過去編~白狼Ⅴ~
特隊0の隊員が本部を離れてクレビディートの排他的領地内に踏み入ったのは4時間後のことだった。時刻は招集時が早朝だったことを考えれば昼といった辺りだった。
これほど早く着いたのはアルファからの最短ルートを他の隊が作ってくれたからに違いない。裏でべリックが各隊への魔物討伐任務が発せられたのは想像に難くない。
道中、ニケが魔物を知らせるために吠えたのは一度きりで、距離的にも離れていたため遭遇せずに目的地に着くことができた。
アラクネを発見したのはそれからほどなくしてのことだ。クレビディートは領土拡大にアルファほど積極的ではなく、この辺りはまで原生林に近い。すでにアルファの外界100km圏内では戦闘の痕跡がないところは少ないだろう。
アラクネの外観は一重に言えば巨大な蜘蛛の胴体部に本体と思われる人間の形をした物が乗っかっている。これは捕食した魔法師の見形を真似していると思われるがどれも女性的な特徴を残している。ただそれはのっぺりとした人形のようであってシルエットに限った話だ。
体長は優に10m近い。全身が罅割れたような黒い外殻で覆われており、蜘蛛に見られる腹の部分が異常に萎んで見えた。本来ならば凶悪な魔物として知られるアラクネは瀕死のように思われた。足は回復できないほどに傷だらけであり、途中から断たれている物も少なくはない。上体部にある本体は頭から直接繋がっているような長髪を全面に垂らしながら俯いていた。
満足に立つことも出来ないのかアルスたちが姿を現すまでピクリとも動かなかった。
木陰で様子を窺っていた隊員は事前に決めていた通り、エリーナを先頭にアルスとのツーマンセルで討伐に掛かる。残りの隊員は四方に潜み中距離から補佐する役目だ。
当然リンデルフはニケと一緒に背後で待機し、全員が付けているコンセンサーで逐次指示を出している。
余談だが、アルスの使用しているAWRは軍支給の短剣である。無論、支給品の中では最上級にあたり二桁魔法師にのみ支給される装備品だ。ただそれでも彼が使うには物足りないことは誰もが知っている。
アルスは入隊以降、AWRを新調した回数は20を超える。
しかし、終わってみればほとんど抵抗なく討伐することができてしまった。エリーナの爆発じみた一撃で沈めるとアルスが最上位級魔法で一瞬で屠ったのだ。終わってみればアラクネで最も警戒すべき鋼のような強度の糸は一度もお目に掛かることがなかった。
粘度の高い糸は一度触れれば寸断するのは難しく、直接受ければ身体を容易く貫通するという不思議な性質を持っているこれは横からの衝撃を緩和して直線では針のように突き刺すとしてアラクネ遭遇時の最警戒に当たる攻撃だった。
アルスの魔法によって魔核ごと粉砕されたアラクネは本体にある眼窩の紅点が静かに消え入り、巨体を崩れさせていった。
「どういうことでしょうか、リンデルフさん」
エリーナはあまりにも不思議な光景に納得がいかずに問い掛けた。身体には、いや、服にも汚れが付いていない。
「う~ん。Aレートにしては不自然に弱い。それに身体に無数の傷が見て取れたしな」
エリーナへの返答は思案するためのきっかけを作った。単純に討伐に成功したと言って喜ぶにしては合点がいかないのだ。
すると身体の6割をほどを塵と変えたアラクネを見て徐に隊員が集まってくる。
「リンデルフ、もしかするとクレビディートの隊が交戦したのかもしれないぞ」
「あるいはモルウェールド中将の隊が追い詰めていたのかもな」
二人の推測をリンデルフは顎を擦りながら「それはない」と否定した。
「何故ですリンデルフさん?」
エリーナも同じことを考えたのか否定される理由がわからなかった。
隊員が薄ら寒い予感を払拭するために口を開いている間、アルスはただ散りゆくアラクネだけを見ていた。魔物とは言え、生物としての本能は宿している。だから自分の命が絶たれるとなれば死ぬ物狂いで抗うものだ。無論経験から得た知識だが。
学説的には魔物は生物として定義されていない。というのも行動原理は生命維持のための捕食ではないのも一つだ。後天的な物で自己増殖など遺伝子を独自で書き換えていくため、原始生命体を辿ることができない。無論、定義は難しいため、一概に否定はできないが、人類にとっての天敵に対して同列視することができないということもあるのかもしれない。
リンデルフは二人の推測の理由を提示した。
「Aレート級の魔物を相手にモルウェールド中将の部隊では不足だということだ」
エリーナは魔物を取り逃がした部隊名簿の記憶を遡り「あっ」と声を上げた。
「俺も確認したが、まともに交戦していたら全滅していたんじゃないか? それを逃がしたと言ったのは見栄からだと思ったが、本当に逃がしたのだろうな」
「つまりは、善戦していたということですか?」
行き着いた解答にリンデルフは肯定のために頷く。それは更に踏み込んだ思考が苦々しい懸念を含ませた表情を作っている。
「確かに追い詰めていたが、クレビディート内に逃げられたのならばすぐには手が出ないだろう。もしくは本当に見失ったか。ここまでの道中からも魔物に襲われたというのも考えづらいな」
ニケがいるのだから脅威的な魔物がいたとは考えられない。高レートでなくとも共食いならばどちらかが食われる可能性が高いが、残骸も争った痕跡もない。
もう一方の推測も否定する。
「じゃあ、クレビディートの隊と遭遇したのか。これも難しいだろうな。日常的な任務でクレビディートがこんな遠方まで来るとは考えづらいし、外界への領土奪還作戦ならば隣国であるアルファが知り得ないというのはおかしい。少し嫌な予感がするな」
リンデルフはこういう時に意見を聞くべき人物が話に参加していないことに視線を上げた。元々参加するような性格ではないが、孤立せずに周囲を警戒しているのがアルスの立ち位置だ。
そしてリンデルフは子供ながら大人顔負けに造詣が深く、意見を求めることも多々あった。
そのアルスが未だ討伐した魔物を呆然と見下ろしていたことに隊員を割るように歩み寄る。すでにアラクネの身体はなく黒粉だけが積もっていた。
「どうしたアルス」
「何か変なものでも見つけましたかアルス君?」
リンデルフの視線の動きで逸早くアルスがいないことに気付いたエリーナは小走りに駆け寄って肩をポンポンと叩く。
「いえ、魔物の傷……あれは魔法による攻撃ではないですよ」
「「――――!!!」」
「喰い千切られたような痕が至るところにありました。ただどれも浅い傷で小さい。本来あれほど外殻が硬ければ魔物同士でも低レートに食い千切られるということはないと思います。回復できないほどとなると……」
アルスが観察した結果を疑う隊員はいない。というのも彼が隊員の中で魔物や魔法、そういった学術に長けており、堂に入っていることを既知としているからだ。
「待って下さい。アルス君それでは魔法師によって負傷したことにはなりませんよね」
「そうなります。善戦していたとは言えないですね。離れて遠隔攻撃でもしたんでしょう。だから逃げられたのでは?」
その直後だった。
「「「――――――!!!!」」」
隊から少し離れ、巨木の盛り上がった根の上でニケが頭を上空に向けて高々と吠えたのだ。
それは訓練では教えていない遠吠えであった。
「なんだ!」
リンデルフの声は全員の視線をアルスに注がせた。訓練にない合図ならば、最も時間を共有している彼に訊くのが自然の流れだ。
しかし、
「僕も聞いたことのない吠え方です。でも、恐らく警戒レベルは最大だと思われますが」
「……! 方角は」
「アルファですか!!!」
リンデルフが危険を察知したように問うが、逸早くエリーナが驚愕の表情で示した。アルスも頷き同意する。
「すぐに戻ろう」
リンデルフは隊をアルファに指針を移して行動を再開した。その前にアルスへと近づいて腰を折って隊員に聞かれないように訊ねる。
「アルス、以前に俺が見ていた過去の魔物に関する資料で興味深いものがあったんだが……魔物が繁殖するというのは本当か!?」
アルスは視線だけを真横に動かした。それはリンデルフが何を懸念しているのかを察したからだ。
「事実のようです。ただ種族が明確に定まっているものにある特異な現象です。実例が少ないので確証はありませんが、昆虫類のような原型が定まった魔物に見られたようです。リンデルフさんもそれを見たのではないですか?」
「あ、あぁ……」
「アラクネとは言え、蜘蛛ですからね。完全に否定することはできませんが、状況を見る限りでは可能性はあります。子供を産んだためにエネルギー、いえ、この場合は魔力を使い果たしたと考えられますから。外殻も魔力の良導体と考えれば出産時に柔らかくなるというのは理に適ってます」
「だとすると、あの傷は小蜘蛛に付けられたということになる」
「小蜘蛛ですか……」
「なんだ」
「いえ、魔物は子孫を残せませんから、この場合は魔力を分け与えた半身と言うべきなのでしょう」
先を急ごうとする隊員の訝しげな視線にリンデルフは走りながらにしようと言って最後尾に着く。
その際、アルスは不安げなエリーナの表情を見た気がしたが、何も言わずに先導したため特に気に掛けることはしなかった。
ニケは外界でエリーナの、先頭のすぐ後ろに控えている。これは移動時の定位置だ。
特隊0はその後、風を切るようにしてアルファへと向かった。
道中の会話ではアルスの補足がいくつか付け加えられる程度だったが、リンデルフはそれを黙って、黙々と考えるようにして聞いていた。
時間にして1時間程でアルファの40km圏内に侵入することができたが、そこに広がる光景は目を疑う悲惨な物だった。
遥か遠方で空を真っ赤に染めている。眩いほどの魔力残滓が大気を歪めていた。
防衛ラインよりも10km以上で応戦しているが明らかに不穏な外界の光景に、終始ニケは唸り続けている。
隊が走る真横からチラチラと見える節足類独特のカサカサとした音が地面を叩きつけるように鳴り響き、リンデルフの指示によってアルスとエリーナが即時殲滅する。
だが、その魔物の残骸を視界に収めたときリンデルフは顔を引き攣らせた。
「これは……」
「間違いなさそうですね」
アラクネに似た外骨格、サイズはかなり小さめで人間程度だったがこの魔物は蜘蛛型【アラニア】としてしられている。しかし、今回でアラクネの半身体である可能性は高まった。
つまるところ、アラクネとはアラニアの成熟体と考えるのが妥当だろう。サイズからしてレートはCと言ったところだろう。
瞬殺したアルスとエリーナの足元には4体の魔物の残骸が転がっている。
直後、リンデルフは状況を把握するためにコンセンサーを指で押し当てたが。
「ダメだ。かなり錯綜している。さらに近づいても連絡は取れなさそうだ」
「どうしますかリンデルフさん。この隊の指揮はあなたに一任されています」
エリーナの言に隊員も頷く。確かに魔法師としてのリンデルフは不甲斐ないが指揮官としての力量は隊の誰よりも傑出している。それにこういった危機的状況ほど選択を間違えないことも僅かな付き合いで感じ取っていた。
リンデルフは後頭部を掻きながら参ったなと溢すが、その表情には気後れした様子は微塵もない。
本来ならば任務に関係のないことに首を突っ込むのは避けたいところだ。しかし、仮に防衛ラインまでを攻め込まれているとするならば、加わらないわけにはいかない。
今だ脅威レベルが把握できないため判断しかねた。
リンデルフは口を引き結んでいたが、ふいにエリーナの鋭い視線を受けて軽く目を伏せてわかっていると言外に応えた。
(火中の栗を拾うことで功績を立てることもできるが……)
ヴィザイストに出立直前に頼まれた言葉を思い出し。
(俺らが今もっとも優先すべきはアルスだ……だがそれでいいのか。守られるような玉じゃないし、何よりも守るべきアルファが無くなる事態だった場合は最悪だ)
そう考えながら、同時に様子見のために近づいてみるというのも論外だと却下する。そんな甘い考えでは容易に足元を掬われる。
(きっとエリーナは干渉せずに待機、もしくは迂回して……なんて考えているんだろうな)
今回の任務を考えれば十分な働きだが、ここで参戦しなければ臆病風に吹かれたなどといらない確執が生まれし、追及は免れないだろう。
リンデルフはアルスがいるならばという期待もあり、博打のはずがいつの間にか博打にすらならないではないかとさえ考えるようになっていた。それは緊迫状態における思考の麻痺とも受け取れる。
正直、どっちに転ぼうとも良くも悪くもない。最悪の事態においてアルスが生きているだけで最悪とはなり得ないのだから。
「よし、俺らは迂回し……」と口を開きかけた直後。
「リンデルフさん。早く行かないとかなりの死傷者が出ますよ」
そう当たり前のように口から発するアルスの表情は何も映していない。本当に心配しているのかわからない顔だった。
しかし、リンデルフは呆然と胸の内に入って来た言葉を噛み締めた。そう、アルスは心配などしていないのかもしれない。でも、それが当然であり魔法師の意義を見失っていたリンデルフには痛烈な衝撃を与えた。
「はははっ! だな、急ごう!」
仲間を助けることになんの躊躇があるのだろうかとリンデルフは真逆の解答を紡いだ。アルスの将来を考えるならばここで引くなどという選択はしないほうが良いのだろう。
「リンデルフさんっ!!!」
エリーナの叱責まがいの怒声をリンデルフは飄々と受け止める。
他の隊員は口を開こうとせず指示を待っている状況だ。
「まぁ、そういきり立つなエリーナ。どっちの選択をしたって先はわからない。だったら魔法師らしく行こうじゃないか。俺らは魔物をぶっ倒して何ぼだろ? 国の一大事だったらとかは考えなくていい。今魔物と戦っている魔法師がいるなら加勢しないでどうする」
「でも、それじゃ隊長の」
「一任されているのは俺だ。命令違反でもするのかエリーナ。それはそれで構わないけどな、お前の言いたいこともわかる」
エリーナは嘆息しながらアルスを見た。無表情で子供らしからない希薄さ、それは危機感に対する危ぶみだ。
彼女にもわかっているのだ。
自分の役割はアルスを束縛することではない。擁護することではないのだ。だから行動の指針を狭める行為はエリーナの身勝手な我儘だった。
脅威に晒されたのならば守ればいい、それだけがエリーナに課せられた役目。
「わかりました。でも、アルス君はそれでいいんですか?」
「ヴィザイスト隊長も仰っていましたが、わからないことはやってみれば良いと。ですので一先ず後方から一掃してみるのが良いかと思ったのですが」
「そ、そうですか……そうですね。正しい選択なんてわからないですからね。正しい選択に変えるのは自身であると私も思いますよアルス君」
無理に笑んだ表情でエリーナは精一杯に言葉を紡ぎ出す。そこまでしなければならないのは結局は詭弁だとわかっているからだ。
それでもアルスの主張を尊重すべきだと判断したからで、彼ならば本当に変えることを可能にするかもしれないと思ったからだ。
「よし! 決まった所でさっさと行きますか」
逸る気持ちを急かすように言うリンデルフは周囲を見回している。ニケがいるのだから目視できる距離に魔物がいないことはわかっているのだが。