~約束~
今回はすごく文学作品っぽいです。いつものテンションでは書いていません。
彼女と僕と『海』の切なくて、淡いお話をお楽しみ下さい。
チロチロと鳴く鳥や、ミーミーと大合唱を繰り広げる蝉たちに囲まれながら、一人の少女が、夏の雲一つない青空のように澄んだ声を山に響かせていた。
彼女は『幸せ』という言葉を、この世界に具象化したような歌を奏でた。鳥や、虫や、草や、花や、背の高い木や、山でさえも、彼女の歌に聴き入るかのようだ。それぞれが自分の音を奏ながらも、彼女の為に少しだけ抑えているように感じられた。そう思えるくらい、彼女の歌は心までも癒してくれるようだった。
僕が姿を現すと、彼女は笑顔のまま寄ってきてくれる。彼女は膝下まである白いワンピースに身を包み、赤いリボンの付いた麦藁帽子を被っていた。歩きにくい足場でワンピースの裾が揺れる。その様子ですら、彼女の可憐さを物語っているように思えた。
僕は切り株に腰を下ろし、彼女の歌に身を任せるよう、ゆっくりと目を閉じた。真っ暗な世界の中で、彼女の声が光となって自分を導いてくれているような、そんな感覚に出会う。僕が何よりも大好きな感覚だ。
しばらくすると、彼女の歌は止まった。きっと、一通り歌い終わったのだろう。僕が瞼を上げると、彼女は僕の顔を覗き込み、満足気な顔で、
「どうだった?」
ときいてきた。僕はもちろん、笑みを浮かべて、
「凄く綺麗だったよ」
とありきたりな言葉で返す。でも、そのありきたりな言葉が、彼女の歌には過大評価とはいえなかった。
「ありがとう」
彼女は更に笑みを深めた。余程嬉しかったのだろう。くるりと可愛らしくその場で回った。葉の間から僅かに差す光が、彼女の優しい金色の髪を照らす。
回り過ぎて、彼女は目まで回してしまったようだ。ふらふらと足取りがおかしくなったもんだから、僕は焦って、倒れかける彼女の体を抱きしめるように止めた。それがまた面白くなり、彼女と僕の笑い声が山に響いた。
「今日は何する?」
僕は彼女の顔を覗き込むようにしてきいた。意識さえすれば唇がふれてしまいそうな距離だ。しかし、当時七歳だった僕と、僕と同じくらいの体付きだった彼女はそんなことは微塵も考えなかっただろう。
「どうしよう」
「じゃあ、絵本でも読む?」
悩む彼女に僕はそう提案した。最初からそのつもりだったとは、心をも許した彼女にも秘密だ。
「そうね。じゃあ、一番上までいきましょうか」
「うん」
僕はうなずいて、いつものように彼女の右手をにぎった。僕より少し小さい彼女の手は、ひんやりしていて気持ちが良かった。積極的に引っ張って、何度も登った道なき道を進んでいく。底まで見えるくらい澄んだ浅い川は、上にいくにつれて幅が小さくなっていった。
山の頂上に着くが、そこで僕と彼女は終わらない。そこから、崖の手前に佇んでいる大きな木に登るのだ。ここでも僕が彼女をエスコートする。決して簡単ではない、自分の身長以上高い枝に難なくのり、彼女お手製のはしごを掛ける。そして、僕が下りてみて大丈夫なことを確認してから、彼女が登る。いつもそういう手順だった。
「いつきても、ここはいいね」
彼女は麦藁帽子を僕から受け取ってからいった。横を向いてみると町が一望することができる。
「そうだね」
「じゃあ、読みましょうか」
「うん」
太い枝と枝の間に置いた木の板に座り、バッグに入れてきた絵本を取り出す。木の板は縄できちっと縛ってあるから、大丈夫な筈だ。けれど、所詮は子どもの力だから信用はできない。
僕が取り出したのは、表紙に海の絵が描かれた絵本だった。
彼女は僕の手からその絵本を取ると、表紙をしばらく眺めてからめくった。そこには題名が書かれていた。今度は一瞬見ただけでめくってしまった。きっと、題名しか書いていないから面白くなかったのだろう。
「わたしは――」
彼女は文字を言葉にしていった。清らかな、春にひらひらと落ちてくる、桜の花びらのような柔らかい声が僕の耳にやってくる。僕はとても気持ちが良くなってまた、目を閉じた。
「――でした」
彼女が読み終わると僕は目を開けた。光が眩しくて、僕は目を細める。彼女は一度も噛まなかった。楽しそうに、男の子と女の子が楽しく夏休みを過ごす様子を読みきったのだ。
「ねえ」
「何?」
「『海』ってこんなに綺麗なの?」
彼女は絵本のあるページを指で差しながら、純粋無垢な目で僕に問うてきた。僕はそれに首を傾げた。
「見たことないの?」
「うん」
彼女はうなずく。確かに、この辺りには海がないから珍しくないかもしれない。
「そうだね……、それよりもっと綺麗かな」
「ええー、そんなのありえないわ」
彼女は意地悪そうに目を細めた。僕は彼女の機嫌を損ねてしまったのだと思い、慌ててしまう。彼女はそんな僕を見て、小さく笑った。
「じゃあ、『海』ってどんなものなの?」
「うーんと、広くて」
「うん」
「青くて」
「うん」
「いっぱいお魚がいて」
「うん」
「水がたくさんあって」
「塩の匂いがするんだ」
僕は一生懸命、一度しか見たことのない『海』を思い出した。指を折りながら数えるけれど、それほど出てはこなかった。
「それだけ?」
彼女は可愛らしく首を傾げる。結われていない髪が、ゆらりと揺れた。
「うう」
僕はうろたえて、ちょっとだけ泣きそうになった。そんな僕を見て彼女はぎゅっと、体を引っ付けた。
「じゃあ」
彼女は僕の耳元でささやいたのだった。
「私たちが大きくなったら、一緒にいきましょう」
温かい息が耳にふれて、それがくすぐったい。何となく恥ずかしくて、顔が赤くなっていくのを感じた。
「う……ん」
そう返す僕に、彼女は
「楽しみね」
笑いかけてくれたのだった。