愚かな物欲
「なんでこんなところにいるんだろ……」
ふいに呟いた言葉は虚しく中空に溶け込むように消え失せ、誰の耳にも届くことはない。
雑然と聞こえてくる会話が煩わしい騒音となり、鼓膜を殴りつける。
ロキは2次に切り替わって……いや、1次の時もずっと一人だ。何をすればいいのかわからないというのがある。しかし、それ以上にこの場にいるはずの人物がいないことが何よりも心細い。
世界から切り離された気分だ。
役目を無事終えられたことに安堵したが、問題はその後――。
勧誘に始まり、金にものを言わせた品のない貴族ら、口から吐き出される言葉は汚物の如くロキを不機嫌にさせる以外の役割を果たさない。そう聞こえるのだ。
既にあからさまな不機嫌をわざわざ表情に出して近づけさせないようにしているが、周囲が閑散となることはなかった。
この場にアルスがいれば有象無象など視界に入ることはないはずで、騒がしかろうが満足できるだろう。
少しぐらいの小言は許されるだろうか。きっと窘める言葉が挟まれるかもしれない。そうわかっていても自分はきっと会話の口火として躊躇いなく跳び込むに違いない。
そうやって時間を刻んでいく。
今も余所余所しく会話の隙に擦り寄るように一歩近づいた婦人に対してキリッと視線を向ける。厚い化粧に、鼻に付く強烈な異臭、指に嵌められた魔法的要素を一切含まない石の数々。
どれ一つ取ってもロキが笑顔を作るのは難しそうだ。
それ以上近づくな――特に臭い――という意思を込めた眼。
これほど明らかでも気にせず近寄ってくる輩はいる。
命知らず、身の程知らず、もしくは相当の手練か……少なくとも魔法師の端くれならばわかるはずだ、視界の端で足取りを見てそれ以下のただの馬鹿だと断定した。
ロキは今、これ以上ないほどに不機嫌だ。
意気揚々と歩み寄ってくる。恰幅の良い男はゆったりとした燕尾服を着ており、こちらも所々に装飾品を着けている。見た目は魔法師として外界に出れるような身体付きではない。無論、それだけが軍での地位を獲得できるわけでもないのだが。
四十代ぐらいの男は護衛なのか執事のような壮年の男性を引き連れている。こちらのほうがまだ戦えそうだ。
「ロキ・レーベヘルだね。私はブホング・モレトルオ、わざわざ私が出向いたのは君にとって悪くない話を持ってきたからだ」
少し見上げる構図だが、男のほうもそれほど背は高くない部類。だから差し出された手は高くない位置に持ち上げられた。
ジャラジャラと金属が擦れ合う音、握手でも求めるような手つきに視線を落とせば、締め付けられる指が五本。
ロキは男を家畜のように見返す。
相手の視線は若干下卑た色を放っていたからだ。
沈黙を応じないと受け取った男は鷹揚に肩を竦めて背後の執事を見やる。
男が現れたことで周囲のざわめきが一層増した。記憶にない名前だ。とは言え、知っている貴族など数えるほどだろう。ロキにとってはどうでもよいことだ。貴族はどれも同じに映る。
アルスをさんざん扱き使ってきたのは出自の不確かな魔法師が軍内部での地位を築き始めたからだ。表舞台に姿を現さないとなれば、総督の懐刀と言って良いほどだ。それを良く思わない輩は多い。特に権力だけで高位高官に就いている者にとっては。
決定権が総督にあるとはいえ、貴族共の利己主義な提言の全てを無視することはできない。内部分裂でも起これば魔物どころではないのだから。
それに正当な理由があるのも事実だ。優秀な魔法師を遊ばせておくことはできず、常に領土の奪還を優先しなければならない。ただ、アルスの魔法上、秘匿しなければならない弊害もあったために一人での任務を強制させられていた――本人が望んだとも言うが。
だから例外はあるとはいえ、ロキは貴族に対して良い感情を持ち合わせていない。
悪くない話すら聞く価値がないとさえ思っている。
「君のことを少し調べさせてもらったよ。一人身でこれほどの戦闘力を得た君は我が家に嫁ぐ十分な資質がある。息子は二十三だが、まぁ歳は関係あるまい。君なら正妻として迎え入れよう。成人を機に跡継ぎを生んでくれれば将来は安泰だ。ロキ君は軍で最速の昇進を果たせる、悪くないだろ?」
舐めるように視線が下から上へと走り、顎を擦りながら端整なロキの顔で止まり。
「息子も気に入るはずだ…………」
まるで人形でも見るような、店で品を物色するような目だ。
この下劣極まりない男が魔物でないことを嘆くようにため息を吐く。同時にこんな男でも周囲の関心を払うには役に立つだろう。
「どなたか存じ上げませんが、私がパートナーだとご存じないのですか?」
「フンッ! 誰がパートナーだろうが関係ない。安心したまえ、すぐにでも解消させてあげようモレトルオ家には造作もないことだ」
無表情を貫いていたロキの顔が激変する。それは愛想笑いなどの相手に好意を持たせる表情ではなく、寧ろその逆、激しい怒りによる憤怒、侮蔑の表情だ。
何も知らないとは言え、やっとのことで叶えたパートナーという立場を得たというのに……言うに事欠いて解消などと戯言を言い出す。
「――ひぃっ!!」
その殺意同然の視線を真っ向から受けたブホングは思わず一歩後ずさる。背後で控えていた執事も瞠目するだけで身動きができない。
この異様な変わりように気が付く者はそう多くはないだろう。華麗な席にはあろうはずもない殺意だ。
腕に覚えのある者は機敏に感じ取ったが傍観に徹することしかできなかった。触らぬ神に祟りなしだと言いたげに。
ロキは害虫でも見るように冷や汗を流す男を見て、口を開いた。
「あなたにはできませんよ。それに命を賭ける覚悟はおありなのですか? 惰眠を貪るような豚に私が? 御冗談を……豚には豚に相応しい家畜がおりますよ」
「き、き、貴様ッ!! 小娘風情が何を言っているのかわかってるのか! この私に対した暴言、只では済まさんぞ!!」
「人語は理解できるようなので繰り返して差し上げます…………命を賭ける覚悟はおありなのですか?」
ロキとしては当然の主張だった。パートナー解消は命を失くすことと同義なのだから。
「話にならん! 学生の命が私と等価なわけなかろう。何様のつもりだ? 拾ってやろうと言うのに……気が変わったぞ。家畜はどっちか教えてやらねばならんな」
大人としての余裕なのか、子供の戯言とばかりに達観するブホングは後ろ手に指をクイッと曲げる。
執事が顔を近づけ――。
「罪状はなんでも良い……あの娘を刑罰で捕まえる。後はわかっているな、孤独の身では助けに動く者はいまい……いたとしても……」
「承知しました。ただちに手配します」
執事が主に腰を折って踵を返した直後――。
「あら、随分物騒なことになっているのね」
「…………!!」
「学生相手に大人げないわねモレトルオ殿。この場は確か大会を祝した席のはずよね。学生が主役の席でモレトルオ殿は何をするおつもりなのかしら。元首主催の大会で大それたことをするのね。後がないって恐ろしいわ」
艶やかに微笑んだ女性がロキの放つ殺気に臆することなく進み出た。
姿を確認したブホングは舌打ちするように苦々しい表情になる。
「……フェーヴェル」
どこか見覚えのあるような容姿だったが、ロキはその名前を聞いて得心した。アルスの教えている二人の内の一人、テスフィア・フェーヴェルの母親だ。ただ、母親というには外見が若過ぎる気もするが。
「覚えていてくれたのですねモレトルオ殿? この場にいるということはまだ没落していなかったのですか」
「ぬけぬけとどの口が言う」
「耄碌したようですね。己の無能を棚に上げるなんて」
児戯のように淡々と会話が飛び交うが、一触即発の雰囲気はボード上の言葉だけ。思考ルーチンのようなやり取りだった。
由緒正しいモレトルオは旧家の中でも取り分け歴史が深い家柄だ。元々の貴族制である血筋に拘る風習を残している。時代錯誤も甚だしいのだが。
彼の家は元々アルファ内にあった貴族だが、魔法師の排出が十数年途絶えたために尻に火が点いたというわけだ。元々魔法師としての順位が低いブホングは数隊の総隊長として部隊を率いていた。当時、フローゼと指揮官の座を争うことが度々だったが、成果の乏しかったブホングは当然のように重役を任されることがなくなった。
つまり、没落までの一歩を加速させたのだ。
ハルカプディアに居住を移し今に至る。優秀な魔法師の重要性を理解したのか、今になって躍起になっているというわけだ。
「ちっ……今は貴様に構っている暇はない。この小娘に……」
「あら、そうも言っていられないのよね。ロキさんはうちの娘のご友人ですから……ましてやアルファの魔法師」
「何が言いたい……」
宿敵に向けるようなぎらついた視線をフローゼは軽く流し。
「頭の回転が遅くなったんじゃない? モレトルオ家が威光を放っていたのはもう過去になっているのがわからないのかしら……つまり、潰しに掛かってもいいのよってこと」
「………く!」
俯いたブホングは怒りを堪えるようにプルプルと震えて硬く拳を作る。しかし、現実は何も変わらなかった。事実、アルファでも三本の指に入るフェーヴェル家では今のモレトルオ家を潰すのは難しくはない。
だが――。
「たかが、小娘にフェーヴェルがそこまでするわけがなかろう。何のメリットがある……彼女の身柄を渡せばそれなりに……」
「試してみれば?」
「は?」
「だから、試してみればどうかしら。二度と日の目が見れないようになってもいいならだけど」
「…………」
歯ぐきを剥き出しにして堪える姿は数秒ももたなかった。
「帰るぞ!!」
鼻息を荒くしてわざと足音を立てて会場を後にする。
呆然と成り行きを見守っていた貴族たちの目はフローゼに向いたままだ。静まり返った会場。
「皆さん、お騒がせしました」そう言って社交的な笑みで謝罪するフローゼに賛同するような称賛の声が上がった。
「皆さまもロキさんへ祝言を送りたいことと思いますが、彼女は本戦での負傷が回復していない様子ですのでご控えいただけますでしょうか」
フローゼが一言告げれば、渋々納得するしかないだろう。
独占するつもりだろうと邪推する者はいない。彼女には息子がいないことを誰もが理解しているからだ。心情的には納得できないが、真っ向から意見を言う者はおらず……それは勇敢ではなく蛮勇だということも知っているからだろう。
それに今し方、ロキ自身が一切取り付く島がないと公言したのだから。
それからは早かった、あっという間に貴族たちは姿を消して次々に移動を始める。まばらになったことを確認したフローゼは改まってロキに向き直った。
「初めまして……」
「ありがとうございます。フェーヴェル閣下」
以前、聞いた階級を思い出して、敬称を忘れない。
驚いたのはフローゼだった。今でも教官をしていた時の教え子の魔法師からはそう呼ばれることはあるが、今は当主という肩書だけなのだから。
「閣下と呼ばれていたのは昔のことよ。さん付けでもなんでも気軽に読んでくれて構わないわ」
「わかりましたフローゼさん」
フローゼはアリスとはまた違った感触を感じていた。
「それにしてももう少し自重したほうがいいわよ。性質の悪い人間が多いからね、貴族というのは……それにアルスさんにも迷惑が掛かるかもしれないわよ」
「……!! 迂闊でした、冷静さを欠いていたようです。助力いただきありがとうございます」
確かアルスは一度フェーヴェル家に訪問しているはずだ、その時にパートナーである事実を得たのだろうと疑問をすぐに解消し、再度謝辞を述べる。テスフィアの母親というから最初は身構えたが、それほど悪い印象はない。
「構わないわ」と微笑むフローゼからグラスを受け取る。
正論を言われて今更ながらに事態の深刻さに気が付く。もっと賢い対処の仕方があったはずなのに、気づけず頭に血が昇った愚かさを悔いるようにグラスを傾ける。フローゼが現れなければ確実にアルスに迷惑をかけたに違いない。
失敗の原因をロキは理解している。
こうしている今も仕えるべきアルスは任務に出向いているというのに、自分はこんなところでのうのうとしているのだから。
喉を潤し、自然と零れるため息に慌てて、手で覆い隠す。
頬を緩めて今にも笑い出しそうなフローゼを前にして、我に返るように仕切り直した。
「お初にお目に掛かります。ロキ・レーベヘルと申します」
軽く握手を交わす。淑やか繊手だと思っていたが、間違いなく戦場の手だ。
その感触に我に返る。悪い印象は抱かなかったからと言って好感を持っているかと言われると疑問だろう。これは助けて貰ったからの礼節でしかないのだから。
それに貴族というだけで近づいてくる連中は何かしらの意図があって然るべきだと疑って掛からなければならないというのが、ロキがアルスの経歴から得た教訓だ。
ましてや初対面なのだから当然の警戒。
アルスがフェーヴェル邸から帰宅後に何も擦り合わせの場が持たれなかったため、それほど警戒すべき点はないのかもしれないが。
と思考してすぐに安易な考えを振り払った。アルスが甘過ぎるというのは、ここ数カ月で良く分かったためだ。
本人は理由を付けているが、ロキからしてみれば甚だ遺憾でしかない。だからせめて外的要因でロキが関われる事案に関して言えば振り払うべきなのだろう。