引継ぎ最終日に
金曜日の昼下がりは外回りに出ている人間が多い。報告書を作る『赤鬼』こと、向井課長の機嫌がいつも以上に悪いからだ。
ただ、今日は違った。苛立ちは別の方向に向けられており、その原因のために珍しくほぼ全員が夕方には部内で終業するスケジュールになっていた。
今日は九月にも関わらず暑いな。
他の人間同様に室内で報告書作成や伝票処理をしたかったのだが、今日の異変の元凶は空気を読まずに外出を選択。巻き込まれた自分は、この快適な楽園を追い出されるのだ。
呼ばれるまでパソコンに集中した。文句を言えば、あの人は倍にして返してくるはず。
ヒールの音がこちらに近付いてくる。この人の足音は大きいのでわかりやすい。
「悠木、スケジュール忘れていないか」
背中に向かっていつもの声がする。デスクに左手を置いて、彼女は自分を見下ろすように見つめる。
「いいえ、ちゃんと把握しています。声がかかると思っていましたので」
「最後まで可愛げのない後輩だね」
デスクに置かれた左手の薬指には、銀色の指輪が光っている。肩にかかる髪を一本に結んで、今日は眼鏡をかけている。
「すみません、準備します」
周りの空気も考えて、言葉少なに返した。彼女は小さく息を吐くと、自分のデスクに戻っていく。身長も高く、ダークグレーのパンツスーツがスタイルの良さを引き出している。外回りの準備をするために彼女もバッグをデスクにおいて、書類とパソコンをしまっていた。
東京支社のエースと呼ばれるようになったこの先輩とは、配属時からの付き合いになる。指導係として、当時若手の中で数値成果を出している彼女の下について営業のいろはを教わった。
性格はストイックで、常に仕事の話しかしない。同期は先輩と雑談をしていたり、食事をしたりと比較的緩い職場にあって、彼女は常に自分と技術の話しかしなかった。
大きな目に整った顔立ち。世間でいうたぬき顔と言われる穏やかそうな見た目に反して、情熱的に仕事をこなしていく。特にプレゼンの準備は徹底しており、夜遅くまで資料を作っている姿は何度も見た。
研修中は先に帰らされて、この姿を見ることはなかった。研修が終わって自分も同じ立場で働くようになってからは、尊敬を超えて自分自身の甘さを知るきっかけになった。
無理はしなくていい。強制はしないよ。私が誰にも負けたくないだけ。
深夜までやっている飲食店で、牛丼を食べながら彼女は話した。平均的にこなせば、女だからうまくいったと言われるのが嫌いだと真剣に話していた。
「すみません、準備できました」
「少し早いけど、出ましょうか」
「はい」
理由はわかっている。ここでは出してはならない。
「田宮さん」
経理の女子社員が彼女を止めた。
「今日は帰社されますよね」
「うん、その予定」
「お待ちしております。今日は田宮さんの送別会ですから、最初から出てくださいね」
外回りが多いので、彼女は送別会もほとんど遅刻している。飲み会では物静かで会話をするのは最小限にしているが、明るい性格なので女子社員からも人気がある。
彼女が答えている横で、先輩が自分のところに寄ってきた。
「最後のご指名は、やはり悠木なのね」
羨ましいという言葉が透けて見える。みんな彼女と働きたいと思っているという噂は絶えない。美人で明るい彼女は、この支社の中でも人気がある。
「まあ、面倒な案件はすべて自分になったので」
「あの会社にいくのか」
「はい、先方はこの時間を指定されましたので」
「そうか・・・頑張れよな」
そう言って、彼女が女子社員と話し終わる前には姿を消した。何も知らない彼女がこちらに戻ってきた。
「ごめんなさい。行きましょうか」
出入口付近にあるホワイトボードまで行くと、自分と彼女の名前の横に目的地の名前を書き込んだ。研修中の癖なのか、いつも一緒に出る時にはこちらの分まで記入をしてくれる。
最後の日であっても、いつも通りの無言。移動中はほとんど会話をしないで険しい表情をしている。この後の話の内容を整理しているのだと教えてくれたのは研修中で、それ以来、こちらからはよほどの質問以外はしないようにしている。
下車してから、慣れたように彼女は近くの自動販売機へ向かった。ここで缶コーヒーを二本買って、歩いて五分ほどに位置する公園に進んだ。
空いているベンチに腰を掛けると、手帳を出した。自然と自分も横に座る。
ブラックの方をこちらに渡すと、早々にカフェラテの缶を開けて飲んでいる。
「悠木、ごめんね」
こちらを向かずに、彼女は謝った。
「何についてですか」
「・・・色々。でも、今回は引継ぎの件」
彼女の開拓した取引先で、癖の強いクライアントはほとんどこちらに引き継ぐことになった。自身も彼女に付き添って何度か伺ったが、要求が強く常に苦戦を強いられた。
「仕方ないです。他に任せるわけにはいかないですよ」
面倒であるのは百も承知。しかし、彼女が必死につないできたものを崩したくない。そして、彼女に追いつきたいという気持ちからすべて引き受けた。
「頂きます」
そう言って、彼女から貰ったコーヒーを空けた。苦みの強いブラック。彼女はいつも自分に聞かずにこのコーヒーをくれた。
彼女はハンドバッグから手鏡を出すと、身だしなみの確認を始める。目の前でリップを塗り直す姿に女性を感じるので、わざと視線をそらしてしまう。
彼女へ向けるものは、先輩としての尊敬でなければならない。
そこまでの機会はなかったとはいえ、彼女と食事や居酒屋での話は胸の中に秘めている。彼女が女性という武器を使わずに仕事の世界で戦っていきたいという強い意志も知っている。だからこそ、一番近くにいる後輩が彼女に女性の魅力を感じるのは一番の背信行為だと決めていた。
「そういえば、いつも苦そうに飲むよね。どこが好きなの」
「好きなんて言いましたっけ。自分ブラックは苦手ですよ」
「えっ・・・ええっ」
彼女は二度驚いた。聞かないまま、勝手に好きと勘違いしていたのだ。
「言ってよ。私、嫌がらせしていたみたいじゃない」
少し強い風が吹いて、お互いに顔をしかめる。園内で騒ぐ子供の声が響いている中で、二人の時間が流れる。
「そこまで嫌いではないので、頂いていました」
「社会で必要なのはコミュニケーションだよ。まったく、教育係の顔が見たい」
わざとらしく言うと、二人で吹き出した。彼女はオフィスでは自分を偽っている。本当はくだらない話でも大きな口を開けて笑うような明るい女性だ。
「教育係のせいではないです。あの人には仕事の基礎を教わり、本当に感謝していますから」
こちらもわざとらしく返答して、鞄から封筒を出した。
「多分、ここでしか渡せないので。お世話になりました」
彼女はぎこちなく頷くと、封筒を受け取ってくれた。中を開くと、彼女が行きたい話をしていた絵画展のチケットが二枚入っている。
「嘘、高かったよね。しかも二枚」
驚いて口を開く姿に再び目を逸らす。しばらく彼女はチケットを見ると、こちらに視線を向けた。
「二枚って、なんでよ」
「いくら田宮さんでも、友達位はいるかと思いました」
「最低・・・まあ、ありがとう。チケットは素直に嬉しいなあ」
薬指に光る指輪も、実は彼女の偽り。入社当時に勘違いしてきた先輩に苦労した経験から、彼女は彼氏ありという嘘のプロフィールを貫き通している。その嘘を知っているのは、会社でも数少ない人間しかいないはず。
「なんですか、最低って」
「別に何でもない。さあ、行こうか」
立ち上がって彼女は伸びをした。昼下がりの日差しに照らされた彼女のシルエットが綺麗に影を作る。
「すみません、準備の時間に余計な話をしてしまいました」
「問題なし。今日は準備する必要ないから」
淡々とした口調の中に、寂しさを含んだように小さく息を吐いた。
先方へ顔を出すと挨拶とこちらの紹介をしながら、彼女は今までの感謝を随所に述べていた。担当も厳しいことを言ったけど、誠意を持って対応をしてくれたと話していた。
「もう来ないなんて、寂しいです」
「こちらこそ、いつも優しくしてくれてありがとうございました」
受付担当の女性社員が涙を流している。彼女のここまでの実績を目の前で見せられているようで、何とも重圧を感じた。
「悠木は私も弊社の中で一番信頼をしていますので、ここの後任に指名しました。今後ともよろしくお願い致します」
少し目の赤くなった彼女が目の前で頭を下げた。自分も急いで頭を下げた。引継ぎは何度かあったが、ここまで自分が場違いに感じたのは初めてだった。
「ぜひ、お願いしますね」
「よろしくお願い致します」
先方の担当者に、丁寧に挨拶を交わす。
「さて、行きましょう。お時間を取らせてしまい、大変申し訳ございませんでした。失礼いたします」
彼女は最後まで綺麗にお辞儀をすると、会社を後にした。
「やっぱり、緊張するよね」
重圧が抜けたように彼女は髪留めを外した。スーツのボタンも外すと、軽く右手で顔を仰いだ。
「でも、あそこまで関係を作るのはさすがです。正直不安ですよ」
「弱気なことは言わないで」
強い視線がこちらを捉える。顔をしかめて、怒りがそのまま表情に現れている。
「すみません」
「心配しなくていいよ。あなたは真面目だから、あの会社とはうまくいく。私が保証するから」
「すみません」
「また謝る。そういうところよ」
あからさまに溜息を吐いた。そのまま駅に近いコンビニに足を進める。
「少し寄り道しようよ」
「わかりました」
すっと表情を緩めると、一緒にコンビニに入った。空調が効いている涼しい店内をぐるりと彼女はゆっくりと回った。
途中で気が付いたパートさんが彼女に挨拶をすると、バックヤードに姿を消した。しばらくすると、制服を着た若い女性が小走りで現れた。
「こんにちは」
大きな目をした小柄な女性で、まっすぐな瞳に真面目さを感じる。黒い髪を一本に縛って、化粧も薄いのに目鼻立ちが整って美人なのがわかる。おそらくまだ二十代前半のようだ。
「お仕事中でしたか」
「いいえ、そろそろ来るかなってお待ちしておりました」
仲がいいようで、慣れたように挨拶を交わした。
「今日が最後になったので、引継ぎで後輩も一緒です」
「こんにちは」
接客慣れしているだけに、こちらに屈託のない表情を向けた。
「初めまして」
彼女はこちらにじっと目を合わせると、彼女に笑顔を向けた。彼女はなぜか視線を逸らした。
「今日はスイーツですか」
「暑かったから、アイスにしようかな」
「そうしたら、おすすめはこれですね」
アイスケースに素早く動くと、バータイプのアイスクリームを持ってきた。
「バニラにこだわっていますよ」
まるで先に考えていたようなスピード感に、関係の深さを感じる。
「流石です。今の気分にぴったりだ」
そう言って、二人で笑っていた。ありのまま笑うと下品に見えると言って、仕事中はほとんど笑顔を見せない。抑えている心がざわつく。
彼女はアイスを二つとると、レジに持っていった。会計を済ませると、若い女性のもとに戻った。
「しばらくはお別れになりそうですが、絶対またきます。今までありがとうございました」
「私もいらしてくれるのを楽しみにしていました。いつも当店にお越しくださり、ありがとうございました。おすすめのスイーツが分からない時は、これからもお待ちしています」
見た目に似合わない流暢な口調で店員さんは笑顔を見せた。
「すごくいいお店なので、ここも引き継ぐよ。感謝してね」
長く一緒にいたはずなのに、普段とは違う彼女の姿を見せられて遠くの存在に感じてしまう。
みんなが笑顔でいるのに、自分だけ偽りの笑顔でコンビニを離れた。
「溶けちゃうから、少し急ごうね」
早足でコンビニ近くの公園に向かう。彼女の足取りは軽く、オフィスで見せる緊張したような姿はそこにない。
結局は自分も思い違いをしていただけなのだ。彼女の素はもっと明るいもので、二人の時に見せてくれた姿も実際は偽っているものだったのだ。
ダサいな、俺。
気持ちはゆっくりと太陽が雲にかかるように、暗くなっていた。彼女は気付かずに奥のベンチに腰を下
ろした。座らないこちらに気が付き、人差し指で彼女の横の席を突っついている。
「だから、溶けるって」
「すみません」
じっと、彼女の大きな目がこちらを捉える。じっと見られると、目を合わせることが出来ない。
「どうした、何かあったの」
長い関係だけにお見通しのようだ。
「いえ、別になんでもありません」
「最後でしょう。もう少しいい顔してほしい」
幼い子供を諭すように、彼女はまっすぐに語り掛けた。まるで自分が駄々をこねているように見えて、惨めさが増していく。
「すみません」
「私だって、不安もあって寂しいよ」
冗談めかして微笑んだ。軽い口調で言っているものの、当然だ。彼女が行くのは大阪の支社で、管理職への切符を勝ち取るために日々数値結果を求められる場所だ。苦戦している支社だけに、うまくいかずに帰ってくる人間が何人もいた。
「向こうの課長に言われたけどね、みんな年上だって。可愛げのない後輩とアイス食べるのも、しばらくはお休みかな」
落とした目じりでアイスを眺めている。こぼれそうになったので、焦るように口に運んだ。
「主任、田宮さんなら大丈夫ですよ。僕が保証します」
先程の言葉を思い出して、語尾に付け足した。
「田宮さんって・・・ははっ、弱い保証だなあ」
普段は絶対に呼ばなかった苗字呼びに驚いていたようだが、からかうように吹き出した。アイスがこぼれそうだったので、屈んでいた姿勢で上目遣いにこちらに視線を向ける。
「偉そうにすみません」
「いいよ、素直に嬉しいから。ねえ、溶けているけど」
右手に持ったままだったアイスが溶けている。指にバニラがかかって、汚れてしまっている。急いで口に入れた。あの店員が言っていたように、こだわっている濃厚なバニラの味が口いっぱいに広がった。
「もう少し面倒見たかったなあ」
ニヤニヤと彼女は笑っている。この関係も結局最後まで変わらなかった。本当は、頼りになると言われたくてここまで頑張っていた。
やはり、この人には勝てないのか。
「また嫌な顔」
彼女は顔をしかめた。
「すみません」
「謝ってばかり。育て方間違えたかな」
ドロドロとアイスが溶けてしまっているので、目線を向けることが出来ない。口調から、失望はしているのは確かだ。
「後ろ向きになる時間を、いかに成功のイメージを考える時間に変えられるか」
彼女は呟いた。
「これは私が大好きな言葉。入社して最初に教育係の先輩に教わったの」
「いい言葉ですね」
「うん、私もネガティブだから、この言葉をいつも自分の中に持っているの。ごめん、先に教えればよかった」
冗談めかすことなく、真面目に頭を下げた。
「いえ、主任には大事なことを沢山教えてもらいました」
「そうしたら、最後にその言葉を贈るよ。あなたはポジティブに頑張れば、絶対にうまくいくよ」
その笑顔に何度助けられたことか。
いつも彼女は明るく自分を助けてくれた。諦めかけた壁を乗り越えられたのは、この先輩の背中を見ていたからだ。
本当は、今日想いを伝えたかった。
「実は、その先輩好きだったの」
彼女は頬を赤らめて話した。この話は初めて聞いた。
「告白はしたのですか」
「ううん、していない。既婚者だったから、想いは胸の中に収めた。この話は誰にもしていない。でもね、今も彼に認められたくて頑張っているかな」
告白をしていないという安堵と、未だに彼女が想っている話が複雑に絡み合う。結局、自分は最初から
相手にされていない事実も判明した。
「残念ですね」
「そんなことないよ。別に今は一緒にいたいとか思わないから。いつまでも憧れがある。これだけで充分」
そう言って、彼女は立ち上がった。夕日が彼女を照らして影を作る。子供の声が響いている公園で二人だけの時間が終わりを告げる。
「さて、戻ろう。向井課長を待たせるのはまずいよね」
「そうですね。送別会がお通夜になります」
ケラケラと彼女は笑った。
「悠木にとって私は先輩のような存在になるのか、それとも別なのか」
そう言って、こちらに彼女は歩み寄った。ジャケットの内ポケットからボールペンを出して、差し出した。
「主任になってから買ったペン。高いのよ。今までのお礼と今後の活躍を祈って」
黒いボールペン。確かに彼女は気に入って使っていた。受け取ると、頭を深く下げた。
「ありがとうございます。大切に使います」
少しの静寂。ペンをジャケットの内ポケットにしまうと、息を吸った。
「今は主任、いや、田宮さんは憧れです。でも、自分は追いついて、いや、手を引っ張りたいと思います」
彼女は吹き出した。
「完全に今考えたでしょう。噛み過ぎだよ」
「すみません」
「あーあ、面白い。最終日は悠木にして正解だったよ」
ゆっくりと公園を出るために来た道を戻る。わざとらしくお腹に手をやり、彼女は笑っていた。
「からかわないでくださいよ」
「そうだね、ごめんね」
公園の出口前で、彼女は立ち止まった。
「ありがとう。じゃあ、手を引っ張ってもらうのを待っているよ。その代わり、私が指輪を買い替えたくなったら期限切れ」
「そんな・・・」
「大丈夫、これ気に入っているから」
左手の薬指に光る指輪が反射してキラッと光った。いつか、この嘘を真実にするのは、自分の役割でありたい。
なんだ、結局心は読まれていたようだ。
「それと私に告白するなら、田宮さんじゃなくて、下の名前で呼ぶこと」
そう言って、こちらを強い目で見た。恥ずかしくて、思わず目を逸らした。
「もしかして、下の名前覚えていないの」
こちらの表情を誤解したようだ。
「最低、しっかり覚えてよね。約束だよ」
彼女は機嫌の悪そうにくるりと向きを変えて歩き出した。
しっかり言えるように準備します。香澄さん。
まだ言える立場ではない分、力強く背中に向かって心で叫んだ。この小さくて、自分にとってはまだ大きな背中をいつも通り追いかけるように歩いていった。




