静寂の密度
アルスとロキが運び込まれて2週間が経つ。正確には13日と15時間ほどだろう。
現在バルメス本部は各国の魔法師に本来の機能を取り戻すまでの間、その役割を代わりに担ってもらっていた。脅威が去ったことで一先ずシングル魔法師と各国代表の高官は連れてきた魔法師を残して自国へと帰還している。
それも自国をおろそかにしていては万が一の時に目も当てられないからだ。
各国総督と元首による対策会議が早期開かれ、定期的にも行われる予定である。早急に決まったことと言えば、バルメスの防衛をどうするかということだ。これはただでさえ防衛能力が低いバルメスの高位魔法師がほとんど殉職したことにある。
全員一致で各国から魔法師を派遣するという方向で即座に動き出したのは、少なからず元首らの結論が同じだったからだろう。
派兵の中にはシングル魔法師は含まれておらず、代わりに一定の水準を保つため二桁魔法師を数名組み込むことで合意。当分の間は防衛に徹することになった。
元首であるホルタルは元首の退陣と血族の次代元首継承権の破棄。裁定は各国の元首によって決まった。総督ガガリードは軍事裁判に掛けられるが、アルファの根回しにより実刑は免れるだろう。復帰まではできないが辺境で余生を過ごすには十分だ。
元首の後釜には旧ローム国の王族が移住しているので、その辺りが候補に挙がっている。総督には7カ国魔法親善大会時の招集にバルメス側で見えていた女老将で決まっている。本来総督は元首に決定権があるのだが、今回は異例と言えた。元首を血縁から選ぶのは混乱を避けるためもある。今回はその元首任命に時間を要すると見られたからの措置だ。
バルメス本部にてその決定が発表されるのはすぐのことだった。
総督ニルヒネ・クォードル、軍役30年になる彼女は50代も半ばに差し掛かっている。軍内部での人望が厚く、穏健派として呼び声が高い。身分も由緒正しい貴族である。総督に彼女でなくガガリードが選ばれたのは単純に野心がなかったからだ。
新体制が確立するまでは各国の軍が常駐することになる。
今、バルメス本部に残っているシングル魔法師はアルスただ一人だった。それは彼が未だ目を覚まさないことと、移動できない理由があってのこと。
聖女ネクソリスの指示により、アルスの膨大な魔力を安定化するための魔法式が彼女にしか刻めないためだ。無論、術者もいないため魔法が勝手に発動することはない。だが、事この魔法式に関しては違う、別種と言えるのかもしれない。
謂わば、トラップのように魔力さえあれば自動で作動する。
魔法と呼べるかはこの際無視するとして、空中の魔力濃度によって反応する魔法式である。魔法の効果は安定、室内の四方に設置された魔法式の内側の魔力を一定にするだけだ。が、これは治癒を行うに辺り非常に役立つらしい。
こういった事情があり、閑散とした一室には所々に魔法式が描かれており、その中心に置かれたベッドの上でアルスは安らかに寝ている。これが2週間続いていた。
いつ目覚めるかも分からない容体だが、身体自体には異常がないとのこと。
白を基調とした部屋は水差し一つとっても病室っぽい。薬の匂いがしないだけマシなのだろうか。
鬱々とした雰囲気がないのは魔法式が淡く光っているせいかもしれない。それを差し引いても質素ではあるが。
窓からは乾いた風が流れ、仕切りのカーテンを揺らす。仄かに鼻を抜けていく爽やかな匂いは見舞い品ともいうべき果実の香りだ。
ベッドの上で仰向けに目を瞑ったアルスの髪が匂いの付いた風に撫でられていた。
午前10時、アルスの日課である簡単な検査が終わった後のことだ。
無音でスライドしたドアは入室者の合図だった。しかし、ノックをするでもない入室は部屋内に誰もいないのを知っていたようでもある。
足音がないのは単純に彼女が魔力を動力にしている車椅子に乗っているからだだろう。彼女が目覚めてから毎日この時間帯に訪れている。特に何をするでもなく、傍にいるだけなのだが。
こと彼女に限ってはそれだけで十分過ぎたし、出来ることは少ない――普段ならばと付け加えておく。
銀の髪を揺らしながら静かな駆動音を鳴らし、ベッドの脇に着けると中腰になって腰を浮かせる。彼女、ロキが未だにバルメスに残っているのはパートナーというだけでなく完治していないと理由を付けているためだ。
無論、歩けるぐらいには治っているのだが、アルスの傍にいるためならば装うことは造作もない。完治していようがアルファへの帰還を強制されるようなことはないと思うが、そこは徹底したということだろう。
この後、昼と夕方に定期検査があるが簡単な検査で遅くまでいるため、半強制的に代わってもらっている。実際体温を測ったりするのだから、知識がなくても問題はないはずだ。
目を覚ました時はいの一番にアルスの心配をしたものだが、今は多少落ち付いている。近い内に目を覚ますだろうと言われているからだ。それでも心配になって毎日、日が暮れるまでを一緒に過ごしているわけなのだが。
「アルス様、早くお目覚めになっていただかなければ出席日数が足らなくなってしまいますよぉ」
なんて思ってもいないことを口にしてしまう。いろいろ試しているのだが反応がない。
そして……これはいつも、というべきなのだろう。少なくてもこの部屋に来た時から続いている。
ロキの目の色が変わった。
それは心配というには少しばかり如何わしい。
一応体裁的に小難しい本を携えているがこれはカモフラージュと言えた。
「アルスさま~……お、起きていませんね……いえいえ、起こすためには必要な処置です」
ロキは火照りつつある顔で免罪符を深々と穿つ。バクバクと心臓が高鳴るがこれはいつになっても収まることはない新鮮な音だ。
そうすでに日課になりつつあった。
「そ~っと」
手を布団の中に潜り込ませ、すぐにぶつかる感触。
それを撫でるように滑らせてから包む。アルスの手を握ったロキは引き結んだ唇を震わせた。
「こ、これは、れ、れっきとしたち、治療。ち、治療行為……で、すが、はぁ~あぁぁ」
手から伝わる生暖かい温もりをこれでもかというほど実感する。そして恐る恐るアルスの手を反転させて平を上に向かせる。
無論、布団の中だからこそできる情事。後ろ暗い感情は布のオブラートに包んでおく。
滑らかに這う小さな手がアルスの手に被さって指を絡める。
(こ、これはいけない!!)
蛇足だが、この胸中は毎日の繰り返しである。
指から伝わる生々しすぎる感触。
(これを世の恋人たちは平然と行っているなんて!! し、心臓が止まってしまいそう……でも、なんだろう)
何度やっても安心する心地よさがあるのだ。
アルスへと視線を向ければ一気に上気した湯気が頭から昇る。ボンッと音が鳴った気がしたが、目を覚ましていないことに嬉しいような嬉しくないような……とにもかくにもホッと胸を撫で下ろしたのは事実だ。
ロキは布団の上から内部を透視するように見る。焦ったというのに手はしっかりと繋がれたままだった。箍が外れてしまったのだろうか、少しだけ自責の念が押し寄せるが、そんなものはなんのその、今に始まったことではない。
強いて言うならば、ロキの奇行は日に日にエスカレートしている。というよりも溜め込んでいたものを発散するかのように……いや、何かを補給しているかのように。
日がな一日、アルスの病室で傍にいるだけだったが、手がベッドから滑り落ちたのが全ての始まりだった。下から掬い上げてふと気が付いた。
まだ自分と一つしか変わらないアルスの手は厚く堅かったのだ。それもそうだろう、たった一人で外界に出て功績を上げ続けてきたのだから。彼の苦労の証しとでも言えばいいのだろうか、ロキは嘆くのではなく労るように優しく包んで頬に添えた。
それが最初だったのだろう――邪な思考が過ったのは。
ロキは無表情で手を離す。そしてキョロキョロと誰もいない病室内を見渡すと、車椅子から降りて扉まで摺り足で寄る。
そして、そ~っと頭分開けると、顔を廊下に晒して左右を見渡す。誰もいないことを視認すると部屋内に取り付けられているパネルを操作した。
外側の患者名が書かれている液晶に【面会謝絶】の表記が浮かんだのを確認すると、また扉を閉める。
その際後ろ手にカチャリと音が鳴った。
本来ならば罪悪感を感じるかもしれないロキだが、アルスのためだと免罪符を打った今では容易く肯定されてしまっている。頬を染めて物音立てずにベッドの脇に立つと、一度深呼吸をする。
「…………!」
聞こえるかぐらいの寝息を立てているアルス。ロキは視線を首元へと降ろす。
(あ、汗!)
「か、身体が冷えてしまう!」
少しばかり美化された鎖骨を見て、視線を外せずにいると対処法としてある行動を思い付いた。彼女の中ではまさにそれしかないというほどの妙案。実はすでに何回か試みてはいるのだが。
片手をベッドに付き、体重を載せる。少し沈んだベッドはロキの心臓が跳ねたようだった。いや、動悸は激しくなる一方だろう。
掛け布団の擦れる音は今アルスの身体半分まで捲れている。
足を潜り込ませ、横になって添い寝の位置に着く。ベッドは一人用だったが、アルスの腕の下に収まるように入れば落ちるようなことはない。寧ろその狭さが、密着具合が良かったと言える。
人肌で温める行為に疑問を感じるどころか、さも当然であり誰からも文句を言われる筋合いはないとばかりに身体を密着させた。
無論、掛け布団はロキをスッポリ覆うように被せてある。真っ赤な顔を覚られないためのチンケなベールだ。
まだ、それぐらいならば面目は保てただろう。いや、手遅れかもしれなかったが、願望が入ったのはもう見つかった時の面目など考えていなかったからなのかもしれない。
ロキは頬をピッタリとくっつけていた。腕は胸板に置かれている状況だ。
そんな中で彼女はもぞもぞと動き始める。
掛け布団の上からふぅ~と顔を出して体温を下げるように息を吐いた後、ロキはアルスの腕を広げて頭に敷く。肘を操作するように折り、自分の首に回した。
「はぁわわわああぁぁぁ……」
もう死んでもいいとさえ思わせるほど恍惚な表情を浮かべて蕩ける。誰も入ってこないことを良いことに好き放題欲望を叶えるロキ。独壇場と言っても差し支えないのだろう。
蓋を開けた欲望は留まる所を知らない。
「ハッ!」
楽園へと踏み入ったロキは目の前でたわわに実る果実を見つけた、と言えるほどのシチュエーションを考え付いた。それはこの病室において当たり前の行為で、当然で正義だ。
聖人君子然とロキは白々しく口を開けた。
「うん。あ……あ、汗は……ふ……ふか、拭かなきゃいけない。うん」
誰が見てもおかしなところなんて一つもない。口に出したことで確信したロキはのそのそとベッドから降り立つ。
部屋の隅にある小さいキッチンでお湯を桶に入れる僅かな時間さえももどかしい。
そしてふと部屋内を見渡すといつも積み上げられているタオルが無くなっていることに気が付くいた。事件である。急かされるように部屋を飛び出したロキは足のことなど気にする余裕はなかった。一応患者として滞在していることはすでに思考から弾き出されてしまっているのだろう。
空気が漏れるようにスライド式のドアが閉まった直後――。
「参ったな……」
徐に目を開けたアルスは天井を見上げたまま嘆息した。
先ほど起きたばかりだ。当然ロキの奇行を一部始終見ていた。というより感覚で確認していた。状況を把握するために狸寝入りしていたのが裏目に出るとは予想外だ。
アルスは頬を引き攣らせながら窓の外を見る。奇行と言ってしまうのはさすがに辛辣だろう。そう、好意からの行為なのだから。
(そうだろうな……)
薄々気付いていたが、見ないふりをしていた気がする。アルスに命を委ねるとはそういうことなのだろうと。
ロキをそういうふうに見た事は一度もないのだから仕方がない。それでもここまでされれば鈍感ではいられない。朴念仁ではいられないのだろう。
もちろん、すぐに答えなどでない、どころか現状ならば答えは出ているのだ。アルスは異能の力が解明できるまでは首を縦に振ることはできない。
窓から外を見上げれば見慣れた太陽が生温かい陽射しを注がせている。変わりようなどないのだが、今は変わらない陽に安堵してしまうのだった。
「一先ず胸に留めておくか」
棚上げは逃避ではなく、保留だ。今は答えが出せないからの保留。もし、彼女の口から出た時のために記憶はしておく。
差し当たっては見なかったことにするが良いのだろう。
そうと決まれば。
アルスはゆっくりと身体を起こした。
丁度、ドアがスライドし――。
「ロ、ロキか、心配させた―――――っな!!」
アルスの顔を見るや、手に持った畳まれたタオルを落とし、勢い良く跳んでくる。
「アルス様――!!」
涙ぐんでベッドにダイブしてきたロキをアルスは優しく包んだ。言いたいことはあるが今は良いかと。
背後から回した腕を持ち上げて頭を撫でる。ゆっくりと一方向に動く手は穏やかだった。
こうして生きていられるのは隊がいればこそだろう。そして、ロキのおかげなのだろう。
「ありがとうロキ」
囁いた声色は清流のように吹き込む風に乗ってロキの中にスッと入って行った。
「はい!」