深層に絡まる糸
落下までの数秒の間で様々な情感や無意識下の願望がイリイスの胸中に溢れる――まるで走馬灯のように。
しかし、着地してしまえば嘘のように思考は薄れ戦うための冷徹な物へと切り替わっていた。
気が付けば肩で呼吸を繰り返している。体力的疲労だけを見るならば未だアルスのほうが優位だろう。だが、彼女の脳内ではすでに勝敗は決していた。
無論、この状況下で彼は最善を尽くしたと言えるだろう。これだけの一般人がいる中でそれこそ英雄さながらの全力だ。
それがわかっていてもイリイスは自分の勝利を誇示できる。勝者には生を敗者には死を、これがこの世の摂理だ。
それは彼もわかっているはず、だから褒めて然るべきだろう。できることをやったのだから。
これ以上は彼を魔法師足らしめない。
英雄足らしめず、羨望する最高位の魔法師という栄光にそぐわない。
『それが人の身の限界だ』
陶酔するように、自己陶酔するようにイリイスは細い腕を持ち上げ目一杯に指を広げて顔面を覆い断言した。
人間である以上、魔法師として縛られる以上、逃れ得ない業。
有象無象に埋没するのならば強さに責任はともない、付き纏う。もう彼女には守る制約も守るべきモノもない、その違いは戦いの上では大きな枷となることを彼女は身を持って知っている。
ゆっくりと持ち上げられたイリイスの顔は清々しい笑みを作っていた。
「【黒楼芒波の四尾】は破れんよ」
「どうだろうな」
この状況下でまだ強がりを言うかと眇められる眼。
イリイスの四尾が鋭く先端をアルスに向けた。
「――!!」
しかし、彼は戦う素振りを一切見せない。油断とも取れなくもないが、アルスは腕を組むように指を一本立てて上空を指した。
(凍獄は全て……!!)
つられるように――いや、まるで視線が誘導され抗えないように刹那の不安感を抱きながら天を仰ぎ――そして気付く。
(馬鹿なっ!)
ドーム状に展開された防護壁の最奥部には巨大な魔法陣が構築されていた。鮮やかな五芒星だ。だが、それを見たイリイスは思い違いをしていたことを知る。
氷の円、その中を水、木、火、雷、風がラインを引いて五芒星を作っていた。あれは間違いなく自分を殺すための魔法であるはずだ。それほどまでに完成された構成は彼女をしても魅入ってしまうのは避けられなかった。
3系統以上の魔法は同時発現させると相克を来す為理論的には不可能である。もちろん自身が水の弱点である雷を防ぐために性質自体を変化させることは可能だ。
系統相関図で言えば相性次第では相乗効果を生むこともできる。それは別々の魔法として事象が組み合わさるだけの話なのだ。だというのに頭上に展開した五芒星の魔法陣はエレメントを除く全系統が含まれていた。
全ての系統には必ず優劣がある、だからこそ美しかった。円を描き全てが均衡の状態を示す。イリイスはその魔法陣に見惚れたのではなく、あり得ない光景、完全に調和した有り様に瞳を奪われた。
瞬時に脳内で弾きだしたのはここまでが計算の内だということだ。
そしてアルスはこれだけの観客を前にしても自分を殺すことができる人間だった。
凍獄の更に上で隠すように別の魔法を行使していたことになる。
「こんな魔法をここで使えば……!!」
そう、被害は甚大だ……だが、そうならない理由を彼女は見た。
防護壁の外側で一際膨大な魔力を注ぎ障壁を編み上げる人物を――たった一人いるだけだが、その強度は倍近く増したように感じる。
(魔女――!!)
魔女の異名を持ち、アルファが栄華を築いた立役者の一人だ。直接の面識はなかったが7カ国中にその名を知らない者はいない防御系魔法のスペシャリスト。
魔女システィの介入により全てに合点がいく。
そして全てが手遅れであることをイリイスは覚った。この訓練場内において安全圏内にいるはずのアルスと同じ場所に移動することができればまだ逃れられるだろうか。
(逃げる!? 私が?)
直感的にそう判断してしまったのは全て誘い込まれたが故の思考である。
絶対の自負がある黒楼芒波の四尾が破られるはずもない……そう考えても本能的に回避を選ぼうとする身体を気力でねじ伏せる。
「全系統複合魔法、ククッ……だったら試してやろう!!」
イリイスは全てに近い魔力を四尾に注ぐ。黒い液体は赤黒い斑点を浮かべて漆黒に染まった。
天を憎々しげに仰ぎ見て一歩……体勢を変え……!
呼応するように魔法陣が鳴動した直後だった。イリイスの身体がピクリとも動かない。四尾もまた重石を付けられたように鈍く感じる。
「――キサマッ!! 魔法陣の真下全ての座標を固定したのか!!」
視線だけをアルスに向けた。
「言ったろ、付き合うつもりはないってな」
アルスは無表情で淡々と告げる。様子見や自覚させるための手数は出した。凍獄で諦めてくれればベストだっただろう。だが、それが境界線だとも決めていた。イリイスはこちらの土俵に乗ったがそれは最初のみだ。あの召喚魔法で分からせられたのはアルスのほうだった。
殺す気で臨まなければ何も始まらない。でなければ、時間とともに――試合の経過とともに不利になるのはアルスの方で、その被害は彼だけに留まらない。
だからこそ殺すつもりで緻密で繊細の極致足る全系統複合魔法を行使するのだ。様々な条件下においてあの四尾を崩壊し得る魔法。
魔法陣の範囲内全座標を固定。石ころ一つ微動だにできない状況はまさに逃れられまい。周囲の空間自体の情報を改変しなければならない。彼女ならばそれも数秒で可能とするだろう。
アルスもいくら魔力が有り余るとは言え、自身の適性でない系統であるため魔力の消費量はギリギリだ。予想外とはこのことだった。理事長が駆けつけなければ一方的な展開になっていたかもしれない。どちらにせよ凍獄の背後に最上位級を超えた魔法を展開することまでは考えなかったはずだ。
ナイフを掲げ、刃先を勢いよくイリイスに向けた。
「覚悟はできたか? 堕ちなミナリス・フォルセ・クォーツ……【始原の遡及】」
効果範囲内の物質が悲鳴を上げているような奇怪な音が木霊する。
そんな五感に障る鳴動はイリイスの恐怖を駆り立て自信を揺らがせた。見たことも聞いたこともない魔法は彼女の経験から最も警戒すべきことだ。
それもそうだろう。全系統を使いこなせるだけでなく組み合わせた魔法師は過去ただの一人もいなかった。だから全ての系統がもたらす効果・現象は予測すらできない。
だというのに逃れることもできない状況――身体の自由は周囲に放出した魔力に情報を組み込み固定座標を上書きしたことで解かれたが、すでに手遅れだった。
一瞬で周囲を覆う光の壁は反対側を透かすことすらできない程に濃い。イリイスはすでに人としての生が尽きている身だ。今更生きることに執着はしない。
だが、それを拒むのは未だ彼女が人間足り得る証なのかもしれない。
「魔法陣を壊せば私の勝ちだ! 【黒楼芒波の四尾】!!」
全身を覆うように四本の尾が頭上で一つに合わさる。光が強くなりイリイスの頭上に注いだのと同時、その圧倒的なまでの強度・速度で上空に向かって真っ直ぐに伸ばす。
黒楼芒波の四尾はどんな魔法だろうと傷一つ付けることは敵わない……はずだ。
だが、イリイスは初めて神経が断裂する痛みに苦悶する。最強の矛と盾を兼ね備えた尾は自身の神経に連結している。
その神経がまるで壊されていく感覚――ともすれば削れられているように苦鳴を漏らした。
「アアアァァァ!!」
拮抗ではない。その証拠を彼女は確かに見る。自分の足元は未だ足場があるものの彼女の周りには大口を開けた暗闇が広がっていた。
効果範囲内であるイリイスを除く全てが消失している。
(そうか! 物質、物体、有機、無機、全てを分解するか……!?)
始原へと還す魔法、それこそがアルスの使った全系統を複合することで起こる現象だ。全ては無に帰す。
こんな魔法はアルスにしか使えない、いや、正確にはアルスにも使えなかった。今の魔力量があってこそだ。
「…………」
イリイスは尾を引き戻した。半分近くが分解された尾は光を遮りながら彼女を包み込む。
漆黒の繭と化したイリイスは何もかもが過ぎ去るのをただじっと待った。
魔女システィさえ現れなければ間違いなく勝ったのは自分だったはず……いや、それすらも彼の力だ。
自分にはなかったものを彼は持っていただけの話なのだ。
(あぁ、そうか……きっと何もかもが違うんだな)
イリイスは殻に閉じ籠りながら諦念にも似た感慨にふけた。
全てが違う、生まれてから何もかもが決まっていた。岐路など用意されていなかったのだ。努力や他人の助けで変わるものではなかった。やはり自分は間違っていなかったと……崩壊する四尾の隙間から漏れ出る光に目を細める。
ピシッ!!
そんな崩壊の音は遥か頭上で鳴った。
光が止み、イリイスは未だ呼吸していることに何も感じず瞼を開ける。
最初から決まっていることだったのだ。イリイスが今の状況に堕ちるのもそう、生きていることもそう、何もかも運命付けられている。
だから努力もまた虚しいもので抗えないものは最初から抗うことに意味はない。
それがわかっただけでも収穫はある。
アルスは巨大な魔法陣を見てため息を溢す。
やはり不完全な魔法だ。いや、不完全こそが完全な状態なのかもしれない。
要はタイムリミットが存在するというだけのことだ。
そして崩れ去る四尾は原型を留めていない。まるで灰で作ったような尾はそよ風程度でも崩れ去ってしまうだろう。
僅かな隙間から内部の様子が視界に飛び込んでくる。
一瞬の驚愕は眼を細めることで理解した。
殺した、そう思っていたがイリイスは確かに生存している――いや、生き返った。
彼女は四尾の中で一瞬にして失った半身部分を水が補填し元通りになる。
しかし、その疲弊具合は見合った物があった。
四尾は存在そのものを崩壊させ、イリイスを露わにする。
彼女はドーナツ状に空いた地面の中心にぽつりと取り残されていた。
「やっぱり普通じゃない」
アルスは項垂れるようにだらりと頭を下げるイリイスに発した。
何にしても結果的に最良だ。目論見通りではあるが、確証などあるはずもない賭けであったのだから。
衆人環視の下で殺しをせずに済んだこともそうだが、やはり気掛かりは彼女自身のありようだ。生命としてあまりに不安定過ぎる。
兎も角、これで逃亡でもしてくれれば上々だろう。
話に聞く犯罪者としては理知的な面、未だ俗世への未練を感じる。アルスは戦いの中でふと思ったのだ。自分だけを狙ったのならばその他など居ても居なくても構わないはずだ。寧ろ邪魔をされないように一掃しておくべきなのだ。
それぐらいは造作もないはず、それが最も勝率を上げる。それに気付けない彼女ではない。
尾は灰のような屑を降らせた。一拍おいて身体を勢いよく起こすイリイスはそのまま反るようにして顔を上げた。
ゆっくりと戻される顔は両目を閉じている。
魔力的にはアルスのほうが残量も多く、まだ戦うことも可能だ。しかし、イリイスには再度同じ戦いができるほどの魔力は残っていなかった。
それでもアルスには不気味で仕方ない。
「アルス・レーギン、貴様は時代に恵まれたな」
「――!!」
アルスの背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。薄らと開けられたイリイスの瞳――その片目に刻まれた式を見たからだ。
(魔眼か……それも隻眼とはな)
「私の時にはなかったものだ。強過ぎる力だけならばどんなによかったか、これを潰したことすらあったか……」
アルスにしか見えない程微かに開いた瞳の中は蒼穹の如く澄んでいる。
イリイスは自身の眼を強調するように正常な方の目を閉じた。
「だが、意味がなかったよ。すぐに復元される、これは呪いなんだよ。この能力を欲しがるブタ共はあっさり私を切り捨てたさ……ハハッ」
嘲笑めいた笑いが寂しく口元を形作る。
虚無感を湛えた表情は一切の変化を許さない。黒く虚ろな顔とは裏腹にその瞳は何よりも綺麗だった。
「私は生まれてくる時代が悪かった」
「馬鹿か……」
「――!!」
「この国にしがみ付くからそうなる。他国に行けばいいだろ。順位なんて必要ない」
「詭弁だな。貴様も未だにその順位に就いている……そういう戦いだ」
アルスが1位であるがための戦い。観戦者を巻き込まない選択を取った。それは何よりも順位を重んじる者の行動。
しかし――。
「ふんっ、この国が手綱を放してくれるならばすぐにでも返上してやる」
これも結局は上辺だけの口上、方便でしかない。中身の伴わない言葉では相手を納得させることも自身の意志を伝えることすらできないだろう。
「だからガキは嫌いだ……努力だけでは変えられないことがある。覆らないことがあるんだよ。もう二十年生きてから言いな」
「上手くやれなかっただけのことだろ」
「貴様にはわからんだろうな、それだけの力を持っていればその順位も納得がいく。だが、お前と私とでは決定的に違う。最初からそこは私には眩し過ぎた理想郷だ。幻想は翼をもがれたことで覚めたよ」
イリイスは溜め込んだ鬱積を発露していた。わかっていても止めることなどできない。今、そこにいるのは自分でありたかったと。
羨望せずにはいられないのだ。まさかこれほど自分が欲していたとはイリイス自身意外だった。しかし、口に出して初めて確信する。彼を前にすると様々な感情が、妬みが堰を切ったように渦巻くのを感じた。どうしてこの呪いは自分でなければならなかったのかと恨んでも恨みきれない。
「もう何もかもが煩わしい……もうやめる。私には過ぎたことだ、考えるのも悩むのも全てが遅すぎた」
生気の感じられない顔でイリイスは左眼の魔眼を小さな手で塞いだ。
もう片方をゆっくりと開き、じっとアルスを見ている。視点の定まっていないような虚ろな眼だけが向けられた。
「映る写すは暗く昏く冥く黒く、底より深い深淵を以て移し出せ……【深淵深海】」
魔眼を開き遮っていた手をずらす。
今の彼女には黒く染まった拳ほどの水泡が至る所で浮遊している光景が広がっていた。魔眼を晒し、魔眼が見る泡沫の幻想と正常な眼で見る現実がリンクする。
誰も気付けない、それがいつからあったのか。
気付いた時には浮いていた。
アルスはどんな魔法でも微動だにしない、動揺しない。それが魔法であることがわかればそれでよかったのだ。
いつ発現したのか、最初からあったかのように意識の隙間に入り込んでくる。
周囲をたゆたう水泡……それに気付いた直後訓練場内に薄暗い闇が広がった。
「じゃあな小僧」
深淵深海は深海の水圧を現実に投射する。この呪いによって生み出せる魔法。
呼吸する生き物ならば魔法の行使と同時に水圧によって圧壊する。肺や内臓が潰れ、骨が砕ける。
禁忌に指定されて然るべき魔法はイリイスが呪いを受け入れ、授かったもの……皮肉にも彼女の怒りを露わすかのように原型を留めることすらできずに即死させる。
人間を殺すために与えられたように彼女には感じた。まさに呪いを肯定しているかのようだった。
(これでいい……これで今まで通りだ)
闇に呑み込まれたアルスを見てイリイスは歪な笑みを浮かべていた。嬉しいわけではない、勝ったことに歓喜したのでもない、ただなんとなくこれで正解だと自分を言い聞かせるために微笑んでいたのだ。
魔法が解かれればそこには人の形すら成していない死体があるだけ、騒ぎが大きくなる前に離れるべく彼女はフードに手をかける。
「俺とお前の違いは一つだ……」
「――!!」
まるでカーテンを開けるようにアルスは片手で闇を纏いながら払った。
あり得ない光景に一歩後退り、断崖に追い詰められていたことを思い出す。下がる場所など最初からなかった。だというのにイリイスは得体のしれない物を見ているように踵で縁を崩れさせる。
「馬鹿なっ!! なにを……」
それに応えるようにアルスは禍々しい魔力を放出した。それは一瞬――おそらくイリイスにしか気付けなかっただろう。
まるで黒い闇が押い遣られて色を取り戻してくような光景なのだから、彼女が魔法を解いたように映ったはずだ。
ふぅと一息吐くと、眼で示すように視線を交わらせる。
(深淵深海が喰われただと……)
「俺とお前の違いは単純だ。お前は上手くやれなかっただけだ!」
愚直なまでに真っ直ぐ射抜く力強い眼に心臓が跳ねる。言葉の意味をイリイスは理解していた。彼もまた自分と同じ忌避されるべき異能を持っているのだから。
彼女の心はもう反論するだけの材料を捨てている。
きっと何かは少しずつ違うのだろう。それでも決定的な違いはない。自分の行動如何ではイリイスには別の道が用意されていたはずだった。
それをアルスは示した。
選び取ったのは自分だ。そうならないように動けなかったのは自分なのだ。
「クククッ、ハッハッハッハ……あ~あ、とんだ道化だ。私は一体何をしていたんだろうな。そうかそうか、間違っていたのか……」
何が琴線に触れたのかイリイスは片手を広げ顔を覆ってケラケラと笑う。
彼女が笑う理由、笑ってしまいたい理由をなんとなくアルスは憐れみを込めて察する。戦い、言葉をかわしてきっと、そんな気がしたのだ……彼女はアルファを好き過ぎたのだと、愛し過ぎたのだ、と。
指の隙間――正常な眼――から彼女の怒りに彩られた何十年もの後悔が雫となって伝う。
一頻り笑うとイリイスは大きく呼吸を繰り返す。小さな肩が肺に新しい空気を送り込んだ。
はぁー、と最後に満足気な吐息を溢してイリイスはフードをさらに目深に被り直す。