三
水樹くんは彼女居るの、と聞こうとして口を開いた。
「あっれえ? 水樹じゃん。こんなとこで何してんのー?」
息を吸い込んだと同時に甘ったるい声が耳に入り、思わず息を止めた。心臓がどくん、と高鳴る。声の主は、同じ塾の子たちだった。私は思わず顔を伏せる。
「見れば分かんだろ。せっせとアルバイト中です」
「えーマジ? じゃー、あたし、買ってあげるー」
「あたしもー」
「さんきゅー。何味がいい?」
人懐っこい笑顔。塾の子たちと話している水樹くんは、私と話しているときよりも、ずっと楽しそうで、きらきらしているように見えた。当たり前だ。水樹くんは、きっと誰にでも優しい。一瞬でも自惚れかけてた自分が急に恥ずかしくなる。
「そういえば、水樹の後ろに居る子、だぁれ?」
思わず、服の裾をぎゅっと握り締めた。指先が小さく震えた。視線が痛い。肌を細い針でちくちくと刺されているような気分だ。
「アオイ。今日、偶然会った子」
もし、ばれちゃったらどうしよう。なんて答えればいいんだろう。不安が胸の中で疼いて、ぎゅうぎゅう締め付けた。私はさり気なさを装うように左手を首元にあてた。どくどくと脈が流れているのが分かる。首元も左手もじんわりと熱が篭り、嫌な汗をかいていた。
「ふーん、知らない子」
どくん、と大きく心臓が震えて、熱が急激に冷めていった。清水を背筋に流されたように、体が急に動かなくなって、胸の奥がすーすーして、虚しさが心を埋めていく。
彼女たちは何事も無かったかのように、別の話題を水樹くんに振った。水樹くんもそれに応える。会話の内容は全然分からない。それは、塾で高校入試の過去問の説明を聞いているのに似ていた。
そうだ。これが、私の現実。
***
家と塾と学校の往復。遊びに行くことなんて、最近は全くない。まさに勉強の缶詰。私には地道に勉強することくらいしか出来なかったし、これなら頑張れば実るだろうと思っていた。なのに、志望校はD判定。塾のクラスも発展クラスから基礎クラスへ。頑張っているのに、ちっとも成果が出ない。先生に、もっと頑張りなさい、と面接で言われて教室を出たとき、彼女たちの声が耳に入ってきた。
「すっごーい、ミサ。やばくない? K高、合格確実って!」
「まーね。あたし、陰で頑張るタイプだからあ。ってか、そーゆーユリだって、第一志望A判定だったじゃん」
「そーそー! マジ嬉しかった。今年の夏も、皆で海行っちゃう?」
「いいねえ!」
「あたしら、ほんとに受験生かよ!」
底抜けに明るい笑い声に、私の心を覆っていたものが引き剥がされていく気がした。剥き出しになった心から、今まで無意識に押し隠していた感情が溢れてきた。
なんで、と思わず声が漏れた。幸い、その声は彼女たちには届いていなかった。
私のほうが、ずっと、ずっと、頑張ってるのに。楽しいことも全部我慢して、全て勉強に注ぎ込んでいるのに。
疑問と嫉妬が交差して、身動きが取れなくなった。心臓に太い鎖が巻きついて、ぎゅうぎゅうと強く締め付ける。私のやっていること全て否定されたような気がした。
何も考えられない。とにかく、空っぽの頭の中に数式や英単語や元素記号を詰め込んだ。でも問題文は全部暗号に見えた。教師の説明は確かに私の鼓膜を揺らしてはいるけど、脳で理解する前に溶けていく。みんなは、私が説明をされても分からない問題を平然と解き、シャーペンの芯をすり減らす。急に怖くなった。数式も英単語も元素記号も、全部私の中から消えてしまったら、何が残るのか。なんにも残らなかったらどうしよう。
きらきら輝くような季節なんてひとつもなくて、このまま夏が過ぎ去っていく。分からない授業を聞くために、機械的に塾へ行く。自転車を漕いでいると、自分のちっぽけさにぐんぐん胸を押し付けられながら、いつも思った。
こんな毎日、なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。