変わり移る
幼少期のテスフィアが全てを認識して自分のしでかしてしまったことを悔いたのは丁度アリスと出会ってからのことだった。
心から呼べる友達というのは彼女にとっても初めてのことだ。しかし、友達という関係性は往々として後になってから気付くもの。
今思えばなるべくしてなったとでも言うのだろうか。
アリスが諭したのではなく、アリスと一緒にいることでテスフィアに正常な思考を取り戻すことができたのだ。気付かせることができたのだ。
後にこの事実を知ったフローゼが婚姻破棄の詫状をしたためたが、正式な返信は返ってきていない。それからというものフェーヴェル家はウームリュイナ家との会合を断った。
幸いにも貴族間での情報は業務連絡としてデータのやり取りのみだ。それまでにはフェーヴェル家も三大貴族の役割を担うことができたと言える。
無論、テスフィアはこの失態によってフェーヴェル家の所有する土地や権利を一部譲渡したことを知っている。軍を退役したフローゼだが、今まで以上の激務に襲われたのは確かだ。
そんな苦労を顔に出さない母にテスフィアは心底申し訳が立たなかった。何よりも母と同じ部屋にいるだけで居た堪れない気持ちになるのだ。
だからこそテスフィアは魔法の腕を磨くことで挽回を図った。
それは自分の心の弱さが招いた失敗なのだから、もっと魔法も心も強くならなければならない――と、そう赴くまま魔法に打ち込んだ。
当初は脳裏にチラつく、あの声が不快で仕方なかったが、時間が解決してくれた。
だから今になって現れた彼の意図がテスフィアにはわかってしまったのだ。
きっとあの時の続きなのだと。
♢ ♢ ♢
一部始終を数分で掻い摘んで話終えたテスフィアの顔は思い出したような疲弊を浮かべていた。
事実彼女はアイルと再会するまですっかりと言って良い程に忘れていたのだと言う。
アルスは脳内を整理しながら廊下を黙々と歩いていた。学園祭による喧騒は意識の壁に阻まれている。
どうも近頃二人を甘やかし気味になっているアルスだったが、今回ばかりは少々腹に据えかねた。と言えば大袈裟だろうか。
本来ならば彼女自身の手で打開すべきだ。それが彼女のためにもなり、アルスのためでもある。
だというのにそれを阻む壁が大き過ぎた。彼女が越えられる域を超えていたのだ。
まだ早い、早過ぎる試練にテスフィアは人生の全てを棒に振ってしまうかもしれない。ましてやその選択すらも本人の意思ではない、塗り替えられた思考故だとするならば、こんな理不尽なことも然う然うあるものではないだろう。
貴族社会では常識だったとしてもやはり憤りは感じて然るべきだ。これがフェーヴェル家の意向ならばアルスとて強く関わろうとはしなかっただろう。
だが、話を聞く限りでは恐らくフェーヴェル家は手を引いている。それを権力にモノを言わせた圧力で強制するウームリュイナは貴族としての分を越えた。
それに教え子が巻き込まれるのならばアルスもまた遠慮する必要はない。
自分の指導者としての才能があるのかはわからないが。
(あれを脱落させるのは痛いだろうな)
自分の割いてきた時間もそうだが、テスフィアとアリスの成長速度は本音を言えば間違いなく逸材だ。
それに気付けたのは最近のことだ。
今までの彼女たちは凡人でないというだけだった。
この後の成長はアルスを助けるとともに一つの楽しみになっていることもまた事実なのである。無論、本人が自覚するべくもない。
アルスは以前の自分ではありえない行動原理だと微かな微笑を浮かべた――本当はきっと平穏であり不毛なだけの学園生活が居心地がよかっただけの単純な話なのだ。
そこにはロキがいてテスフィアとアリスがいて、フェリネラがいる。たったそれだけの普通の生活が彼に新鮮な息吹を吹き込ませていた。
一人として欠けることがないこの生活は彼の望んだものであるはずはない。宛がわれた線路の上で成り行きとして築き上げられた関係だったはず――それが今は惜しいと感じてしまう甘美さがある。
アルスは項を軽く擦りながら気合いを入れ直した。
「まだまだ強くなりたい、か」
そう保健室で断言したテスフィアにアルスは口を挟まず頷いた。きっと彼女は強さの在り方が単なる魔法だけではないとわかっている。
今、テスフィアは成長しているのだ。心も身体も全てがゆっくりと成長していっている。そのためには学院という学び舎を離れるわけにはいかないと、真っ直ぐな瞳で見返して来た。
後はアリスにでも任せておけば大丈夫だろう。
警護の方も二の句もなくイルミナの許可が降りた。すでにウームリュイナの来訪が伝わっていたようだ。
できるだけ万難を排したいイルミナだったが警護の任を一端解くことぐらいしかできなかった。
明瞭に聞こえるはずの《コンセンサー》からは彼女の食いしばるように引き絞られた声が聞こえてきたほどだ。
イルミナもまた貴族である。つまり貴族間でのウームリュイナの評判でも聞き及んでいるのだろうか。
なんにしてもアルスには引き下がる後ろがない。もちろん引き下がるつもりもさらさらなかったのだが。
本校舎最上階――そこは学院内で最も生徒が近寄らない場所だ。
あるのは理事長室や学年主任など学院運営に携わる重要なポストの者が執務室を宛がわれている。無論、この階だけでも相応の広さがあるのだが、ほとんどの部屋は応接室として使われていた。
全ての部屋に防諜対策が施されているため、部屋同士の間隔は必要以上に空いている。白亜の壁紙はそれ自体が光っているようだったが、それが余計生徒を畏縮させる神聖な場所として意識させるのだ。
見慣れたアルスにしてみればどうということはない。
5箇所ある応接室にはそれぞれ部屋番号が振られている。その中でも1番と書かれたプレートが点灯している。これは使用を示す。
他の応接室は全て消灯しているため恐らく、と当たりを付けた。
アルスが目星を付けた直後、思いもよらず扉が先に開き、中から一人の女性が出てきた。
「まさか理事長が出てくるとは……」
先に声を発したのはアルスだった。
しかし、システィはわかっていたようにゆっくりと疲れた眼をアルスへと向ける。心なし猫背になっており肩に何かが乗っかっているような格好だ。
少し見ない間に老けこんだように見えた。
親の敵でも見るようにシスティは目をクワッと開く。
「このっトラブルメーカー!!」
防音は完璧なはずだったが、扉の前ということもあり張り上げるべく声量は声音に重みを持たせることで回避したようだ。ずっしりとドスが利いているようにも聞こえる。
アルスとしても不可抗力とはいえ、耳が痛い。
しかし、今回ばかりは――というより毎度のことながら彼に責任はないのだが。
「今回はフェーヴェル家の問題ですよ。それに彼女を指導するように言ったのは理事長ですよ? フィアを巡る問題に俺がしゃしゃり出た所で不自然なところはありませんよね」
「うっ……いやいや、どの口がそれを言うのよ」
「善行も善行、それにまだトラブルが起きたわけじゃない」
「十分トラブルよ! 事件よ! 三大貴族の筆頭よ、わかってる?」
「えぇ、もちろん」
「はぁ~これ以上の厄介事は勘弁よ、本当に」
システィは手で額を押さえた。
眩暈を起こしてしまいそうな光景だ。
よろよろと数歩近づき壁にへたりと寄り掛かる。
少しばかり芝居がかっていたが、迷惑であるのは間違いないようだ。
アルスは罰が悪そうに頬を掻く。
「学院に迷惑は掛かりませんよ。それに理事長も私情にまでは口出しできないまでも当校の生徒が意に反して自主退学させられるのは面白くないでしょう?」
「――!! そういうこと、ねぇ」
アルスにシスティの表情から胸中を察することはできないまでも、十中八九承服しかねるといった具合だろう。
それはシスティの私情と立場が相反する結論を導いたから、即答はできなかったはず。
しかし――。
「本当に学院には遺恨を残さない?」
ふいにガシッと両肩を掴まれたアルスはその力強い手を交互に見てから真正面の美貌に吸い寄せられるように視線を移した。
「……大袈裟ですよそれ」
「いいえ、遺恨もないわね。よく覚えておいてウームリュイナはそれだけ力を付けたということよ」
「だとしても、ですよ」
「一先ず他所でやってくれるなら、私個人としてはいくらでも力を貸すわよ」
「ありがとうござます。その時は遠慮なく」
「えっ! 少しは遠慮して、ね?」
「彼の三巨頭が情けないですよ」
「私も国の雇われ理事長なのよ。公僕なの。ここまで来ると腕だけでどうこうできないのよ。世知辛いわぁ……でも、だからと言ってテスフィアさんが退学させられてもいいってわけじゃないからね」
「えぇ、それを聞けただけで少しホッとしました」
悪い笑みを浮かべたアルスに対してシスティはぶすっと頬を膨らませて腕を組んだ。
「失礼しちゃうわ、っと、あなたのことだから打算あってのことでしょうからぁ~心配はしてないわよ。ほらさっさと行ってきなさい」
バシッと背中を叩かれたアルスはしかめっ面をしてから蹈鞴を踏む。
言われるまでもなくこれから対面するわけだが、その前にアルスはノブに手を付けて顔だけ振り返った。
「打算なんてありませんよ。手持ちのカードもありませんし、久し振りに手ぶらで戦場に向かうことになりますね……それでも何も譲る気はありませんが」
確固たる決意を残して開閉の音をさせずにアルスは部屋の内部へと歩を進めた。
確かにカチャリと扉が閉まった後、システィは踵を返す。どこか歩調が弾んでいるのだろうか。いや、実際に弾んでいたのは気分だ。
不謹慎だと自分でもわかっている。しかし、それでもシスティは自分の勘違いが嬉しかったのだ。
「なんだ、ちゃんと変わったじゃない」
おどけたように誰もいない廊下で自室に向かったシスティは弾んだ声を空に舞わせた。
システィは今ならばなんでも出来てしまいそうな気分だ。それこそ現役時代のように若返ったかのように。
若気に当てられたとでも言うのだろうか。
縛られず気の向くままに行動できてしまう彼は異端視されるのかもしれない。軍属でありながら国益を顧みない。
しかし、それは若さ故だけではなく、彼が自分を貫いていたからだ。一変して危うさを窺わせるが、アルスにはそれを判断するだけの経験と知識がある。
もちろん、若さ故の誤りというのもあるのだろう。
だが、システィはこの時だけ羨ましかった。触発されたかった。
少し馬鹿になってみるのもありかもしれない。こんなご時世だ、正しいと思ったことを理性と本能が一致して行動に移せる者は僅かだろう。
システィもまたその僅かな人種であろうとする人間だということだ。
カツカツと小気味良い足を響かせながらシスティは薄らと口元を上げ。
「少し羽目を外してみようかしら」
指を一本立てて血色の良い唇の下――オトガイ唇溝――に添えた。
しかし、数歩してピタリと止まったシスティは懸念をも口にした。それが保身であろうと責められるものではない。
「もしもの時は総督ならなんとかしてくれるわよね。借りもあることだし」