昏き世界に濫觴を。
街は色彩を欠いていた。
通りは薄暗く、静寂に満ちていた。
辺りに並ぶ崩壊したビル群は、かつての色合いを失い割れた窓から虚空を覗かせている。
灰色の壁面で踊る生い茂ったツタが、妙に不釣り合いだ。
コンクリートの地面はところどころ抉れ、無数の瓦礫が散らばりうず高く積もり、もはや道とも呼べない有様だった。
半ばから折れた信号機は黒を示したまま沈黙している。
通りに沿って屹立していたであろう街路樹は、炭化した根元のみを残して消失している。
無論、そこに生物などいるはずもない。
見渡す限りの荒廃。灰と黒で彩られた終焉の世界。
そんな光景が――遥か遠くまで続いていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――。――――」
誰かの声が、脳に響いた。
「……――、――――」
聞き覚えがある声だ。
どこか暖かく、私を抱きとめるような、おそらく幾度となく聞いた声。
でも、名前を呼ぶことはできなかった。
その声の記憶だけがさっぱり消え落ちてしまっていた。
だから私は手を伸ばした。
その声が、いずれ消え去ってしまうのではないかとどこか不安になって。
「……っ」
ぼんやりとした視界に映る私の手は青白く――こちらに差し伸べられた手には白いスズランの腕輪が咲いていた。
私よりも一回り大きいその手。
少し皺の寄った、あたたかそうな手。
私は悟った。
――ああ、この手は。
「届かないよ……」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
前に進まなければならない。
覚えていたのはそれだけだった。
ゆっくりと瞼を開けると、そこには灰色が広がっている。
空は淀んだ雲で覆われている。一切の陽光が存在しない、虚ろな空だった。
風が体を撫でるのを感じて、私は手を突いて起き上がった。
コンクリートの固い感触が今になって襲ってくる。
「…………」
首を回して辺りを見てみれば、崩壊した街並みが目に映る。
焼けて骨組みだけになった家々に、壁面の焦げた摩天楼。大小の瓦礫の散乱する道路と煤で汚れた道路標識。
交差点に面した、小さな商店のような建物の前には、猫のような形をしたオブジェクトが黒く変わり果てた姿で横たわっている。
看板のない駐車場で整列したいくつもの車には、灰が分厚く積もっている。
それは終焉というにふさわしい光景。
しかし驚くこともなく、不思議な既視感を伴ってそれが現実であることを認識させられた。
「……ここ、は」
――私はこの場所を知っている?
呼吸を止めて記憶を探った。
しかし手を伸ばしても雲をつかむばかりで、明瞭な記憶が掘り起こせない。
頭を抱えて唸りたい気分になった。そのとき、
ちりん、
不意に、そんな音を立てて、地面についたままの右手に何かが触れた。
「……?」
見ると、瓦礫と砂の混じる地面に、キラキラと光る角ばった何かが転がっていた。
ビー玉ほどの大きさのそれをつまんで目を凝らす。
小さい宝石のようなものだった。
水晶のように淡い白色で、ペンダントのそれのように薄青色のフレームで装飾されている。
しかしチェーンなどはついておらず、一目見ただけではただの石にしか思えない。
しばらく矯めつ眇めつしてみたが、それが一体なんなのかは私には見当もつかなかった。
ただ、それは単なる宝石とは違って、微かに光を放っていた。
陽光が反射しているのではない……なにせここに太陽はないのだから。
手の中で何色ともつかない光がぼんやりと発せられる。
誰かが落としたものだろうか。
よくよく見てみると、その石の表面には薄い擦り傷がいくつかあった。
それだけ、大事にされていたということだろうか。
……なにか、これに似たものを以前、見たことがあるような気がする。
そう、遠い昔に……。
……。
…………。
…………思い出せないけれど、確かに記憶の残滓はある。
しかしここで立ち止まっていてもどうにもならないので、いまだ淡く光る石を握りしめて、歩き始める。
――が、一歩踏み出したところで足を止めた。
「……っ」
一瞬、息が詰まる。
強烈な違和感、刹那の戦慄――しかし同時に覚える、途方もない既視感。
――なぜだろうか。そこに広がる灰色の光景に、……慄然としたのは。
風に靡いた自分の白髪が視界にちらついて目が覚めた。
束縛が解けて小さく息が漏れる。
首を回すと、相も変わらない荒廃した味気ない街並み。
しかし、今の今まで見てきた光景は、その瞬間、双眸を貫いて心臓を揺らした。
それは根源的な恐怖……だったように思う。
何か、視認できない存在に背後をつけられているかのような感覚。
自分が覚えているこの感覚は何なのかは、私自身にもわからなかった。
立ち止まって、このすっきりしない気分をどうにかしたかった。
けれどその術は持ち合わせておらず、どうしようもなく辺りをきょろきょろしていた私は、そのとき通りに吹いた冷たい風に背を押されるようにして右足を踏み出した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
荒廃した無人の通りを一人歩いていくというのはなかなかに不思議な感覚ではあったけど、喧騒と目に痛い照明に満ちた都会の街並みがここまで静まり返ってしまっては、純粋に興味のほうが勝ってあちこちを歩き回ってみたくなった。
この感覚は、……ああ、きっと夜の学校のそれに似ている。
見慣れている光景から何か一つの要素を抜き取ってしまえば、それは全くの別物として顔を覗かせる。
物珍しさと恐怖、覚える感情にこそ差異はあれど、日常が様変わりすることに妙な高揚を抱いてしまうのは同じだ。
もちろん、どちらも他人事だからいいのであって、自分事になればとたんに焦りを覚えるのだろうが。
私にとってこの街は他人事だった。
なんだか、見覚えがある。
思ったのはそれだけで、恐怖や焦燥といった感情は湧かなかった。
別に思い入れがある場所ではない。出生地というわけでもない。……はずだ。
挙句、街の名前すら知らないときた。
自分のあるべき場所も分からず、目的も見当たらず、ただ眼前のものを追い続ける。
さしずめ行くあてもなく流離う旅人といったところだろうか。
街は沈黙するばかりで本当の顔を見せてはくれない。背後に潜む何かについて語ろうとしない。
でもそれでいいと思った。
私はこの街の本来の姿を知らない。
街は私という来訪者を歓迎しない。
お互いに他人事でいい。
記憶が定かでない今は灌漑しないほうがいい。
陰鬱とした空の下、そんなことを考えながら灰色の地面を歩いていく。
あの石は右手に握りしめている。
それからしばらくは、時折足を止めながらぶらぶらと歩いていった。
さらに十分ほど歩いて、そろそろ代わり映えのしない街並みに飽きてきたというところで、
「……? これ…………」
それまで何の気配もなかったというのに、突然、焦げ臭いにおいが鼻孔を突いた。
煙、だろうか。そういえば心なしか目が痛い。
家か車あたりが燃えているのだろうか。だがそれにしては炎が見えないし煙も上っていない。
不思議に思って辺りを少し歩き、一面のガラスがことごとく割れたビルとビルの間の細い路地、暗がりのその先で暖色の光が灰色の壁面を照らしているのを見つけた。
狭い路地へ入っていくと少しひらけた場所に出た。
車一台が入るか入らないかぐらいの広さで、乱雑に放られたいくつかの黒いゴミ袋と室外機に置かれた缶コーヒー、投げ捨てられた大量のタバコといった、如何にも路地裏といった雰囲気の空間だ。
光の源は中央にある焚き火。くべられているのは色も太さも不揃いな木材だ。パチパチと、わずかに薪のはじける音を立てながら十数センチの小さな炎を燃やしている。
なぜこんなところに火が、という疑問が脳を巡ったのは一瞬で、私は少しの興奮で脈動が速くなるのを感じた。
私の他に、誰かいる。暗雲の立ち込める、生命を拒んだこの仄暗い街に。
この焚き火がなによりの証左だ。
別に一人でいて怖くなったとかそういうわけではない。できることならこの街の者を見つけて話をしたいと思っていたのだ。
なぜ、街はこんなにも荒廃しているのか。この景色はどこまで続いているのか。この街の名前は何なのか。
無人の街を歩いていくにつれそんな疑問は少しづつ膨らんでいった。が、確かめようにも人はいないし、道路標識はことごとく黒焦げになっていて、ためしに入ってみた図書館では本棚ごと炭になっていた。
そこで見つけたこの焚き火。いや、もしかするとこれは残り火なのかもしれないが、くべられた薪はまだ短くない。すぐに探せば追いつく可能性はあるだろう。
胸に手をあて速まっていた鼓動を抑える。
ふぅと息を吐いたのと同時に、焚き火の中の薪が一本カランと音を立てて倒れた。
すると組まれていた薪はたちどころに崩れていき、元々弱かった炎は明かりにもならないほどに小さくなった。おそらく数十秒もすれば消えてしまうだろう。
そんな光景を見届けてから、私は細い路地を引き返した。
再び大通りに出て北に歩いていくと、建物の崩壊は段々と酷くなっていき、道の至る所で見上げるほど大きい鉄筋むき出しのコンクリートが鎮座していた。対向車線まで瓦礫に塞がれていたところもあった。
おそらく車では通り抜けられないであろう隙間を縫い、時には破片の山を踏み越えた。
「……」
今更気づいたことだが――それほどの運動をしているというのに、何故だろうか。汗の一つもかくことはなかった。
そればかりか息が上がることもない。
足取りは不思議なまでに軽く、疲れも、痛みも感じない。
途中にあった小高い瓦礫の山から振り返ると歩いてきた道のりがよく見えた。
その距離、200mぐらいはあるだろうか。
足場の悪い中を歩き回り、上ったり下りたりを繰り返したが、未だこの体は疲れた様子を見せない。
別に体力はある方ではない。むしろ少ない方だと自負している。
まるで他人の体を動かしているかのような感覚だ。
そんなことを思いつつ、また一つ瓦礫の山を登りきったとき、その先の通りに見慣れぬものを見つけた。
相変わらず朽ち果てた瓦礫の転がる道路。
そこに、一脚の――くすんだ白色の椅子が無造作に転がっていた。
それだけではない。椅子のすぐそばには何かを遮るかのように立つ平らな人間大の瓦礫、わずかばかりの明かり、……そして空へと上る細い黒煙。
――人だ。
転ぶことを恐れず破片の山を飛び降り、明かりのもとまで小走りで近づいて、瓦礫の壁の向こうを覗いた。
そこにあったのは、煙の発生源、さきほど見たような小さな焚き火と、大きさの同じ数脚の椅子、そして、……項垂れた男の姿だった。
「……ぁあ、クソ、……なんで、なんでッ、……ぜんぶ――が、――が悪いんだ……ッ…………あれが、あれのせいで、こんなッ…………」
椅子に座った男は苛立ちげに何事かを呟いていた。
煤に汚れた黒いジャンパーとところどころ破けた長ズボン。フードを目深にかぶって頭を抱えているが、歯を強く噛んでいるのは見えた。
――ようやくだ。
焚き火を見つけて自分以外にも人がいることは既に分かっていたが、それでも、変わることのない無音の街に現れた言葉を交わせる存在を目の当たりにすると、安堵とは少し違う、妙な納得感を覚え、同時に鼓動が速くなるのだった。
聞きたいことはいくつかある。
それを指折り数えてから、細かな破片をじゃらじゃら踏みつつ、いまだ独り言を続ける男のもとに近づいていった。
しかし目の前に立っても男は顔を上げず、小さな声でうわ言を漏らしている。
少し困って、数秒待ったのちに声をかけた。
「あ、あの――――」
ひゅっ、という息を吞む音が聞こえたかと思えば、男は沈黙しその姿勢のまま動かなくなった。
「……え、えっと、……だ、だいじょうぶですか……………?」
恐る恐る声をかけるも男は微動だにしなかったが、何も言えずそのまま立っていると、やがてゆっくりと顔を上げた。
そのはずみに、かぶっていたフードが落ちる。
それは血色が悪く瘦せこけた、沈んだ表情の、30代ばかりに見える男。
彼の瞳は黒色だった。僅かな濁りもない、光のかけらもない黒。深い谷底、果てなき深淵の如き双眸。
彼が私を捉えたとき、その瞳が恐怖に揺れたのを見逃さなかった。
「――――!? なっ………………!?」
そんな声を上げて男は後ずさるような動きを見せたが、すぐ後ろは巨大な瓦礫、距離をとることは叶わず、男もそれに気づいて今度は右手を私の方に突き出し近づかないよう示してきた。
傷と砂塵に満ちたその手は震えている。
男は怯えた反応を示し、今もなお、何も言わず突っ立っている私から少しでも離れようとして横方向ににじり動いていた。
しかしこちらに敵対する意思はない。
私は両手を上げて丸腰であることを示した。もとより、武器なんて持っていても扱えないのだが。
「…………」
「っ……………………」
男は姿勢を変えず私から視線をそらさなかった。
私もまた動こうとせず、男との距離を保ち続けた。
……しかしそんな状況が30秒ほど続いたころ、さすがに埒が明かなくなって、おもむろに口を開いた。
「…………えっと――――」
「っ、答えろ」
低い、男の声が重なった。
やはりその声は震えている。
「……お前、何者だ…………!? 殺しに、きたのか、俺を…………!」
「…………?」
男が問うたのは、そんな訳の分からないことだった。
……私は人間以外のなにものにもなった覚えはない。
無論、男を殺そうだなんて思ってもいない。ようやく見つけた一人の人間、尋ねたいことがいくつもあるというのだから。
もしかしたら彼もずっと一人で、突然他人と遭遇して混乱しているのかもしれない。
「見ての通り、人間です……けど」
そう答えるも、男は膝を震わせて今なお私から離れようとしている。
これではまともに会話できない。
一体何が彼をここまで恐怖させているのか。見当はつかないし心当たりもなかった。
「そ、そんなわけっ…………! どうせお前も、『あれ』なんだろ…………!」
「『あれ』…………?」
男の言葉には引っ掛かりを覚えたが、そんなことは知らず彼は言葉を続ける。
「それに、なんで服が汚れてすらいない…………!? どうせ、また、擬態したんだろう!?」
男が私を指さしそう言ったので、今更ながら自分の出で立ちを見てみると――
「え…………」
身に着けていたのは純白の手触りがよさそうなワンピースだったが、これまで随分な距離を歩き、瓦礫の山を登り、砂塵に吹かれたというのに、そこには一片の汚れもなかったのだ。
対して男の衣服はことごとく汚れボロボロだ。
私は説明するすべを持ち合わせていなかった。
「こ、これは、私にも分かりません…………っ! でも、私はただの人間で、あなたを殺そうだなんてことは――」
「そんなの信じられるわけない! 来るな…………!」
男はいよいよ駆けだそうとした。
ここで彼を見失ってしまっては、次に誰かを見つけるまでまた歩き回らなければいけなくなる。今回は焚き火と煙のおかげで辿り着けたが、次はどうなるか、どれだけの時間がかかるかは分からない。そもそも他に人がいるかどうかも疑わしい。
そんな焦りに駆られながらも、私にできることはなくて、それでも諦めるまいと頭を下げた。
その、直後。
「な――――」
男が漏らした声に顔を上げると、彼は目を見開いて、呆けたような表情をしていた。
「え、あ…………」
「……えっと、あの、私何かしてしまいましたか…………?」
そう声をかけると男はびくっと体を震わせ、目を覚ますかのように頭を振った。
「…………待て、お前、そのまま…………後ろを向け」
「え? は、はい」
言われるがままに背を向ける。数秒したら、後ろからドサッという人が崩れ落ちるかのような音と、大きなため息が聞こえた。
「あ、の…………それで私はどうすれば…………?」
「……いや、なんでもない。もう戻っていい」
その言葉に従い、ゆっくりと振り返る。
男は力が抜けたかのように尻をついていた。
そして彼は私を一瞥してから、長い沈黙の後に言うのだった。
「……………………座れ」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――じゃあ、お前は本当に(この街を)何も知らないってことか?」
「……そう、です」
「よくそれで死なずにいられたな……とんだ幸運だ」
私を椅子に座らせた男は、一つ間をあけたところに座り、地面に散らばっていた木の枝をいくつか拾って焚き火の中に放り込んだ。
パチパチと音を立てる弱々しい炎を見つめ、こちらに顔を向けぬまま、彼はいくつかの問いを投げかけた。
「…………お前、年は」
「え、あ、……じゅ、十五です」
「一人か?」
「は、はい」
「なんでこんなところにいる?」
「……それは、あの…………私にも、わからない、………です」
「は…………? なんだ? 自分でも分からないって、記憶喪失とでも言うのか?」
「ご、ごめんなさいっ、………ほんとに、分からないんです」
「……どこから来た?」
「それも、分からない、です」
「……お前、一応聞くが、『黒翼』は知ってるな?」
「ご、ごめんなさい」
「………………はぁ……どうなってんだよ……」
それから男はいろいろなことを話し始めた。私の知らない、この街について。
まずこの街は夜ノ瀬というらしい。聞いたことのない場所だ。
夜ノ瀬には約二十万の人々が住んでいて、近くの街よりもはるかに発展していた。
男は成人してから十八年、ずっとここに住んでいたという。
ちなみに男が三十六歳だということは分かったが、名前は尋ねても教えてくれなかった。彼もまた私の名を聞こうとしなかった。そんなことをしても意味がないと彼は言っていた。
そんな夜ノ瀬だが、今から丁度五年前に、街全体を襲う大地震があったらしい。
その影響でビルや住居の多くが倒壊、焼失したが、厄災はそれだけでは終わらなかった。
地震から数日後、夜ノ瀬は未知なる悪魔のような存在に襲われた。
「それ」は破滅の限りを尽くした。
逃げ惑う人々を刺し貫き、握り潰し、その無残な死体は放り投げられ踏み潰された。
数十から数百の異形が死をばら撒く光景は全世界に知れ渡り、その翼の生えた見た目からそれらは『黒翼』と呼ばれた。
ここ夜ノ瀬では一か月もたたないうちに都市機能が崩壊し二十万もあった人口は一気に一万にまで減少した。
災害とは比にならない災厄。安全な場所など何処にもなかった。
人々は地下にある複数のシェルターに籠もったが、それすらも襲われ破壊されたことがある
だができることは何もなく、ただ、黒翼が去るのを震えながら待つしかなかった。
――しかし悪夢のような蹂躙が始まって十五日が過ぎたとき、黒翼は次第に街から飛び去って行った。
辺りを跋扈していた化物は姿を消し、いくつもの血にまみれた死体と、崩壊した街並みを残していった。
その日から、夜ノ瀬の空は灰色に覆われている。
「……もうずっと太陽を見てない。街はボロボロ、家は崩壊、これだけで最悪だってのに、空は晴れない。陰鬱さ。頭がおかしくなりそうだ」
「…………」
「シェルターの中も空気が重くて嫌になってくる。だからこうやって、風に当たりに来た。……想像できるか? シェルターという地下空間で、黒翼に怯えながら五年も過ごすのを」
「……? シェルターにはまだ、人がいるんですか? でも黒翼はもういなくなったんじゃ……」
「まあ、あらかたはな。それでも何匹かは残ってるんだよ。そいつらは市庁舎あたりを巣窟にしている。地獄かってくらいには恐ろしいものを見せられてるから、たとえ少数でも、皆怖くて外になんか出てらいれない」
「……じゃあ、あなたはなんで、」
「俺は…………もう、いろいろ、諦めちまったからな。妻も息子も、ちょっと前に、シェルターで死んだ。出血が酷かったんだ」
彼は両の指を組んで焚き火に目を落としていた。その横顔に浮かぶは悲壮か、後悔か、それとも諦観か。
私はかけるべき言葉を見つけられなかった。
男の影がコンクリートの壁面に映ってゆらゆら揺れる。
口を開けたまま何も言えないでいる私を見て彼は気にするなとでもいうかのように手をひらりと振った。
「……俺のことはどうでもいい。もう、大体のことは話したぞ。他に聞きたいことは?」
「あ、えっと……じゃあ、その『黒翼』について」
「大層なことは言えないが、なんだ」
「どんな見た目、なんですか?」
「……そうだな。黒い肌で、下半身ははほとんど人間なんだが、上半身は獣だ。目は赤い。背中にでかい翼が生えてて、大体、大鎌みたいなものを持ってる。大きさは……あの屋根ぐらいまではある」
そう言って男は遠くの店のような建物を指さした。その高さ、およそ五メートルほどだろうか。なるほど化物といって差し支えない。
「あいつらが街を蹂躙できたのは、その力だけによるものじゃない。黒翼は……人間に擬態できる」
「擬態……」
「ほぼ人間そっくりにな。それでいくつものシェルターがやられた。ただその擬態は完璧じゃなかったから今ではもう通用しないんだがな」
「……それで、私に背中を見せろって言ったんですか?」
「黒翼の翼は擬態しても完全には隠し切れない。俺も一度見たことあるから分かる……で、まあ、外で人間に会うのなんか久しぶりでな。あんたを見て反射的に疑っちまった」
そういうことならば納得だ。廃墟を一人楽しそうに歩く化物に認定されていなくてよかった。
それにしても、人間に擬態する『黒翼』とやら。異形の風貌と破壊行為に走るその性格、擬態という能力、にわかには信じがたいが、この世のモノではないのだろうか?
ぐるりと首を回す。辺りの建物は全壊こそしていないものの、巨大な何かが存分に暴れまわったかの如くところどころが砕かれ抉られている。
ひとまわり高い高層マンションは中腹で鉄球が衝突したかのようにひしゃげていて、交差点に面した透明ガラスの商業ビルはぽっかりと穴が開いていて中が見えてしまっていた。
服屋と思しき建物の前では壊れかけのマネキンが乗用車に轢かれている。
街頭の大きなモニターはただ暗闇を映して沈黙し、目に映る看板は全て焼け焦げたかのように黒ずんでいる。
人影が消えて朽ち果てるのを待つだけとなったそれらは、全て虚しいオブジェクトと化している。
これだけの建物を、全部……。戦車が暴れたってこんなことにはならない。
「――黒翼は、ここだけじゃなくて他の街にもいるんですか?」
「いるな。夜ノ瀬が最初に襲われただけで、少ししたら他のところでも黒翼が現れたらしい。多分全国だろうな。どこからも救援が来ないのがその証拠だ。流石に外国は知らないが」
「そう、なんですか」
「とはいっても最近は見てないけどな。なんでも、何処かの誰かさんがあれを討伐しに街を回っているらしい。丁度一か月くらい前か……物資探しで別の街に行った奴らが撮った写真を見せてもらった。鉄の棒に貫かれて死んでるあれが何匹もいたさ」
「それは……」
「ああ、そりゃもう大変な光景だ。実際にこの目で見たわけじゃないが、あれは吐いてもおかしくないレベルだ……あんたはまあ、無理だろうな。――ここに来るまでに、血は見たか?」
「いえ……まだ、何も」
「ははっ、つくづく幸運だな……」
男は乾いた笑い声を上げた。
「俺はもう分からなくなってきた。街が誰かの血で濡れるようになってしまった……それでも、どこかに、あれを潰そうと動いている奴がいる。助けてくれる奴がいる。だから俺達も、安全な所に引きこもっているだけじゃ駄目だ」
「………………」
「あれを殺すだなんて到底無理だろうが、せめて、いつか『救世主』が来るその日まで耐えられるように、物資を集め、情報を集め、拠点を探した。……それで思ったんだ。もしかしたら、……いや、きっと、もう日常なんてものは戻ってこないんだろう、ってな。『災害』だから耐えるしかないって思っていたが、黒翼に対抗する人間が存在するなら、『災害』は『戦争』に変わるんだよ」
そこで男は大きく伸びをし、再び背中を丸めて、ため息を一つ吐いた。
そんなことはないだろうと分かっていながらも、その悲嘆に満ちたため息が、揺らめく弱い焚き火を揺らしたように見えた。
「――――もう、疲れた」
こんな壊れた街で黒翼に怯えながら細々と暮らして五年。
日常は跡形もなく奪われた。それを取り戻す術はなく、残った黒翼を排除するだけの力すらない。
それでも夜ノ瀬の人々は息をひそめているしかない。死にたくはないから。ただ『救世主』を待つ。いつか終わることを信じる。それが続いていく。
……彼らの時間は、五年前から止まっている。
それは、ただただ、
「……かわいそう」
かすかな呟きは男の耳には届かなかった。
救いがないなんて許されない。どのような形であれ、すべて生物は救われるべきだ。
たとえ罪を重ねようと。誰かの命を奪っていようが。
何人たりとも死に勝苦しみがあってはならない――――そう、強く思ったのは、なぜだろう。
紛れもない本心であることは確かなのに、妙な違和感を覚えた。
そんなことを考えていると、不意に男が上着のポケットに手を突っ込んで漁り、こちらに腕を突き出してきた。
開いたその掌にあったのは、濃い青色の縁が目立つペンダント。埋め込まれた写真には何者か二人と抱かれている赤子が映っている。
「妻も息子も死んで、家もなくなって、手元に残ったのはこれだけだ。結婚して一年経ったときに撮った写真……あいつも大事にしていたから、何か形にしようと思ってこれを作ったんだ」
男はそれを胸の前で握りしめる。
「……大事、なんですね」
「ああ、そうだ。本当にな。命に代えても守りたいぐらいに――――大事、だった」
「え……?」
ペンダントが空に掲げられる。
「これが俺の、唯一の未練だ。いなくなった妻と息子のためにもむざむざ死ぬわけにはいかないって思っていた。――――だがな、もう、いい加減疲れたんだ。黒翼から息をひそめて五年。結局、『救世主』は来なかった。もう信じられるものは何もない。きっと俺達は一生このままだ。光がないと分かっていて暗闇で生きていくなんて俺にはできない。だって、それはきっと…………生きているより苦しい。だから」
私は息を呑んだ。
その瞬間、彼が、街が、世界が――――白と黒に変わった。
「――――――――俺はもう、救われたい」
掲げられたペンダントは、彼の手を離れ、ただ重力に従って、ひび割れた地面へと落ちていった。
――――がしゃん、なんて音はしなかった。それはあまりにも小さい、焚き火の音にかき消されてしまうような、弱々しいものだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
少女は思い出していた。
在りし日の、暖かい午後。母親の腕に抱かれ、陽光を感じながら微睡んでいた。
黄金色の野原は風が吹くたびにざざぁと波打つ。揺れる母親の白髪が頬を撫でて少しくすぐったかった。
「〇〇」
母親が私の髪を梳きながら言う。
瞼を開けると、淡い白の目を細めて微笑んでいる母親の顔があった。
「きれいなところでしょう?」
ぼんやりと聞こえた声。
でも、幼い私はこの安らかな流れに身を任せることしかできなかった。
「…………んん………………」
膝の上でくるりと回って顔をうずめた。無意識に母親の服の裾を両手で掴んでいる。
「ああ、ごめんね。いいのよゆっくりしていて。私はずっと一緒にいるから、〇〇…………」
それからどれくらいの時間が過ぎただろうか。
「あ――――そうだ、〇〇。これ」
母親はふと思い出したようにポケットを探って、取り出したそれを私の手に握らせた。
「大事にしてね。またそれを持って…………ここに来ましょう」
優しく背中を撫でてくれる母親に、私は眠りに落ちる寸前、つぶやいた。
「…………うん。やくそく………………」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
男は散乱した薄青色の欠片を見つめてため息を吐いた。
先ほどまで手の中にあったペンダントは、跡形もなく砕け散った。
――そう、それは奇しくも、五年前に黒翼に襲われた時のように。握りしめた妻と息子の手が、己の手から力なく落ちていった時のように。
これでいいのだと思った。
もうこの街に希望はない。本当はそれが分かっていたのに、生に執着して、いや死を恐れて、今日という日まで呼吸をしてきた。
だがそれも終いだ。
夜ノ瀬――この壊れた街で停滞する者は絶えぬ苦しみを味わい続けることになるのだ。
俺は止まっていた時間を再び動かす。
少女にはああ言ったが、今日俺がシェルターを抜け出したのは、全てを終わらせるためだった。
場所は夜ノ瀬で最も高い塔。家族でも何度か行ったことのある場所。
しかし塔に行くには市庁舎の前を通る必要があった。黒翼の巣窟、その眼前を。
それが怖くて、いつまでたっても前に進めず、あんなところで立ち止まっていた。
死ぬと決めたのに情けないと我ながら思った。
一時間あまり焚き火を眺めてぼうっとしていた。
そうしたら、道の向こうから少女がやってきたのだ。
風に靡く絹の如き白髪と、大きな白い瞳をもった少女。
動揺した。
少女は手ぶらで、ここまで歩いてきた様子だった。
身に纏う服は汚れを知らぬ白さ。
簡単に折れてしまいそうな華奢な手足。
そして儚くも神秘すら覚えるほどに整った相貌。
黒翼だ。
そう思った時には両足が震えて言うことを聞かなくなっていた。
結局、俺はこの期に及んで死に恐怖していたのだ。
黒翼や夜ノ瀬について何も知らないという少女に色々と話している中で、俺はどこか満足した気分だった。
孤独は、嫌だった。家族を失って、一人で生きて、死ぬ時まで一人なのは嫌だった。
そしてそんな俺の前に少女が現れた。
ああ――そうだ。ちっぽけな満足だ。死ぬ前に誰かと言葉を交わしたいだなんて。
でもここではそれすら叶わない人間が数多いるんだ。
だから俺は、もしかしたら、幸運な方なのかもしれない…………。
「――――あの」
そんな物思いに耽っていると、少女の声が耳朶を打った。
いつの間にか立ち上がっている。
俺が口を開くより先に少女が言った。
「あなたは、救われたいですか?」
何を言っているんだと答えることも出来たが、どうせ意味もないだろうと思って、頷いた。
「――そう、ですよね。分かります。希望がないまま生きていくなんて、つらいだけですよね。何もかも全部、諦めたくなりますよね。だから」
そんな言葉とともに、少女は両手を大きく広げた。それは、さながら、子を抱きしめる母親のよう。
「――――あなたに、救いを」
刹那、辺りに光が差した。見上げると、立ち込めていた黒い雲が割れそこから一筋の陽光が少女を照らしていた。
目を見開く。
それは長らく失われていたもの。
五年ぶりの太陽はひどく眩しくて、雲の割れ目から覗く空は目に痛いほど青かった。
少女は微笑んでいた。この街並みに不釣り合いな、少女が浮かべるには似合わない、しかし女神を思わせる優し気な笑み…………。
「辛かったでしょう。孤独だったでしょう? でも、もう苦しむ必要はありません。あなたは十分に生きました。大きな苦痛を伴って。
あなたは愛する人を奪われ、守るべき日常を喪い、それでもその足で立ち続けた。せめて自分だけは生きようと。
――しかしその先に何があったでしょうか?
黒翼に怯えながら、頼りない希望に願うだけの毎日です。
いつしかあなたは悟った。自分を待つのは、果てなき苦しみであることを。
ですがそれは…………あまりにも悲しすぎます。この苦痛に満ちた世界を生きる全ての生あるものは、いつか、必ず、救われなければならない」
少女は目を伏せ、心臓の辺りに手を当てた。
「あなたは分かっているのでしょう? 自分を救える唯一のものが何であるか。そして仕方がないと思っていながらも、選択を後悔している。今なお苦しんでいる」
…………そうだ。その通りだ。俺は『救世主』なんて希望を信じながら、一つの願望を抱いていた。
自分で、終わらせるのではなく。
できることなら誰かに終わらせてほしいと。
「ならば私がそれをもたらしましょう。その時初めて――あなたは救われる」
暗雲に数多の穴が生じ、幾筋もの光が地上を照らす。
…………ああ、救いは、ここにあったのか。
俺はそんなことを思った。
少女はこちらに手を差し伸べている。
その白い手を掴めば、もう終わるのだと。確かにそう感じた。
俺は椅子から立ち上がり少女と向き合う。
薄青色の欠片を踏みつけたが最早気にならなかった。
「…………なあ、あんた」
「なんでしょうか」
「それは、さ…………やっぱり、苦しいものなのか?」
少女は大きな目をさらに見開き、やがておかしそうに笑った。
「…………ふふっ。いいえ。苦しくなんてないですよ。だってこれは、『救い』なんですから。あと――」
白と黒が混じった空を見て言う。
「――高いところの眺めよりは、怖くないと思います」
今度はこちらが目を見開く番だった。
思わず苦笑が漏れる。
「なんだ、そんなことまで気づいてたのか」
「はい。見れば分かりますよ。慣れてますから」
頬をかきつつ少女の手をとる。その手は冷たく体温がなかった。
「――それでは、いいですか?」
「ああ。…………いや、その前に一つ、いいか」
「なんでしょう?」
俺は先ほどから覚えていた疑問を口にする。
「お前、名前は?」
大体の予想はついていた。
「…………そうですね。いろいろありますが――」
少女は一拍置いて、
「――今は、『救世主』と呼ばれています」
と答えた。
笑みがこぼれる。まさかこんな時になって何度も笑うことになるとは思わなかった。
『救世主』。まったく、その通りだ…………。
「では、目を瞑って下さい」
視界が暗闇に変わる。
そして両耳が塞がれた。
ただそこに少女の気配だけを感じる。
恐怖はなかった。どこか安らかにすら思えた。
壊れたこの世界で、ようやく見つけた救い。
俺は止まっていた時間を再び動かす。
何か遺せたものはあったものはあっただろうか、とか、そんなことはどうでもよかった。
未練はない。あるのはようやく終わるのだという純粋な喜び。
俺はどんな顔をしているのだろうか。きっと涙は流していないだろう。
額に唇の柔らかな感触を感じて、だんだんと意識が薄れていった。
――ああ、これが「救い」だ……。
それはどこまでも心地の良いものだった。
『ありがとう』
微かに、呟いた。
そして、消えゆく意識の中、その最後に、
「おやすみなさい」
という言葉を聞いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
少女はしばしの間、その大樹を見つめていた。
大樹はぽっかりと空いた雲の穴から差す白い陽光に照らされていた。
少女は両の手を握って大樹に祈り、
「…………行こう」
そう呟いて背を向けた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
道の先には幼い少年の姿があった。
閉ざされたシャッターに背を預け俯いている。
少女は彼に話しかけることにした。
「こんにちは」
その声に驚いた少年は肩をびくっと揺らし、恐る恐る顔を上げた。
まだ七、八歳だろうか。
その両目には涙が溜まっていた。
「ひっ…………」
少年は驚愕に顔を引きつらせ、立ち上がって逃げ出そうとした。
「あっ、待って下さい……私は黒翼じゃないですよ? ほら」
だが少女もそんな反応は予想していたようで、逃げようとする少年に自らの背を見せた。
少年はそれを一瞥すると、ほっとしたような表情を見せたが、すぐにしかめっ面になって「……なんですか」と言った。
少女は彼の元に歩いていき、しゃがんで目線を合わせた。
片手で頭を撫でながら問いかける。少年は体をこわばらせたがその手を振り払いはしなかった。
「こんなところでどうしたんですか?」
「……………………シェルターを、抜け出して………」
少し逡巡しつつもそう答えた。
「どうして抜け出してきちゃったんですか?」
「そ、それは、……………だって、つまんないから……………」
「つまらない?」
「お、お父さんもお母さんも、外に出ちゃダメだって言うんだ。でも、『こくよく』っていうのも最近は見つかってないって誰かが言ってたし、あんなところずっといてつまらなかったから、友達と、こっそり外に出て……………それで、」
「はぐれちゃって、帰り道も分からなくなった、ですか?」
少年は不服そうに小さく頷いた。
「……あなたは、これからどうしたいですか?
「え…………そ、それは、友達を見つけて、シェルターに」
「ああ、違います、今の状況じゃなくて、夜ノ瀬がこれからどうなってほしいかってことです。あなたはこのままでもいいんですか?」
少年は勢いよく首を横に振った。
「そんなわけない! ちゃんと元に戻って、学校に行きたいし、ゲームもしたいし、それに……」
「そうですよね。日常に戻りたいですよね。でも、今はどうですか?」
「今は……何もできなくて、毎日、つまんない」
「なら、どうしたらいいと思います?」
「それは、『こくよく』ってやつを全部倒して、街を安全にして、みんなで建物を直せば――」
「でも人間に黒翼は殺せません。黒翼が夜ノ瀬に住み着いている限り人間はシェルターから出てこず、ずっとこのままです。諦めますか?」
「い、いやだ! だって、ずっと外に出られないなんて……それに、ご飯も毎日同じだし、たくさん食べられないし……こんなの、いやだ! もう――」
「もう?」
「――――もう、誰か、助けてほしい!」
その言葉を聞いて少女は柔らかく微笑んだ。
「そうですか」
頬に手を添える。
次の瞬間、驚いている少年を意に介さず、少女は額に口付けをした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
それからどれだけの人間に会っただろう。
制服を着た少女に、杖をついた老女、盲目の男性、片足を怪我をした母親。私を恐れる者もそうでない者もいた。
彼らは、みな、救いを求めていた。
誰もが絶えぬ苦しみの中を生きて、命をすり減らしていた。
だから少女はその願いを叶えた。
だというのに、彼女の心は満たされなかった。
根底にあったのは、ただ、歩みを止めてはならないということだけだった。
初めに見つけた白のペンダントは、今、少女の手に握りしめられている。
己が何者であるかを忘れてもそれだけはそれだけは手放さなかった。
――再び失ってしまうことを恐れて。
『救世主』と呼ばれた虚ろな目をした少女は、長い通りを歩いていく。
疲労を感じることがないから、歩みは止まらなかった。
彼女の歩いてきた道には何本もの木が立っている。
その大きさは様々だったが、いずれも青々とした葉を茂らせていた。
少女は最後の一人の大樹に祈りをささげると、立ち上がり、通りを振り返った。
空は彼女を追うように晴れていて、透き通るような陽光が灰の地面と木々を照らしていた。
街はどこまでも沈黙している。もはや少女以外に音を立てるものは存在しなかった。
ああ、夜ノ瀬は、救われたのだ。
そう思っても彼女は充足を覚えず、慣れてしまった虚無にひとつ、ため息を吐いた。
さびれた「夜ノ瀬」の看板を過ぎるとき、少女はもう一度後ろを見た。
それはもう見慣れた景色だった。
きっとこれからも見ることになるだろう。
彼女の時はもう、止まっているのだから。
一陣の風が通りを駆け抜ける。
揺れる長い白髪をかき上げた。
「…………これで、終わり」
少女は夜ノ瀬に背を向けて歩き出す。
ぱしゃっ、と水たまりを踏む音が、静かな通りに何度か木霊した。




