戦
完全に日が落ち切って閑散とした路地を、一人のサラリーマンが歩いている。宴会でもしてきたのだろうか、その足取りは少し覚束ない。
「彼をターゲットにするわよ」
美咲の言葉に、蓮は生唾を呑む。昨日までの美咲は、どこかにいってしまったのだろうか。今や、彼女は異質な存在として蓮の前に君臨していた。
そよ風の様な音がしたかと思うと、彼女は既にその場から消えていた。サラリーマンの背後に黒い影が顕現し、首筋に一息に食らいつく。自らの体を支えきれなくなった男性は、ドサリと膝をついた。
あの夜、一歩間違えれば蓮はこうなっていたかもしれなかったのだ。そう思うと、空恐ろしい。同時に、蓮は名前の付けられない感情を覚えていた。
ーーあなたの気持ちはとても嬉しいーー
あの時の美咲の笑顔が、自分だけのものではなくなってしまったような気がした。
(嫉妬…?いやまさか、俺が比奈以外になびく訳がない)
蓮は、どこまでも残念な男だった。
血を吸われた男はそのまま眠りにつき、美咲によって近くの公園のベンチに横たえられる。もしかすると、酔っ払って公園で目が覚めた会社員は吸血鬼の被害にあった結果なのだろうか、と蓮は思った。
一部始終を離れて見守っていた蓮は、美咲に声を掛けようとする。だが、蓮の眼前で黒煙が渦を巻き、長身の男を形成する。
「高橋博文…?」
蓮には一瞥もくれず、博文は美咲に向き直った。
「東郷殿。本日よりこの区画は『高橋』専有となります。当面こちらでの活動は控えていただきましょう」
「そんなこと一言も聞いてない!」
美咲は全身で抗議するが、博文は最初から聞き入れるつもりは毛頭ない。
「母数が増えれば一人の取り分が減るのは当たり前です。それとも、あなたは他の吸血鬼を差し置いて我を通すおつもりですか?」
「それはあなた達が組織で動いてるから通る理屈じゃない。私みたいな単身の吸血鬼にはとても飲める条件ではないわ!」
これ以上話すのも面倒といった様子で、博文は溜息をつく。
「私は本来こんな雑用をする役割じゃないんですがね。あまり面倒な仕事を増やさないで頂きたい」
博文がそう言い終わるが早いか、美咲に向けて強烈な蹴りが放たれるのが、蓮には見えた。
「東郷‼︎」
恐らく美咲の目はそれを捉え切れていなかっただろう。完全に反射だけで受けた美咲の腕がーー有らぬ方向に曲がっていた。
「ッーー!」
蓮は博文の追撃を阻むため、即座に間合いをつめ、拳を打つ。だが、ヒットを確信した瞬間に博文が霧散した。大きく距離をとった位置に再び現れると、
「次はありません」
短く一つ言い残し、博文は消失した。




