色付く空間~恋味~
アルスが警備という仕事に戻るのはもう少し先のことになりそうだった。
本校舎前の出店は主に生徒たちが出す食べ物関係が多い。だが、何も本校舎前だけに限った話ではなく、隣にある講堂棟に向けた道にも似たような出店があるのだ。
こちらは実際に地域の人たちが出すプロの手製ということになる。その分値も張るのだが、学園祭という場での値が張るというのは比較した結果だ。
そのため人気どころで言えばたこ焼き、続いて薄く焼いた生地で野菜や肉をスライスした物を包んだ手軽な料理がある。昔からあるケバブという伝統料理に近しい印象があるが使っている肉は様々で好みによる。
そういう意味では串焼きも多い。
デザートとなると一口サイズのケーキセット。
持ち運びできるプリンも人気が高い。こちらは生徒の豊富なバリエーションに対してプロの至高の逸品でしのぎを削っていた。
クリームやフルーツをふんだんに使ったドーナッツもまた女性をターゲットにしている。
それにこんな時期でもアイスやそれに類する物の人気は高い。というのも学園祭が行われる時期に限って気温が2・3度高い設定になるからだ。
これから冬という時期に春のような陽気なのだから季節感が狂うというものだろう。
だから一年生の中で温かい汁物や野菜を煮込んだ料理は客付きが悪いように見受けられる。
「では行きましょうか」
嬉しそうなフェリネラはアルスの返答を待たずに手を引く。
「時間もあまりないですし、まずは何かを食べて英気を養っていただくとしましょう」
「…………」
生返事すら許されない状況にアルスは諦めを以て苦笑で応えた。
以前にもフェリネラからアプローチを掛けるという宣戦布告を受けているのだ。その一環であるのであれば言葉の通り要塞を以て迎え討つべきなのだろう。
なんて少々大袈裟な事を考えてみる。アルスが浮かべた苦笑の裏には要塞は要塞でも城門を開け放った……謂わば要塞としての体を成さないぐらいには無防備で臨むというものだ。
これはそういうお誘いなのだろうと。
手を引かれてはいるが、フェリネラにそこまでの積極性がないのが少し湿った手から伝わってくる。
表面では楚々とした女性を装っているが内心ではバクバクと心臓の高鳴りに羞恥していた。しかし、そんなことは些細なことだったのだろう。
一件目を見つけた時に全てが吹き飛んでしまっていた。
「すみません、二つ頂けますか」
そう満面の笑みで一年生だろう生徒のやっている蕎麦屋で注文する。
ここの店は蕎麦屋の息子がやっているということで密かに人気が高い。そんなことをアルスが知るはずもなく一歩引いてやり取りを見ていた。
「せ、先輩!!!! ソカレント先輩! ふ、ふ、ふひゃ、二つ、ですね」
運悪くというべきなのだろうか。
店主は男子生徒である。
直視できない視線は下の方へ落ちて行き、女性の特徴的な一点で止まる。そして耳まで紅潮させると首がもげそうな勢いで「失礼しました」と大声を上げて真横に振る。
そんな茶番にフェリネラは申し訳なさそうに。
「ごめんなさい。あまり時間がないの……」
そう一言あれば男子生徒は鉄板の上で焼かれる麺を急いで炒め出す。
男子生徒の隣にはすでに出来上がっている物がパックに包まれているが温かい物を提供したいというささやかな男心を察せないフェリネラではない。
微笑を浮かべながらアルスへと振り向く。
「ここはアンケートでも人気が高いからきっとおいしいですよ」
「へ~」
というのは在り来たりなメニューだからだ。
しかし、同じような屋台はいくつかあるのだから、その中でも人気があるというのは期待できるのかもしれない。
これはアルスの感想ではない。本人からしてみればある程度の栄養が取れ、尚且つ空腹を解消できるのであれば美味い不味いは然したる問題ではないのだ。
ただ、最近はロキの手料理に舌鼓を打っている所為か舌が肥えているような気がするのだが。
なんと言えばいいのか、フェリネラが来ただけでこの有様、まさに国の重鎮が来たかのような違いだ。
周りのひそひそと聞えよがしな声が雑然とさせているのは事実だろう。
きっとこの店は更に客が増えるかもしれない。と、こんなことを考えても聞き逃せない頭痛の種がチクリと背中に突き刺さる。
「確か一年生よね。大会に出ていた」
「なんで先輩と一緒に」
なんて声が聞こえ、学院におけるスキャンダルになるのは時間の問題だろう。
すると二つの容器を持ち蕎麦を盛ろうとしていた男子生徒が一言。
「あ、あの先輩。もしかしてもう一つというのはそっちの……」
「えぇ、もちろん」
春の陽気を思わせる笑顔。
いや、確かにこの場には春がやってきていた――不吉な影を滲ませながら。
「そ、そうですか……フフッ……そうですか」
一つを綺麗に盛り付けた。それは全精力を注いだと思わせる出来栄えだ。
しかし、もう一つを盛り付ける際、フェリネラの視線がアルスに向いたホントに一瞬の隙。
乱雑にぶち込み、怒りと恨みの分だけ香辛料を振った。
それを黙認しているのはこの場にいる男女関係なく全員の総意だからだ。
フェリネラの背後で行われる悲惨な事態をアルスは甘んじて受け入れなければいけないのだろう、と見ないように視線を逸らした。
フェリネラはライセンスカードを支払機に翳す。
男子生徒は本当に申し訳なさそうな顔で「ありがとうござます」と深々と頭下げるのだった。
持ち上げられた顔は仇でも見るようにアルスを睨みつける。
こんなことはアルスにとって日常茶飯事だ。
言葉は悪いが日頃から1年生の美女3人を侍らせているのだから、もう避けられない物だと諦めている。元々気にするような性格ではないのだが。
だが、事フェリネラに関しては一層と言わざるを得ない。それだけ人望厚いということなのだろうが。
「ぎゃああああぁぁぁ!!!」
遠くでこんな血を吐き出したような奇声を上げる信者までいるのだ。
「何かしら」
そう声のする方を振り返るフェリネラにアルスは。
「気にしない方がいい」
「そ、そうですか。じゃ、じゃあどこで召し上がりましょうか」
そう言って視線を振っても生徒に囲まれている状況では何も見つからないだろう。
妬み嫉みの声に混じり、凄まじい歯軋りの合唱。
「あら!?」
今更ながらに気付き、あっけらかんと頬が引き攣りそうになるフェリネラ。
「この時間だと講堂も方も人が多いだろうな」
「しょうがありませんね。少しはしたないですが、この場合はしょうがありませんね。ありませんともね」
おかしなことを口走るフェリネラの目は泳いでいるようにも見えた。
そして彼女の示す場所へと移動する。
そこは丁度出店の真裏ということになるのだろう。
この辺……正しくは舗装されている道以外は芝になっているためフェリネラがはしたないと言ったのは地面に直接腰を降ろすことに対してだ。
ただ、本当にそう思っているかは怪しい。
無論ここまで来るのに野次馬共を撒いたのは言うまでもない。
その際にアルスがフェリネラの手を引くという追撃を加えることになったのは不可抗力だ。この場所を見つけたのはたまたまなのだろう。
先導するアルスの手を逆に引いたフェリネラが誘導した場所なのだ。
こんな季節でも青々と芝になっているのは人工的に作った芝で年中このままであるからだ。成長することがなく酸素と地面から補給する養分だけを吸収している。
フェリネラはポケットからハンカチを取り出して敷く。
「どうぞアルスさん」
なんでこんな嬉しそうなんだ、という疑問はこの際無視するとしても。
「俺が座ったらフェリの場所がないじゃないか。俺は地べたでも気にしないからフェリが使ってくれ」
「そうは行きません。アルスさんを一人座らせるなんて私が納得できません」
平静を崩さず断固として拒否するフェリネラにアルスは。
(こういう奴だったな)
と思っても評価が下がるわけではない。きっとアルスが感じたことは美徳の二文字だ。
「じゃ、じゃあ二人で使いませんか?」
俯き気味提案するフェリネラにアルスは平行線だなと頷いてハンカチの面積を見る。
(これに二人は狭過ぎないか)
この感想を口に出すのは野暮なのだろう。
どうなっても知らん、と先に腰を降ろすアルス。
続いて半分以上開いているスペースにフェリネラが喜色を浮かべる。
スカートを綺麗に巻き込み座る――両足は横に流して。
肩と肩がぶつかるなんて距離じゃない。
もう半分が完全にくっ付いているような距離だ。食べづらくてしょうがない。
買ってきた料理に手を付けられるような雰囲気ではない。トクンッと鼓動すら聞こえてきそうだ。
「じゃ、ありがたく頂くよ」
口火を切ったアルスはぎこちなく開封する手を一瞬止める。
「は、はい! どうぞ召し上がってください」
そう先に促すフェリネラだが。
アルスは真っ赤に染まった麺を悩ましげに見つめる。これが男として問われる場面であることを本能的に察し、意を決して開封した。
むせ返りそうな瘴気に必死で笑みを作る。
心なし箸を持つ手が震えていたのではないだろうか。
フェリネラはアルスの感想を待っているのだろう。一向に食べようとしなかった。
ならば選択肢は残されてはいまい。
辛い物は嫌いではないが何事にも限度というものがある。そもそもこの料理に辛味なんて使わないはずだ。あの場に香辛料自体あるのがおかしい。などと今更ながらに恨む。
もちろん汁物ではないので溢すということはないのだが、麺に付着した香辛料はしっかりとしがみ付いている。
そして一口。
「…………!」
もちろんこの後に続く言葉が「美味い」なんてことはありえない。
口の中で元気に暴れ回る辛味が言葉を喪失させていく。
やっとのことで呑み込んだアルスに。
「どうでしょうか」と期待に胸を膨らませて問うフェリネラ。
「あぁ、調べただけあって凄く美味しい……」
苦行であろうとアルスに不味いという言葉の選択はない。というか味なんてわからない。
そして開門していた要塞は別の意味で粉砕された。
「よかったです。私もこの手の料理は初めて食べますのですっごく楽しみにしていたんです」
そう言って食べ始めるフェリネラ。
柔らかい唇に近づけ、啜らずに適度に歯で切っていく。
そして箸を置き、手で口元を覆いながら「ホント! 凄く美味しいですね」とどこかホッとしたように頬を染める。
そしてアルスの戦いは一層苛烈さを増したのだった。
完食という義務が発生したためだ。もう呑み込むしかないのは自明の理。
確かにお腹を満たすという意味では食べ物である以上役目だけは果たしたのだろう。
しかし、こんな戦いがあるなんて、と今も尾を引く苦難に疲弊を隠しきれない。
なんとか完食したものの二度とご免蒙りたいという率直に願う。
空いた容器をフェリネラが横に纏め、やっと戻れると思ったのも束の間。
「こういうのも買って来たのですが」
と空いた容器を置いた手には別の物が乗っかっている。
こちらもメジャーな食べ物で主にデザートとして好まれていると知識の上ではアルスも知っていた。
小さく切り分けた一口サイズの果物に別に用意されているシロップやクリーム、常温に保たれているチョコレートに付けて食べる。フォンデュと呼ばれる料理の簡易版といったところだろう。
菓子楊枝が1本。
それにワザとらしく気付いたフェリネラは。
「あら、一つしかありませんね」
片言のように発せられた言葉にアルスは訝しみを込めて気付かれない程度のため息を吐きだした。
これが本番ということなのだろう。
転ばぬ先の杖としてはアルスが用意できる経験は乏しかった。
特別甘い物が嫌いというわけではなかったが、それを考慮してくれたのかは判断しかねる。
どの道アルスに逃げ場はなかった。
「どうぞ」
片手を受け皿とするのに作法として抵抗を見せたもののどうやら打ち勝ったようだ。
「いや、一つしかないなら俺に遠慮せずフェリが食べてくれていいん……だ、けど」
馬耳東風とばかりに崩されない微笑。
そしてゆっくりと近づいてくる果物。
ここで意地を張るほど不毛なこともないだろう。アルスは口を開いて待ち構えた。
意外にも美味しいと感じてしまうのだから、やり切れない。
一方のフェリネラは恍惚とした表情で余韻に浸る。
「フェリ、そろそろ……」
時間的な余裕はあるがこの場から逃れるために口走った言葉は途中で遮られ。
「失礼しました。もう一つですね」
そう言って今度はチョコレートをたっぷりとつける。
今にも垂れてしまいそうな状況に「早くお口を開けてください」と言わんばかりに急かす笑み。この時の表情は蠱惑的というには無邪気さがあった。
それ故に断る言葉を挟むのが躊躇われるのだが。
案の定アルスの口元に付いたチョコ。
果たして狙ってのことだったかは定かではない。しかし、この時フェリネラの表情が明らかに豹変したのは事実だ。
「口元につ、付いてしまいましたね」
嬉しそうに言うフェリネラにアルスは少しだけ冷めた目で見返していた。誰もが羨む光景に残念ながら軍育ちのアルスでは付いていけなかったようだ。
それでも内心では。
(楽しそうだな)
なんてことを思っていたり。
こんなお決まりのシーンはさすがのアルスでも知っている、というか人伝に惚気話を聞かされた時に聞いただけだが。
それを先回りして。
手で拭おうとするが――がっしりと腕を掴まれる。
そして強制的に降ろされていく腕。その間フェリネラの表情は微動だにしない。
「意外にだらしないところもあるんですね」
可笑しそうにクスッと笑い。何もなかったかものとして再開される。
「しょうがないですね」
アルスはこの後の展開を予想しながら「わ、悪い」と諦めを以て任せることにした。
そして手を付いて近づくフェリネラの荒くなった息遣いが聞こえてくる。こうして間近で改めて見ると肌理の細かい端正な顔立ちをしている。大人びて見える時もあれば子供っぽさも兼ね備えている。
相変わらずの美人だ、と改めて思うのだった。同時にあのヴィザイストからこんな娘が生まれてくるのだから不思議だとも思う。
決して本人の前では言えないが、母親に似たのだろう。
残念ながら見形でヴィザイストに似ている所は1%も見当たらない。だが、戦いの場で見せる慎重な戦略と時折見せる豪胆さはやはり父親の血なのだろう。
「はい、取れました」
合図にアルスは予想に反していたことを覚った。
フェリネラの手にはもう一つハンカチが握られている。それで拭き取ってくれたのだろう。
だが、何かが違うと感じたのは誰もが思うことだったはずだ。
アルス自身はそれほど気にした様子もない。それもそうだろう。これが普通なのだ。
果たしてフェリネラが直に指の腹で拭い口に持っていくという行為はハードルが高すぎたのか、それとも世間一般で言われる恋人同士のやり取りという定番に対する知識が不足していたのか、はたまた貴族としての礼儀作法としての許容を超えていたのだろうかは彼女のみぞ知るところだ。
どちらにせよ二人に気付けたかは甚だ疑わしい。
が、結果的にはアルスの「もう一枚ハンカチ持ってたのかよ」という叫びは虚空に消えていく。というより声にすら出していないのだから消えるも何もないのだが。