は口頭だろうと重みを持つ。
この提案はアルスという個人が出てきた場合に用意しておいた方策の一つだ。ここでもやり取りで既に勝ちを拾ったアイルはいたって公平な提案であるかを雄弁に語った。
とは言えだ、これはウームリュイナ家のいわば譲歩。
最初から不利な状況下でアルスはこの場に着いていた。いくばくかの違和感を抱きながらアルスは思案する。
「仮に参加した他の貴族らが負けた場合、その御咎めは実際に何がある」
同志を募るとしてもどれほどのリスクが発生するのか、その具体的な制裁が分からなかった。
アイルは揚々とそれがどれほどの意味を持つのかまるで理解していないように答えた。まるで最初から決まっているかのように。
「実際、執行力はあくまでも何もない。それほど絶大なルールではないからね。でも、一つだけ貴族間での排斥行為は暗黙の了解になっている。様々な点において冷遇されるのは仕方がないことだ。さすがに当事者たちの家は没落は免れない、けど参加しただけの貴族は細々とだけど未だに生き残っている所もあるのは事実だよ」
「なるほどな」
言葉の上だけならばなんてことはないように聞こえてくるだろう。貴族とは言え小さいながらも領地を得ている者もいる。その場合は領主としての自治もまた仕事の内だ。
軍との関わりだけが貴族の懐を潤すわけではない。そこには事業の成功なども珍しくはないのだ。成功者であろうと何かしらの圧力が加わるとなると既得権益すらも機能しなくなり、生活すらままならなくなる。
今の口ぶりからウームリュイナ家は貴族間では一目置かれる家だ。軍すら動かすことも考えられるだろう。
貴族は一定期間、軍への協力、もしくは魔法師の供給を途絶えさせないことが最低条件となっていることを考えれば、没落を辿るのは遅かれ早かれといった具合だ。軍にとって学院と貴族が魔法師の主な供給源になる。
人材確保も容易ではないだろう。
アイルの言ったように平行線となった対立は交渉で決着はないと告げている。
貴族の間での取り決めは他者の介入できる隙はないのだ。だから今回もアルスが何を言おうとも覆らない。
仮になんとかするとしても、それはアルスではなくフェーヴェル家ということになる。貴族とはそういうものなのだ。
アルスに悩む余地など最初からなかった。全ては相手の思惑通りだろうと貴族社会において貴族でもないアルスには覆す手段はこれしかないのだ。
テスフィアの話を聞き、正式な婚約が交わされてしまった以上、元首だろうと口を挟むことは許されない。不正である証拠など過去に葬り去れてしまったか、最初からありはしないのだから。
さすがのアルスでも既存の貴族制度を根底から否定することは許されない。様々な研究をし資料を読み漁った彼ならば尚更だ。
人の営みは過去を積み上げてきた結果だ。成功も失敗もまた糧として今がある。
だからアルスはこの提案を素直に呑む。
呑もうとした。
「その前に僕のほうから条件がある」
「――!! 欲張りだな」
「貴族をそう揶揄する声もあるね。だけど僕も愛する人を諦めるかもと考えると相当堪えるんだ」
どの口がほざく、と内心で悪態を吐いたアルスは先を促すように口を噤んだ。
「貴族の裁定で僕が勝ったらアルス・レーギンの保有権を譲ってもらう。もちろん軍への交渉はウームリュイナ家が責任を持つよ。君の務め先が軍から僕に変わるだけの話だね。いくつかの制約は、その時に考えるとして、どうかな?」