心の調和
周囲の色めいた悲鳴は女生徒が上げたものだろうか。そこには羨望が含まれていた。まるで御伽噺に出てくるような淡い願望が織りなすワンシーン。
しかし、彼と少しでも時を過ごしたことのある者ならば必ずしも満たされず、女性としての幸福を感じることはない。
自分の意志に反した行動をなすがままにされる操り人形のようだと形容してしまう。
そう感じたのはテスフィア本人だった。
虚ろな空間に意に反した結果。望んでいない結果であっても彼の発した言葉と視線は拒めなかった。
唇が交わる感触に意識を取り戻したのは手遅れになってからだ。
間近にある綺麗で整った顔に瞠目したテスフィアは自分から離れるより早く腕を勢いよく振り挙げた。
だというのにその張り手を作った手が振られることはない。どれほどの嫌悪感を抱こうとも身体が言うことを利かないのだ。魔法的な作用ではなく心の拒絶。
力無く降ろされる腕を横目で見たアイルはゆっくりと焦らすように唇を離した。
「うん、それでこそフィアだ」
心のつっかえが取れたような晴れ晴れとした表情で評価を下すアイルは手をテスフィアの頭の上に翳す。
一瞬ビクッと身体を反応させたテスフィアだったがそれを受け入れざるを得なかった。
「どうでもいいが、乳繰り合うなら俺は自分の仕事に戻らせてもらう」
「あっ……ち、違うの」
必死に弁解するテスフィアにアルスは困ったような表情で「何が?」と問う。
「だ、だから……そ、そう、今のはノーカンよね? ノーカン」
空笑いを浮かべて唇をゴシゴシと拭う姿は悲哀に満ちていた。そして拭う度に声が震えだす。
「ノーカン、こんなのは……絶対に……」
気が付いた時にはもう手遅れだった。テスフィアは自分が何故必死に弁解しているのかが理解できなかったが、絶対に自分の意志ではないことだけを訴えた。
しかし、魔法で強制的に行動を制限されたわけでもなく拒む時間は十分にあったのだ。誰がどう見ても受け入れたのは彼女だった。
それでもテスフィアは否定する。
初めてなのだ。
それがこんな半強制的な方法で望んでもいない相手と。
次第に大粒の涙が頬を伝う。
辱められたという認識は最初からない。できることならば全てをなかったことに――誰も見ていなかったことにして欲しいとさえ願う。
きっと彼が否定してくれるならば自分は大丈夫だろうと、ふいにそんなことが過った。縋るような反芻に答えてくれるならば自分はなかったことにできる。
だが。
「…………」
こういう時に欲しいだろう言葉が浮かばないのは彼が一般的な人間の外を歩いてきたからだろう。
アルスにもどう言葉を紡ぎ出すべきか、はたまたどこまで首を突っ込むべきか、思案のしどころである。
「な、なんで何も言ってくれないの」
が、それは結果的に残酷な言葉以上の意味を持っていたことに彼は気付けなかった。黙することは全てにおいて是とした印象与える。
テスフィアは真正面から見たアルスのなんとも迷惑そうな表情に心が押し潰されそうになった。
この場にいることもできずに更に溢れ出す涙を両手で覆う。
そして全ての元凶であるアイルへと赤くなった眼が向けられた。
「今更だよフィア。さすがの僕も傷つくなぁ、それが夫に対する眼だとは思いたくないものだ」
張り付いたような笑みを固定して彼女にとって最も辛い言葉を放つ。
震える喉で上手く言葉を紡ぎだせないテスフィアを見越したのか揚々とアイルが説明に入った。
「まさか幼い時に交した婚約が未だに生きているとは思ってなかったかい? それは通らないさ、フェーヴェル家がなんと言おうともね」
「――!!」
赤い髪をゆっくりと撫でていく。その手は心臓の鼓動に一致するようでもあった。
「フローゼさんからは取消しのための謝罪文とお詫びが家に届いていたみたいだけど、そんな馬鹿な話があるかい? 当人が同意の上で尚且つフィーヴェル家にとってはこれ以上ない婚約者候補だ。もちろんそちらの事情も知っているよ。君が嫁に出てしまえばフェーヴェル家はフローゼさんの代で途絶えてしまうからね。だから僕が婿養子となっても良いと言っているんだ。君が元気な子供を二人産むという選択もあるね」
咽び泣き始めたテスフィアには言いたいことがあっても言葉が出てこなかった。いや、どんな反論を持っても家の力で押しつぶされてしまう。
アイルは腰を落としテスフィアの耳元でそっと囁いた。
「さすがにフェーヴェル家でもうちを敵には回せないだろう。寧ろ君にそんな選択はできないよ。安心してくれていい、君はきっと良い妻になるさ。その綺麗な顔をもっと僕に見せておくれ」
そう言ったアイルは優しく頭を撫でていた手を放し、覆っている両手を引き剥がすとテスフィアの首元に手を入れ持ち上げる。
涙で濡れそぼった顔を背ける彼女にアイルは満足そうな表情で眺めた。
「フィアはそうでなきゃね」
涼しい顔を近づけたアイルは微笑を絶やさずに囁く。
「君はもう魔法を学ばなくていいよ。外界に出ることもないだろう。僕の傍にいるだけでいいんだ」
「――ッ!」
限界まで眼を見開いたテスフィアはすぐには理解できなかった。しかし、一つ言えることは彼女が生きてきた意味を根こそぎ奪い去って行く。
目標も持たないただの鳥籠の鳥となるしかない。
すでに動揺は諦念と化して力無くテスフィアの瞳から光を消失させていく。
刹那――。
アイルは顔を微動だにせず一言だけ発した。
「なんのつもりかな?」
「節操のない奴だ。これでも俺が直に手解きしているんだ」
「これでも僕は君より一つ年上なんだけどなぁ、とりあえず、これ……放してくれる?」
テスフィアの顎をきつく掴んでいる腕を横合いからアルスが手首を握っていた。その力は笑いごとでは済まされない領域に達している。
しかし、アイルの表情は崩れることがなかった。
主の危機的状況においても一人だけ残された従者の男はピクリとも動かない。それもそうだろう。アルスには危害を加えるつもりすらないのだから。この男は寧ろ傍観しているだけだ。
「悪いな、お前に尽くす礼は持ち合わせていないようだ。これ以上は悪ふざけでは済まなくなるが、どうする?」
鋭い眼光を真っ直ぐアイルへとぶつける。
同時に力を込めたがそれでも彼の表情は変わらず笑顔だ。
アイルは痛みを感じないのではない。痛みを分離させているのだ。アイルは痛覚を自身の身体に影響を及ぼさない程度に遮断している。
痛みは感じるがそれによって筋肉が反応することはない。これはアイル生来の性質とも言うべき病。
痛覚は一定レベルで抑制されるため、仮にこのまま腕を折られようとも彼は表情を変えることはないだろう。アイルには苦悶や絶叫する程の痛みというのものを味わったこともなければ、想像することもできない。
「まさか君がフィアを庇うなんてね。見てれば女性の扱い方がわかるかもしれないよ」
「結構だ。お前よりはマシだと思ってるからな」
アイルは腕を掴まれたままふ~んと唸る。
「調査不足かな……それはさておき、今回来たのは先ほどの話とは無関係ではなくてね。今日は君を怒らせるため来たわけじゃないんだ。無関係というわけでもないからね」
ゆっくりと手を離したアイルは力無く膝を地面に付けて頽折れたテスフィアを無邪気な笑みで見下ろした。
「ならすぐに用を済ませて帰れ」
「ふふっ、僕にそんな口を利けるのは君がアルファの最高位だからだ。そこをもう少し理解して欲しいね」
ワザとらしく困った顔を作った直後、アルスの背後に視線をずらして「ナイスタイミング」と穏やかな表情で本校舎から戻って来た従者を労う。
「では行こうか」
先導するアイルと女性従者、アルスの後ろには男性の方の従者が控えた。
アルスは心なし鮮やかな深紅の髪がくすんだように見えるテスフィアになんと言葉を掛けるか悩む。こういう場合、彼の今までの付き合い上年上の女性が多かったため悩む、というより言葉を慎重に選んだ経験がない。
しかし、今は多感な年頃のテスフィアを相手に気の利いた言葉を……。
なんて考えても不慣れなことをするものでもないな、とアルスは頭を振った。
「おいっ、お前は少し休んでろ!」
「――!!」
虚ろな表情のテスフィアの手を引き、そのまま流れるようにして横抱きに抱えた。彼女にはなんの抵抗もないはずだ。
腕を引かれてから抱えられるまでの振動はほとんどないのだから。
それほどまでに気を遣ったのはやはりアルスにも少し反省する点を認めたからなのだろう。
唇を噛み、何かを堪えるようなテスフィアは小刻みに震えていた。
アルスは一息付くと周囲の野次馬を散らす為に殺気を含めて一睨みする。ビクッと全員が全員して蜘蛛の子を散らすように去って行った。
(本当に貴族は面倒だ)
そう感想を内心で述べたアルスはチラリとこちらを窺ったアイルを見逃さない。
「場所はどこだ」
その問いに答えたのは女性従者だった。何かを察したように軽く眼を伏せた後。
「4階の応接室です」
「こいつを一端置いてくるから先に行ってろ」
「ご自由に……でも、フィアに関係のある話だけど同席しなくていいのかい?」
「お前がそれを言うか」
「ククッ、いいよ。ゆっくり整理してきなフィア」
そう言って歩みを再会した二人。アルスの背後に控えていた従者は軽く会釈すると後に続いた。
一拍おいてアルスは方向を変える。
どうせならば保健室のほうが何かといいだろう。ケアをアリスにでも頼むとしてもだ。
「あいつは何なんだ」
「…………」
涙は出尽くしたのか、それを上回る衝撃が彼女を占領したのかはわからない。だが、テスフィアはアルスの問いに反応を見せなかった。
保健室までの道中、二人の間には一言も会話がない。
ノックをして入室するが返答がないように案の定誰もいなかった。保険医もまた特設した医務室にいるのだろうか。
「はぁ~落ち着いたか?」
ため息とともにベッドの上に座らせる。
抱き抱えている間中ずっとアルスは自身の魔力を流していた。それで何がどうなるというわけではないが、セラピストの初歩として魔力を一定のリズムで適度に流すことで精神を鎮静させることは一般的だ。
「――!!」
腰を低くしたアルスはここで初めて彼女の状態を知った。
瞳孔が開き、全てに蓋をしてしまったような空虚さしかない。首に力はなく腕は涙で腫れた眼を隠そうとすらしない。
テスフィアの内部では過去のトラウマが引き起こされたショックで自我の損失。軽度とは言え彼女のことを良く知るアルスは自分の不甲斐なさを呪った。
きっとあの時に何か言葉を与えられていれば違ったはずだ。
べリックが言ったように人心を慮る心の足りなさを痛感せずにはいられない。
アリスに会えばきっと元には戻るだろう。何もかもとまではいかなくとも彼女は自分をギリギリで保てる。
だが……。
その尻拭いをさせてしまうことに忌避感を抱いた。これはアルスの失態だ。
貴族という厄介な人種故に手を拱いた。
「情けない話だ」
自嘲するようにポロリと溢した声は中空に苦味を残して溶け込む。
今までも自分の主張を優先させてきたのにいざという時に躊躇ってしまう。経験不足なんて言い訳ができるはずもなかった。
「最高位ねぇ……俺もお前も学ぶべきことがまだまだ多いようだ」
問い掛けるテスフィアの無反応はわかった上でアルスはそっと両手で彼女の頭を挟んだ。
親指で両目の目元をゆっくりと丁寧に拭う。
アルスに精神的な苦痛の取り除き方などわからなかった。ただ、彼女が懇願したノーカンという言葉が妙に耳に残っている。
今思えばそれが最後の砦だったのかもしれない――彼女の自尊心が僅かに残る。
(魔法ならばどうとでもなるんだがな)
そう魔法ならば精通しているアルスに理解できないことはごく僅かだ。しかし、人の心程掴みどころのない物はないだろう。
どう気を付ければよかったのかすらアルスにはわからない。それでもきっと口を閉ざすことは間違いだったと言える。
小難しく考えるから事態が思うように運ばないのだ。
アルスは今だけは頼るようにして馬鹿になってみる。
テスフィアはなかったことにでもしたかったのだろうか。そう思案してみる。知識としては初めてというのを女性は気にするらしいが、彼には良く分からない。
何も耳に届かない今のテスフィアには言葉を重ねてももう手遅れだろう。
アルスは後頭部を一掻きして意を決した。
「これで気が済むとは思えんが……」
一歩引いた位置からアルスはテスフィアの横に手をついて顔を近づける。
思えば軍で接吻など何回も経験した身だったが、自分からというのは初めてのことだった。
感慨などあろうはずもない、これは処置の一つとして取った手段なのだ。出来ればあのいけすかない貴族と間接はご免だがそうも言っていられないだろう。
彼女の柔らかい唇の感触が伝わり、温もりが共有されていく。彼女もまた一つの存在なのだ。わかっていて、当たり前の常識だがそれを強く実感したのは事実だった。
自分でも馬鹿馬鹿しいと思える。なんせ行動で示すためにキスというのはあまりに幼稚過ぎる。
テスフィアがなかったことにしたいと思ったキスをなかったことにはできない。しかし、それを上書きすることはできると考えたのだが、自分でも稚拙過ぎる理屈だった。
到底ロジックの上に成り立つ結論ではない。
テスフィアの瞳に光が灯り出す。ゆっくりと静かに……新たな動揺を抱きながら。
「#$%>&%+$#!!」
まるで意識を失っていたようなまどろみから覚醒したテスフィアは眼前にある顔に驚愕した。あまりに近い、近過ぎる距離。
息が掛かるどころか、鼻先が触れてしまうほど。
息、と思った時、テスフィアの意識は自分の唇に集中した。開けられない、と言うよりも開け方を忘れてしまうような感触に脳内は混乱を極めた。
キスなどしたこともない彼女にはその正しいやり方から、何一つわからない。どうすればいいのか、ショート寸前の脳は全ての動作を停止させる。
息を止め、ただ時間が過ぎるのを待った――任せた。
至近距離で彼を見たのは初めてのことだ。いや、今までにも見ているはずだった。しかし、真正面からまじまじと見たのはきっと初めてのことだ。
眼を自然に瞑った顔は自分に気付いていない。ふいにテスフィアはアルスが年相応の男の子に見えて羞恥する。急に恥ずかしくなってくる距離と感触。
眼を惹くほどの美形ではないが、どこか興味を尽きさせない魅力のようなものを感じる。
真っ赤になった顔は鎮火することなく湯気を立ち昇らせてしまうほどだというのに妙に安堵してしまう。
身を任せてしまうのだ。
「ん、んん……っ!?」
本当に少しの間だというのにあらぶる心臓への酸素供給が追い付かず息苦しくなってくるテスフィア。
そして間近で片目を開けたアルスと眼が合う。
少しの名残惜しさと仄かな香りを残して離れて行く唇は僅かに揺れた。
なんと言えばいいのか、テスフィアは混乱する頭で口をパクパクと開閉させる。上気した顔は真っ赤に染まり、熱はまるで冷める気配を見せなかった。だというのに口を離した彼は何事も無かったかのように肩を竦めるだけで感じいるほどではないといつもの無愛想な表情を作っていた。
アルスは酷い頭痛に見舞われていた。
どうしたら眼が醒めるのか、理屈が理解できない。いっそ全てが彼女の掌の上で、演技に引っ掛かったと言われたほうが不承不承納得もできるというものだ。
これでは、まるで……。
「お前、ワザとか……」
「え、はっ、はい!」
よくわかっていないテスフィアは勢いに任せて肯定の声を張り上げた。
この反応からも本当に何故こうなったのかを理解できていないのだろう。




