従える者
冷たく有無を言わせない細められた眼。瞳の奥には何者にも害させない意志が黒色の光となって放たれていた。
全方位で時を止めた内の真正面に据えられている。背後からならば隙があるとかの問題ではない。アルスが放った絶対服従の言に対して身動きができないように制止していた。
だが、宿主に対して攻撃ができないこととイコールではない。アルスもそれは十分に理解している。制御を離れたグラ・イーターを意思の力だけで制御するのは不可能だろう。
だからこそ、あえて言葉を持ち出した。対話できるとは思っていない。この異能に自我があるとしてもそれは欲望に対してだ。
それでも今までコントロールできていたことを考えれば、上下関係をはっきりさせることで従えられると安直に思った。藁にも縋る思いだが。
しかし、その予感は的中したと言える。
直後、魔力に変化が起きた。無数に向けられた触手、上空に滞空する魔力プール、その至るところに眼が開いた。今まで瞼を閉じていたと思わせるようにゆっくりと表面に斑点が生まれる。
「…………」
アルスは無感情にただ見据える。変化の兆しであるように見えたからだ。
そして星の数ほどの眼が開かれると一拍置いて、ギョロッとアルスに向けられる値踏みするような瞳。人間の眼のようでもあるが、向けられた視線が人ではないと告げていた。
「俺の命に背く力など必要ない」
声が聞こえたわけではないが、数多の眼が器たるに相応しいかと問い掛けているようだった。
だから有無を言わさず、耽々と視線を逸らさずに発したアルスは開いた手を閉じて拳を作る。
――――ピシッ!! 全ての眼に罅が入り、細められる眼。
「従え……」
静寂を裂くように発せられた言葉。
ぐぐっと拳を握りしめると、罅が更に枝わかれして瞳を砕けさせた。瞬く間に続く破砕音が全ての眼を割る。
真正面の眼と視線が交わった……割れる直前に笑ったように歪められた直後、砕け散る。
そして瞼を閉じたように全ての眼が消失すると、吸い込まれるようにしてアルスの身体に流れ込む。これほど成長した【暴食なる捕食者】を取り込めば、絶命は必至だと覚悟を決めていたのだ。そう最後にアルスは賭けに出た――ロキを救うために。
膨大な異能の魔力――ドクンッと心臓が跳ねる。
それはある種の力が満ちる感覚に似ていた。すぐに訪れるはずの死はいつまで経っても押し寄せてくる気配はない。長く感じる時間は数秒にも満たなかった。それよりも先に張り詰めていた神経が緩み、どっと押し寄せてくる生々しい寒気。
ツーッとアルスの口元から一筋の血が流れた。押し止めることができない程、血は体内から溢れ出し、逆流していく。一筋、また一筋……すると咳き込むように喉に手やった直後、溜まった血が滝のように流れ出す。
アルスはそのまま仰向けに力無く倒れ、意識を手放してしまった。
「ア、アルス様ッ!!」
ロキは頭をもたげて目を見張った。その顔は恐怖が張り付いて小刻みに震えていた。
震える唇を引き結び、掠れた声を絞り出す。
「そ、そんな、アルスさ……ま……あっ、ア……ア……あぁ~……ああああぁぁぁ……」
黒い髪が目元に被さり顔が見えない。ロキの視界は次第に滲み始め、すでに色しか映さなくなっていた。
地に爪を食い込ませて、あらん限りの力で上体を起こそうとするが、肘がガクンッと折れては地に伏せった。
上空の魔力が消失したことで太陽は容赦ない光を二人の頭上に降り注がせる。それがロキにはアルスに対する弔いのように見えてどうしようもないほど憎らしく映った。
顔を地面に擦りながらロキは腹這いのまま、腕で……指で地面を引く。爪が剥がれようが構わない。呼吸を忘れたように死に物狂いで這う。数歩で辿りつける距離が悠久を思わせるほど長く遠い。
爪を立て指の力だけで身体を引きずる。その度に神経を削り取られるような激痛が全身を走る。それでも構わない。アルスとの距離を埋めるために、一つの歩みが指の第一関節程度しか進まなかったとして、それが虫のような歩みだったとしても、僅かでも近づいているのならば、死に物狂いで土を掻く意味があった。
こんな絶望を味わうくらいなら…………あれが憎い、これが憎い、全てが憎い……何もできない自分が憎い。
嗚咽が雪崩のように押し寄せ意識を塗り潰していく。考えるまでもなく思考は独りでに最悪の状況を瞬時に弾きだす。
銀の透き通る髪は見る影もなく汚れ、それでも手に力を込めて身体を引きずる。その後を足の夥しい血液が痕を引く。
そして最後の力を振り絞って前進……ロキの顔はアルスの顔の真横に置かれた。丁度逆さになる。
顔を横に向けてアルスを見たロキは汚れた肌の上を伝う濁った雫を滴らせた。
「アルスさ、ま……?」
赤黒く染まった腕が弱々しく持ち上がり、力の入っていないだろう小指で覆い被さっていた髪を掬う。
そのまま頬に置かれただけの掌……頬を撫でるように力無く滑り落ちた。
♢ ♢ ♢
「良かったっすかリンネさん? ロキちゃんを一人で行かせても」
「いえ、私たちが行くよりも彼女に任せた方が可能性はあります」
レティは冷や汗を流すリンネを横目で見た。それは理由を問うためだ。戦闘力ではレティたちの方が一枚も二枚も上手だというのに……単純に訳が分からなかった。
レティたちがアルスのいるクレーターに向かっている途中、リンネの魔眼によって先を走っているロキを見つけたのだが、彼女は合流しないで行かせた方がいいと言い出したのだ。
この場で魔眼保持者であり、異能に関しての知識で彼女に勝る者はいない。
隊は気配を消しながらクレーターの縁で身を隠して見守っていた。
「言ったと思いますが、制御というのは単純な腕力ではなく、精神力、気力と呼ばれる類の力が必要です。もちろん魔法師ならば魔法を暴走させないためにも必要な素質です」
レティだけでなく隊員たちも耳を傾けて頷く。
「そんなあやふやなものとお思いかもしれませんが、異能を扱うためにはそんな感覚的な部分に頼らなければなりません」
あやふやという表現は異能を持たない魔法師にしてはその通りだろう。意識的に訓練することはなく、外界での任務や己の魔法に対する絶対の自負、そういったもので無意識に研鑽されていく。
しかし異能者の場合は少し違う、そんな悠長なことをしていれば身体の内側から蝕まれる。そのためにまず異能者がしなければならないことは自分の中にもう一つの存在を認めることなのだ。その関係は様々だが、リンネの場合は【共存】することで精神を保っている。これもまた一つの成功例だ。
異能とは生き物だ、と言われるのは魔力の補給を自発的に行ってしまうからである。これを制御することが目的とされている。
異能の性質にも大きく左右されるため対処法は様々だが、やはり精神的な部分に依存することが多い。
他者が唯一影響を与えられる領域、それは言葉で以て、行動で以て関われる。
だから――。
「だからロキさんなんです。最近なったとは言えパートナーですから、私たちよりも適任かと思います。それに……きっと止められないでしょう」
これは異能に対してではない。
リンネは魔眼で見たロキの必死の形相を思い出して苦笑した。
「私たちは最悪の事態に備えて、いざとなったら囮になればいいかと思います。どうでしょうかレティ様」
「どうでしょうかってリンネさんが良いならうちらは問題ないっすよ」
やることが決まっただけでも十分な収穫なのだろう。元々行き当たりばったりで策も携えていない状況だったのだから。
もっと良い方法はないか、模索しても効果的な方法など最初からないことを知っているのだ。だから、最悪の事態とはレティたちが想像するものとは異なっていた。
リンネは矢筒から一本、真っ白な矢を取り出し、矢に番える。
「何をしてるっすか!」
レティが驚愕の表情で問うが、リンネはその瞳を見返した。
そしてすぐに気付いたように眼が鋭く細められる。
「本気っすか――」
猛獣のような眼を向けられたが、リンネは誤解を解く為に強張った身体に鞭を打つように口を開く。
「あれがバルメスまで行ったらSSレート級の脅威でしょう。ですが異能は宿主を無くせば消えるはずです。脅威を根源から断ち切るのが定石でしょう……」
「リンネさん、そんなことをさせないためにうちらは来たんすよ」
笑顔が語尾に行くにつれ、殺気を滲ませてくる。
「レティ様! 私もアルス様を手に掛けようとは思っておりません。この矢は行動阻害の魔法が刻まれております。材質自体魔力を増幅させるものです。一時的に生命活動を止めると言えば良いのでしょうか。使うのは初めてですが、これをアルス様に撃ち込めれば一時的な仮死状態になるはずです。結果はどっちに転ぶかわかりません。仮死から戻らずにそのままということも考えられますし、異能がこれで収まる保障はありませんが、ロキさんがダメだった場合やってみる価値はあります」
「そういうことっすか……」
殺気は嘘のように霧散し、考え込むレティ。
そして、渋面を作ると諦めたように口を開く。
「気乗りはしないっすけど、それしかないっすかね」
リンネも同意の首肯で応える。最悪の場合とはアルスの意識がなくなることにある。そうなった場合、異能は完全に楔から解き放たれるということだ。
これが嘘だということにレティは気が付かない。あの力を吸収と表現しているのだから、本質が見えていない。
だからこそ、リンネはあの異能を『SSレート級』と言ったのだ。
仮死状態にするには矢が直接身体に刺さらないといけない。アルスが纏うような異能の魔力は魔力を一瞬で吸収するのならば、この矢は魔法を発現できないことになる。そう、ただの物理的な矢として穿つことになるだろう。
今のアルスならば防げるはずはない。
だからこそ、願う。
(ロキさん……お願い)
震える手が弓を小刻みに揺らす。まだ弦には掛けない。今の状態では誤射しかねないからだ。
リンネは決意しても今の状態では当てられる自信がこれっぽっちもなかった。矢を構えれば大丈夫だろうとは思っても魔法師の頂点に君臨する1位を手に掛けることになるかもしれないのだから。
矢を弦に掛けたのは、そんな儚い願いが泡となった時だった。ロキに対して無数の異能の棘が貫いた。「そんな……」と溢したのは、自分の判断で助かる命を散らせてしまったからだろう。
打算もあった、アルスならばなんかしてくれるかもという期待。そんな皮算用的な計算だったが。
弓を引き、魔力が流れ出した時――鏃の前を手が遮った。
「まだ早いっすよリンネさん」
そうレティに視線で促された先を見ればアルスの間近で土埃が舞っている。まだロキが生きていることに指の力を抜き、弓を下に向けて胸を撫で下ろす。
だが、状況は悪い方に向かっていると考えて間違いない。
「すぐに救助に向かいましょう。今のアルス様ではやはり制御することは……」
できない、という言葉は苦渋の表情とともに噛み締めた歯の隙間を抜け出ず引き返した。
「強行手段になるっすね……でも、その前にあれの説明が欲しいところっす」
指差した先では無数の棘が地面に突き刺さっている。
意味する所は、追撃がないということだろう。制御を離れ、ロキを襲った魔力の棘は固まったように停止していた。
「……ですが……それも長続きはしないはずです!」
「ということは現在アルくんは制御とは言わないまでも、抵抗出来ていると考えていいんすね」
一つ頷いたリンネを見てレティは決意したように引き締まった表情を向ける。
「だったら、やっぱりロキちゃんに任せてみるっすよ」
肝を冷やしながら一時も目を逸らさずに注視。リンネは魔眼で俯瞰するようにいくつかの視界で見ていた。
何かを話しているのだろうか。アルスの凄まじい形相に物怖じするどころかロキは慈愛に満ちた表情を浮かべている。
それは一瞬の出来事だった。
「「―――――!!」」
立ち所に数多の棘が宿主であるアルスに襲いかかったのだ。それは状況に変化があってから行動を起こすレティたちでは後手に回るほどの速度。
しかし、一同が瞠目したのは襲い掛かって来たからではなく、全ての棘が二人の周囲を埋め尽くす僅かな距離でピタリと止まったからだった。
全員が視線を釘づけにしている中、レティだけはどこか予期していたように頬を持ち上げる。
そして再び視線が吸い寄せられたが、今回は怖気という恐怖に射抜かれて呼吸することすら忘却の彼方へと誘われた。心臓が苦しいほどに早鐘を打ち、息をするために開いた口は何も吸い込まない。
この場にいる全員が全員、生きるための生命活動自体を忘れてしまったかのようだった。
あの無数に湧き出た眼が、眼球がこちらに向かわないことを願いながら。
真空の時間が終わりを告げたのは状況に変化が起きた時だった。眼に罅が入り、瞬く間に消えていく。
我に返ったのは、直後上空に停滞していた異能の魔力プールが途轍もない速度でアルスの中に戻っていったからだった。
「レティ様……」
「わかってるっすよ!」
青白い顔で物陰から立ち上ったレティ。アルスが力無く倒れた姿が視界に映っている。
リンネは少し前に視界に入って来た一団について知らせた。
「後続に支援隊が来ています。すぐに一人向かわせて下さい」
「では、俺が行きます」
サジークが立ち上ると同時に魔法を発動させた。身体を取り巻く電気の迸りにレティは頷く。
肉弾戦を好むこの男は【フォース】をも扱える。この場ではレティよりも早く着けるだろう。
リンネはおそらくロキと同行してきた隊だと推察する。配置していた支援部隊はもっと後方に位置しているはずであり、今もこちらに向かって移動してくる理由が他に見つからなかったからだ。
レティに続いてサジークを除いた隊員がアルスの元へと向かった。
「…………!」
そして口には出さない不吉な予感が肌を逆撫でる。
隊にはレベルは低いものの治癒魔法を使える者がいたため、その女性はすぐにアルスの胸に手を添えて魔法を使う。
ロキのほうもだいぶ出血しており、衰弱していた。意識もなく呼吸が乱れているが、できることは多くない。この隊には本格的な治癒を扱えるものが少ないからだ。いや、そんな治癒魔法師は世界広しと言えど数えるきりで、それこそ片手で足りるというもの。
ましてや、外界で動けるほどとなると限りなくゼロに等しい。
運び出す為の担架を即席で作り、アルスを乗せる。
レティはロキを抱えて揺らさないよう配慮しながら場所を移す――少しでもバルメスに近くなるように。
彼らがアルスの無残な姿に至るまでの経緯をリンネから聞くのはもう少し後になってからだった。