静かなる情動
遠くの喧騒は意識に入らず、小鳥のさえずりのように気にはならない。
寧ろ悠久を思わせる静寂が訪れようとしていた。
こと彼女に限っては静寂という言葉がこれほど似合わない女性もいないのかもしれない。
いつものようなやんちゃさはすっかりと鳴りを潜めていた。テスフィアはベッドの上に腰掛けた状態で無意識に指を唇に這わせた。
微かに開いた口が妙に艶かしく、そこから漏れる小気味良い吐息。余韻に浸るようにテスフィアはほんのりと頬を染めていた。
今も残っている自分のではない温かみが恋しいように。
ある意味では虚ろな眼をしている。心此処にあらずと言った具合だ。
「で、一応説明してもらえるんだろうな」
そんな全てを有耶無耶にする言が放たれて、テスフィアは狼狽しながらもアルスへと視線を移す。
何を説明しろというのか、そんなことよりも今のはどういう意味だったのかが気になってそれどころではない。
寧ろ、なんの説明もないまま乙女の唇を奪っておいてしれっとした表情をしている姿は腹が立ってくるほどだ。
「そ、それよりも今、のは……」
いつものように快活とまではいかない。キスの意味など訊ねるのは野暮なのだろう。
しかし、心なし浮かれる鼓動が期待を押し上げてくる。
嫌な気分ではなかったのだ。寧ろ喜々として声が弾んでいる気さえしていた。
足を閉じて気恥かしさを隠そうとしてしまうのがなんとも不思議な感覚だ。
「覚えてないのか?」
「へ?」
そう言われて咄嗟に顔を上げ、記憶を遡る。嫌な記憶というのは往々として残り易いものだ。次第に悪くなる顔色が染めた頬を鎮火させた。
最後に覚えているのはアルスの黙する姿だった。その後のことは鮮明ではないにしろ重要なことだけは耳に残っている。それが事実なのかはたまた夢だったのか、全てが衝撃的過ぎてあやふやな記憶だ。
だが、あの嫌な貴族の顔は確かに現実として存在していた。あの場にいたのだ。
「――!!」
ふいにポンッと頭に乗っけられた手がじわりと寂寥感を思い起こさせてくる。あの時の彼の表情が、自分を見放すような眼が張り付いて離れなかった。
しかし――。
「悪かったな」
「なんであんたが謝るのよ」
事切れてしまうような言葉は二人の間に明確な一線を築き上げた。この距離が正しい、結局は他人で他人事の話なのだから……だというのに唇を重ねた。その理由だけははっきりさせなければならないとテスフィアは思う。
アルスは今までにない失態の種類に困惑しながらも不慣れな言葉を連ねた。
「お前に掛ける言葉が出てこなかった。いや、違うな……どうすればいいのかわからなかったんだ」
真顔で告げたアルスの意外な一面にテスフィアは面喰ったように一瞬時間を止めた。
今までのアルスからは間違っても出てこない言葉だったのだ。人格的には少しばかりきつめな彼をテスフィアは客観的に見て近寄りがたいイメージを持っていた。
それもそうだろう。彼の最高位としてのポテンシャルは遥か遠く、背中の背の字すら捉えることができないのだから。
完璧なアルスにも出来ないことがある。それはテスフィアが、いや、最高位という順位に憧れる全ての者にとって同じ人間なのだと悟らせる言葉だった。
同じなのだ。
彼もまた普通の魔法師と何も変わらない。ただ突出して魔法の才があり、且つ尋常ならざる努力と柔軟な思考あってのものだ。逆を言えばそれ以外は彼女たちと同じように悩む。
テスフィアは胸がすく思いに内心疑問を呈した。
(ん?)
アルスの表情を見たあの時、感じたことは……そう、彼に嫌われた、愛想を尽かされた、自分に嫌悪感を抱いたのでは、きっともう以前のようには戻れないと、突き放されたように感じたのだ。
そうじゃないとわかった途端、今までにないほど安堵している自分がいた。
(嫌だけど認めなきゃ……)
矛盾しているが、彼女の中では全てが合致している。嫌と思っておきながらも少しも嫌悪感などないのだから。
いつかアリスがそんな恋模様を逸早く察していたっけ、と思い出した。
そして認めた瞬間、テスフィアは吹っ切れたように大きく息を吸って吐く。
少しだけバクバクと高鳴った鼓動が落ち着きを取り戻したように思えた。
「徐々にだけど思い出して来た。うん、だい……たい……は」
「そうか、なら……」
言葉を遮られた形で矢継ぎ早にテスフィアが被せてくる。
「その前になんで、わ、私に、その……キ、キスを……」
ボッと赤くなってしまう顔はつい今し方の光景が脳内で鮮明に再生されてしまったからだ。
さすがの朴念仁でもこの状況を見れば粗方察しは付くが、アルスは今だけはこの幼気な少女が良からぬ方向に暴走気味なのを内心呆れながら嘆息する。
あまり深く彼女の心に踏み込むのは良くはないのだろう。しかし、説明する上と誤解を解く上では必須要件だった。
「その前にお前の状態だ。一先ず身体に異常はないな」
「う、うん」
軽く腕を曲げて見せる。
随分杜撰な確認もあったものだと思ったものの見た目上特に問題はなさそうだ。
「ならいい、お前がそこまでの衝撃を受ける理由もたぶんだがわからなくもない。少しばかり異常だったがな。結果的にお前は一時的な意識障害になったと思われる。俺も専門家じゃないから適当なことは言えんが」
確かにぶつ切り状態の記憶は途中からほとんどなかった。次に眼を覚ましたのは衝撃的な場面からだ。
障害と言われれば大袈裟な気もするが彼女自身ただ気を失った程度としか受け止められない。
そんな大事になった原因をテスフィアは知っている。きっとアルスは魔法師として大成する夢のことを言っているのだろう。それはアルスが予想することと無関係ではなかったが大部分ではなかった。
まさかそこまでの大事になっていたとは思いもしなかったのだ。他人に言われて初めて気付かされた。
しかし、そこでどうキスに繋がるのか。
テスフィアは意識障害のことをすぐに頭から追いやり本題を急かすようにアルスを見上げた。
するとアルスは言葉に詰まりながら紡ぐ。彼の本意ではないかのように。
「いや、俺も軽率だったが、お前もお前だ、それくらいで眼を覚ますなら最初から意識を手放すな」
「つまり?」
かなり遠回しな言い方に素直な疑問を放った。
「つまりだ、俺にも至らない点があってだな、お前があいつとのキスをなかったことにしたいようだったから俺が上書き、してみた……まったくもって非科学的過ぎる療法だが、結果的には拍子抜けするほど覿面だったわけだ。理解に苦しむがな」
「は? はあああぁぁぁ!?」
奇声じみた声を上げたテスフィアは両手で自分の頬を挟んだ。理解に苦しむのは自分のほうだと告げるように。
「じゃぁ、なに? あんたは確信もない治療の一環で私の唇を……う、奪ったの」
「不満か?」
「不満よ。というか動機が……」
そう勢いに任せて口をついてしまいそうになる。最後まで言ってしまえば自分の内を曝け出すことになるのだ。
今の話を聞いた後では釈然としないのも仕方ないだろう。それに自分からというのは違和感がある。こういうものは普通女性からではないはずなのだ。
それにキスの一つで、というのは随分軽い女のような気がする。
「動機が?」
そう聞き返すアルスの飄々とした台詞にテスフィアは顔を顰めてからそっぽを向いた。
今はまだダメだ。まだまだやることも多いのだ。
少しだけ飛躍させた想像がテスフィアの頬を緩めたが、アルスに限っては周りに絶世と呼ばれても不思議ではない美女が蔓延っているのだ。それでも浮いた話はここ数ヶ月共にいて聞かない。
ましてやテスフィアはアルスからの印象的には好ましくないようにも思えた。
恋人未満、更には友達未満と言った最低辺な気さえする。まだ嫌われていないだけいいのかもしれないが。
(あれ? 私って一番近いようで遠い?)
そう気付けたのはキスという行為をしておいて関係的には何も進展しないからだ。それもこれも全てはふてぶてしい彼のせいだ。動機は正当過ぎるほどに彼の気持ちが含まれていない。
はぁ~と心底ため息を溢してテスフィアはじっとりと横目で睨む。
どうしてこんな男を好きになってしまったのか。性格はぶっきらぼう、しかし、それを差し引いても魔法としての才覚はトップ。
もちろんテスフィアは夢見る少女である。貴族という地位を度外視した場合、彼女は間違いなく性格や相性といった内面を重視する。
その点で言えばアルスは不合格、なはずなのだ。彼は常に理性的で合理的、間違わないための選択を追及する――まるで機械のように……だが、いつの間にかそんな全てが、彼を構成する全ての要素が好ましく思えるのだ。
きっとこれが好きという感情で恋と呼ばれる現象なのだろう。
そう言われれば説明はできなくとも一番しっくりくる言葉だ。
「なんでもないわよ!」
「そうか、で、一応まだアイルとかいった貴族は俺を待っている状態なんだが、できれば掻い摘んで説明してくれ」
これからどんな話し合いの場が持たれるとしてもアイルについての知識は必要だ。
こうなれば巻き込まれたが、乗り掛かった船である。せっかく訓練の成果も見えてきた所、丁度いいところなのだ。
テスフィアが学院を去ればアリスとて訓練どころではないかもしれない。今までの全てが無に帰すというのは忌避すべきことだ。
何よりべリックが言ったように人心を慮ることも務め、という言葉の意味がなんとなくだがわかってきた気がする。
少しばかり出来の悪い教え子の助力になってやってもいいのかもしれない。そんな気持ちの変化がアルスを自分の意志で踏み込ませていた。
(できればちゃっちゃと気が変わらない内に説明してもらいたいものだが)
「お前は来なくていい、どうせ出て行っても役に立てないだろ。またぶっ倒れるだけだ。お前の意向も汲んでやる」
「う、うん……」
喉につっかえるように言い難さをテスフィアに感じた。
あまり待たせるというのは不利な状況での話になりかねない。
アルスは病み上がりには悪いと思いながらも。
「俺が手を貸してやると言ってるんだ。さっさと言え、まぁお前の家も無視できないだろうから意向はその辺も加味して条件を出せ、30秒だけ待ってやる」
「――!! えっ、ちょっと!」
「いーち……」
「しかも声に出すなっ!! 気が散るぅ」
悲痛な声で抗議するテスフィアにアルスは意地の悪い笑みを向けるのだった。