暮れに潜む傍観者
人類の存亡が掛かった戦闘が終わり、その爪痕が生々しくクレーターとして残っているこの地は鉱床付近に位置しており、現在全戦闘員を含め一人も……いや、一つも生命反応がない。
撤収作業が終わったのは数十分前の話だ。
陽はやっとのことで傾き始め、柑子色に変わろうとしている。
そして念入りに見計らったように姿を現し、クレーター内部を中心目掛けて揚々と歩を進める一人の姿があった。
長身から垂れ下がる綺麗な白髪は、風に靡く長髪であり女性であるかのようにサラサラと揺れている。
青と白のストライプが入ったロングコートを着込み、両手をコートのポケットに差し込んでいた。その身体付きは痩躯でありながら女性のようなしなやかさはない。だが、衣類の上からという少ない情報で唯一判断できるのは引き締まっているということだろう。決して痩せ細っているのではなく凝縮されたような身体付きだ。歩いているだけでもただならない雰囲気が濃い霧のように纏わりついている。
すぐにでも調査隊が訪れるかもしれない状況下で、それでも男の歩調が乱れることはない。
「イリイスは相変わらず慎重ですね。ハザンが暴走すると思ったが上手く手綱を引いたようだ。結果として助けられてしまったか……現1位を殺しておいてくれればと思っていましたが、予想以上に面倒そうだアルス・レーギン」
淡々と紡がれる声色は透き通る真摯さを感じさせる。聞く者によっては女性のような音調にも聞こえるだろう。男は警戒人物の評価を数段引き上げた。が、それ以上に綺麗に切り揃えられた前髪から見える表情は不敵な冷笑を形作っている。
中心にある血溜まりの前で足を止めて視線を下へと移動する。
染み込んだように真っ赤な血液が地面に広がっていた。当然そこは血液という液体ではなく、湿らせているだけ、色を濃くしているだけだ。
男は片手をポケットから引き抜き、悩むように顎に添えた。だが、考えるという素振りでありながらその表情は苦悩しているふうには見えない。役割を持ってこの場に立っているのだろう。
やることは決まっているといった表情は下準備でもするかのように先を見据えた瞳をしている。
「これならあのお方も文句はあるまい。それどころか褒められて然るべきでしょう。グドマの研究も無駄ではなかった。良い仕事をしてくれたものです、まったく」
自分にとってという限定付きだが、それがあればこそ男はこの場にいると言えるだろう。強化人間は惜しかったが、欠陥付きでは実用化は難しいだろう。
研究データだけでも得ていれば多少は違ったのかもしれないが、それは彼の1位に潰されてしまった。だが、男にとってはそれ以前に渡されたデータだけで十分と言える。計画は狂ってしまったが、結果的に最良な形で先延ばしされただけなのだから修正はできた。
「さて、時間も有限ということでしょうか」
目が遠くを見るように一瞬横に寄り、こちらに向かってくる複数人を確認する。
血の痕跡のある上で、腕を突き出した。
――すると、地面から無数に赤い雫が浮かび上がる。血液の雫は一か所に集まり拳ほどの球体を作る。
もう片方の手を引き抜いた時、その手には試験管のような容器が握られていた。蓋を開けたと同時に吸い込まれるようにして全ての血液が容器に入っていく。
キュッと蓋を閉めた男は中身を透かして見てからポケットに差し込んだ。
「意外に早いですか……となるとこの顔はまずい」
男はニタリと笑んだ。
瞬間、身体がグニャリと歪んだ。髪までもが嘘のように真っ赤に染まり軟体動物のように液体を思わせる動きで、全身の形が変わる。
身長から身体付き、顔に瞳の色と全てが別人のように変形していた。
無精髭を生やし、髪も乱雑に生えているが身体は筋肉が張ったように隆起している。服装すら代わり、ローブの代わりにバルメス正規軍の制服を着用していた。
そして形が定まると男は野太い声で自問する。
「こいつは誰だったか? まぁバルメスの魔法師だったのは気のせいじゃなかったと思うが、一々殺した相手の名前を覚えているわけじゃないからしょうがない」
どの道、この姿なら後続の部隊だろう魔法師に出くわしても不審がられないはずだ。
「ん!? こいつこれしか魔法が使えないのか、なんで記憶したのかわからない素体だな。今回は役に立ったが一度整理する必要があるか」
男は慣れない手つきで髭を擦るが、違和感しかないように顔を顰めた。
「だが、こっちは別格だろうな、今から楽しみだが今は我慢するしかないか」
ポケットの上から擦るように手を添えて恍惚とした表情になる。
今、血液の持ち主へと姿を変えてしまえば、見つかった時に何かと面倒だろう。
男は性能の悪い身体でバルメス方面に走った。速度は以前の半分もでないところから、記憶したこの男はせいぜい三桁魔法師だったのだろう。
筋肉が邪魔で走りにくかった。
記憶した姿ならば誰にもなれるとはいえ、全ての能力が自身に反映されてしまうのは欠点だろう。この特異な能力は継続して使えるが魔法は姿を変えた者が使える魔法のみしか使えない。
たとえ格上の魔法師を記憶したからといってその魔法師が使える魔法を自分も使用できるかは男の技量次第だ。また姿を変えたからといって魔力量までは変わるわけではない。
これらの欠点を差し引いてもあまりある使い勝手の良さがある。それにグドマの研究によって血液中の情報を正確に複写する技術を得ることができた。以前は姿形だけを変えられるなど表層的な情報しか得られず、その者が得意とする魔法や系統しか知ることができなかった。魔力の情報傾向は系統とは別に、特定の魔法の使用頻度によって魔力情報が偏る。男はその僅かばかりの情報を掬い取っているに過ぎないのだ。
しかし、今では正確にコピーする能力に昇華している。血液を取り込むことでそこに記された情報をより詳細に得ることができるのだ。
習得している魔法はもちろん含まれる。ただそれは血中に残されている固定情報だけで経験や思考までは読むことができないのだが。
それでも身体のスペック、魔法の特性は使用することができるのだ。
だからこそ、採取したこの血液は男を歓喜させるには十分過ぎる宝だった。
「見物になるぞ。裏切られる時、君はどんな顔をするのだろうか、それとも翻弄されるばかりなのかな。どちらに転んでも素晴らしいダンスが見れそうだ」
♢ ♢ ♢
アルスとロキが担ぎ込まれた。一時騒然となったのはバルメス本部内だけだったが、この騒ぎが伝播するのは時間の問題だろう。
ここで全体の総指揮を受け持っていたべリックは討伐の報をレティの口から直接聞いたのも束の間、ありえない光景に冷や汗を流す。
アルスとの付き合いはそれこそ彼が魔法師になる前から続く。過去に幾度も過酷な任務を遂行してきた彼でもここまで深手を負ったことはなかったはずだ。
一体何が彼を追い込んだのか、その事実確認は事務的な工程だけではなく大いに不可思議な疑問をべリックに残した。
緊急治療室に運ばれる二人の魔法師を見送ったが、何人も瀕死の部下を看取ってきた彼からすればアルスの容体は絶望的と言わざるを得ない状況だ。
集った数多の魔法師が真っ青な顔で口を力強く引き結んでいる。脅威が去ったことへの安堵は胸の内に蟠っていた。
「総督、アルくんの力についてなんすが!」
覇気の籠った声、睨みつけるように眼を鋭くするレティ。
何のことだ? と訊き返そうとしたが、嫌な予感が内から込み上げ、一つの心当たりが身体を硬直させる。任務において成功率が100%のアルス、その唯一の懸念を彼は知っていた。
これまでは何事もなかったため、任務の結果が懸念を追いやっていたに過ぎない。
「――!! まさか、暴走したのか!!」
何かを思い出すように顔を凍りつかせたべリックは自分が思いのほか大声を出していたことを覚ると。
「いや、ここではまずい。報告も兼ねて部屋で聞こう」
「…………」
拳を作って足早に引き返したべリックの後にレティは無言で後に続き、震える背中を見つめた。
そんな急かされるように歩き出した二人を呼び止める声が掛かったのは機を待っていたのか、それとも騒ぎを聞き付けて駆け付けた時に偶然視界に入ったからなのだろうか。
おそらくだが後者と思われた。何故ならばこの場にその人物が最初からいたならレティが気付かないはずがないからだ。
肝心な会話は聞き逃さなかったようで。
「総指揮官、俺も立ち会う許可を願います。アルスがあそこまで追い詰められるほどの敵とは……本当にSSレートだった場合、種類、形態などは……」
見れば数人の部下を引き連れたジャンが姿勢を正して神妙な面持ちで申し出た。背後には群青色の軍服に身を包み、マントを羽織っている部下が屹立している。
それをレティは焦燥感から余計なことを、と毒づく。そこには私情もあるが、何より総督がアルスの能力を既知としていることは事実だった。その情報を同国のシングル魔法師である自分にさえ知らさないのだから他国に聞かれるのは思わしくないはず。
レティの予想は的中した。
「ジャン殿、無論報告書を作成し7カ国に公表するつもりだ。それよりも貴殿には今も防衛の任が課せられている。最大の脅威を排除したからといって油断はできん。今のこの国では貴国らの協力なくして防衛も務まらないだろう。一人とて欠くことはできない状況、今は報告を受け、一刻も早く改めて対策を講じる必要があるのだ」
「ルサールカの代表として我らにも報告を受ける権利がある」
理解しているだけに苦渋を噛み締めながらジャンは食いつく。アルスのことはシングル魔法師同士というだけじゃなく、謎多き魔法師としての奇怪さが同居しているのを感じていた。それなりの付き合いもあるが7カ国会合で確信を得ることができたのだ。
秘匿されるべきシングル魔法師の情報だが、あまりの異質さについてルサールカでは情報の開示を幾度が打診したことがある。
以前、アルファ、ルサールカの共同作戦はそこに言及する意図もあったのだ。無論、何も得ることはできなったが。
「そこまでだ。ジャン・ルンブルズ!」
機先を制する声が上がる。それはこの場にいる三人以外の者が発したものだった。
壮年の男が後ろで手を組み本部入口で数段上から見下ろすように立っている。
「ハオルグ様!」
「ジャン殿、我々がすべきことは魔物の脅威を早期排除することだ。外界にはいつ集まってくるとも知れない魔物がいるのだぞ……それにべリック総督、標的の討伐はなしたのだろう?」
「間違いなく」
「偵察隊ということだったが……招集時の集まりでは方針を決めるには面子が悪かったからな。討伐に成功したのなら文句を言う者はいまい。ということだジャン殿、何かあるならば全てが終わってからにしてはどうだろう。無論、全ての報告が共有されたのちにな」
「わかりました」
レティがチラリと見たのに対してジャンは喉を詰まらせて不承不承正論に首を縦に振った。
イベリス元首、ハオルグ・メゾン・ジェフレスはジャンの懸念を汲み、目でべリックを軽く牽制する。
「防衛は我らに任せろべリック総督。それとハイドランジは編成が遅れているという報告は……いっているな」
「はい、未だ国を出ていないようですね。こちらではクレビディートがもうじき到着する知らせを受けていますので、そちらはハイドランジの北側に配置する予定になっております」
バルメスとイベリスは隣国だけあり、イベリスの隊は自国側に配置することでいらない軋轢を回避するための考慮だ。国の位置的に東にあるバルメスの上にハイドランジがあり下方、南東にイベリスが存在する。さらにイベリスよりも南に位置するのがクレビディートというわけだ。
しかし――。
「いや、イベリスのことは気にするな。それなりの数を残すように通達した。ハイドランジが遅れているのであれば北は我らが受け持つ、イベリス側にはクレビディートを配置してくれ、遠方のハルカプディアは北側から向かうはず、先に伝達してそのまま我らと合流すればよかろう。人数が集まれば多少の範囲は掃討できる」
「ありがとうございます」
「すぐにヴァジェットを向かわせる」
ハオルグは耳に付けている通信機器に向かって「聞いていたな」と発した。
しかし……。
「その役目私に頂けないでしょうか」
ハオルグを真っ直ぐ見たジャン。続いてべリックに向く。総指揮官の決定が最上位にあるためだろう。
「あと1時間ほどで外界も暗くなるでしょう。各国の到着を待つよりは私たちで一掃させてください。アルスにばかり良い所を持ってかれては、真っ先に到着した私は立つ瀬がありません。必ず期待以上の成果をお見せします」
「……わかった。だが、50は残して貰わねば困る」
「それだけで良いのですか?」
不敵に笑んだジャンは一人で事足りとさえ聞こえる。
「ああ、その代わり日没がタイムリミットとする」
ジャンは姿勢を正し、軽く目を伏せるとバッと反転して背後に控えていた部下に指示を飛ばす。その間、彼の口はずっと微かに上っていた。
ハオルグにはべリックも連絡を入れるつもりだったので、この場に彼が来てくれたのは手間が省けるというものだ。
「ハオルグ様、ご相談なのですが、彼の御仁を……」
頼みを最後まで言い終える前にべリックの言葉を手で制したハオルグは頬を持ち上げ。
「すでに到着している。重い腰を上げて貰わねばならない事態だと理解してもらえたからな」
「そ、そうですか」
「今頃は二人の治療に当たっているはずだ」
さすがに元首とは言え、ここまで手際が良いのは彼が軍で指揮を取っていたという皇族在らざる経歴を持つが故だろう。
当時は高貴な身でありながら果敢に指揮を振るったことはイベリスにとって元首という立場を気品だけの飾りではなく、品位に加え威光を放つきっかけを作った。
彼が元首でありながら軍にも強い影響を与えているのはそういう経緯があってのことだ。その手腕はイベリス国内全域の知るところだ。