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作者: 叶むすび

其の日の姫君は何時もと様子が相違しておりました。

姫君は雪のように真っ白でくすみのない肌と、その肌の中でくっきりと浮かんでいらっしゃる黒黒とした瞳が何とも清らかでいらっしゃいました。

霜が降りるほど気温の低い時には、その真っ白な頬に赤色の水彩絵の具を滲ませるかの如く、ほんのり赤色に染まるところなどは、美しさを凌駕して可愛らしさが現れます。

上品で優しく、それでいて容姿も優れていらっしゃったので、他の家の若殿は勿論、姫君の宮殿に仕える身分のいやしい者でさえ、姫君を手に入れることを強く願っておりました。

ですから、姫君が庭に出て散歩をしているようならば、ここぞとばかり男共は群がり、我が先だ、我が姫君を嫁に頂く、などと醜い争いをするのでした。姫君はそんな男たちの下心を知らず、目をゆっくりと細め、高貴な微笑を浮かべるばかりでした。そんな笑顔も、全ての男たちの心をぐらつかせるのでしょう。そんな穏便な姫君が、先ほどは鮮やかな色の衣類を振り乱して、風のように縁側を走り抜けていったものですから随分驚きました。

姫君の長く真っ直ぐ伸びた黒色の艶やかな髪の先には、汗の滴さえ伺えたほどでした。

私は姫君よりも長く生きておりますが、そのような姫君の姿を見たのはその日が初めてでした。

姫君は走り去って行った儘、日が暮れても帰っては来ませんでした。

宮殿にどよどよと、雑然とした空気が流れ、殿はたいそう心配しておられます。

帰って来る兆候は全く無く、殿は心配そうに歩き回りながらも、苛立ちを隠せないようで、昼間に姫君が血相を変えて走り去って行きました縁側を、何度も何度も往復しておられます。空は雲が密接しあい、暗闇をどっとかき集めて流れ込みます。月の見えない空は、その三十分後に雨の滴をこぼしました。勢いの弱かった雨は、やがて風にも押し流されないくらいの勢いを身につけて、私の体をビシビシと叩きつけます。


「愛娘はどこじゃ。私に黙って何処に行くのじゃ」


殿方は落ち着かない様子の声で呟き、屋敷の人間をかき集めて、姫君の一斉捜索を行うことを決意されました。

何しろあのように美しい容姿の娘を持ったのです。

――誰かにさらわれたかもしれない。そう考えるといてもたってもいられないのは当然のことでございましょう。やがて夜は更け、雨はすっかり止んで、眩い日は山の隙間より昇ります。普段は静かな、山に囲まれたのどかなこの辺りですが、今日は人が姫君の名を叫ぶ声ばかりが轟き、何ともまがまがしい雰囲気を醸し出しております。


姫君はその日の正午過ぎに発見されました。見つけたのは姫君の第一使用人である実朝という男でした。男は姫君と年も近く、容姿も整っていて、そして何よりよく気がつくものでしたから、姫君も随分とお気に召しておられました。

姫君は、この屋敷の裏側に堂々と構えた山の中で、細々と流れる美しき川沿いで発見されたそうです。彩り鮮やかな衣類や、真っ直ぐと伸びた美しき髪を水に浸し、高く澄んだ空を仰ぐようにして倒れていたそうです。目立った外傷はなく、姫君の生気を感じさせないほど真っ白な顔の中で、唇だけが春に咲く菫のような鮮やかな紫色に変色していたと聞きました。

姫君のような偉大なお人を亡くしたことに、屋敷一体が深い悲しみに包まれ、快い春の日差しを感じさせないほど暗くどんよりとしております。殿も、生きる糧を失ったかのように、死人のような瞳を伏せて、庭をぽうっと眺めておられます。


「姫よ」


殿方の他に、もう一人空を眺める者がありました。虚ろな瞳を傾けて、悲しそうとも嬉しそうとも窺えない、というよりも感情の全てを破棄してしまったような冷たい顔をしています。実朝です。男は上唇だけをやや浮かせたまま、錦鯉の泳ぐ小さな池の前に立ち尽くしていました。

その男の姿に、私の心はすっかりと捕らわれてしまいました。彼が醸し出す空虚感全て、美しくて尊いのです。男は不意に私の元へ近寄り、そしてしゃがみこみ、私の胴の部分に、優しく指を添えました。


「姫は……好んでおられました」

何を?

「菫です」

そうですか。

「貴女の命、姫に授けてやっても構いませんか」

勿論です。――何故なら私も姫を愛していますが故。




*




「私は御無礼を承知で姫君を愛しております」


春の柔らかな風は裾の長い衣類をふわと揺らし、沈黙を繕うようにして桜の花びらを流して参ります。


「勿論、私も貴方を愛しておりますわ」


風が一通り止んだ後、私はきちんと返答いたしました。迷う意味なんて無かったからです。 私はゆっくりと彼に近寄り、体重をそっと彼に預けました。そのとき、時間が止まってしまったかのように静かになりました。やがて彼は私の肩を支えながら、身を少し離して言いました。


「身分がら、私は貴女と過度の接触を赦されておりますぬ。それでも、私は貴女を愛しております故、この愛をもっと育んでゆきたいのです。……だからこそ、ここから貴女と逃げたい。独断ではどうしようもないので、貴女の意志を訊きたかった。もし貴女も同じ気持ちならば、私が此処を発って一時間後、御屋敷の裏の山の中にある、川沿いにいらして下さい」


彼は会釈をした後、縁側からそそくさと出て行きました。勿論、私は迷いませんでした。柔らかな風に煽られ、桜の花びらが舞い散る中、私の意志だけは根強く花を咲かせていました。何故なら、私は彼を酷く愛しているからです。


私は彼のおっしゃった通り、一時間後に急いで屋敷を出て、山の方に向かいました。

裾の長い衣類は枝に引っかかったり、草に絡まったり、いろいろと不便でしたが出来るだけ速く足を進めました。こめかみに汗が伝い、春の日差しにきらりと輝いております。やがて川の流れる穏やかな音が、乱れる呼吸音の中に混じって耳に届きます。彼は川沿いに生えた大木の幹にもたれて、ざわめく木々の葉を見つめておりました。やがて私の存在に気がついた彼はやや視線を傾けて、頬を緩めます。


「姫」


彼が私を呼んだのを合図に、私は彼の元に駆け寄り、力強く彼の体を抱きしめました。彼は私の長い前髪を指で払い、静かに接吻をいたしました。


――その感触といったら!


私は今まで宮殿の方で父上に隔離されておりました。

私を嫁がせるにしろ、許嫁のみとの交流だけでございました。

ですから、彼との接吻は、私にとっては初体験なのです。

絡まる唾液と、喉の奥底に落ちていく熱、生ぬるい感触。

全てが私を恍惚とさせて、今までかいていた汗が更に量を増すのでした。それから陳腐と知りながらも、木にもたれ掛かりながら体を交えて、川のせせらぎに包まれながら何度も声を上げました。私達は、今やそれだけでは満足できないようなのです。私は優しく接吻をする彼を、永遠に閉じ込めて置きたいと思いました。若く、美しいままの形で。


「私は永久の愛を願っております」


私は彼の頬に手を添えて申しました。彼は一度私に唇を寄せた後、

「それは私も同じです」

とおっしゃいました。


「貴方の手で私を」


そのとき、強い風が吹き、さらに木々をざわめかせました。雲の流れは、それでもずっと緩やかです。

彼は私の器官に優しく親指を添え、徐々に徐々に力を入れております。私の器官はいよいよ空間を無くすほど圧迫され、酸素の摂取と二酸化炭素の排出が巧くいかなくなりました。私は弱々しく喘ぎました。唇を半分開いたまま、掠れた声で鳴くように言いました。愛しています、と。すると彼は、言葉ではなく、永遠の約束を私に授けました。

彼は私の汚れた遺体をそっと寝かせ、川の水で汚れを綺麗に洗ってくれました。みるみるうちに私は美しさを取り戻し、菫のような紫色に染まった唇を空に向けて横たわりました。

やがて、彼は私の第一発見者となり、優しく私を抱き上げて、宮殿に連れ帰ってくれました。一段落した後、彼はまたあの場所に戻って来ました。


「愛する姫に、一つの命を捧げます」

彼はそう言って、指先につまんだ菫の花を、美しい川に向かってふわりと浮かべました。花はゆっくりと地面を目指し、川の水が流れるままに、どこかへ消えていってしまいました。

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