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王女を救うため、俺は因果を三回書き換える。代償は、彼女の記憶から消えること

作者: Lihito
掲載日:2026/05/12

 首に縄がかかっている。


 空は青い。雲一つない。処刑日和だ、と誰かが言っていた。

 

 広場を埋め尽くす群衆が、俺を見上げている。憎しみ、好奇、哀れみ。様々な視線が突き刺さる。


 レイン・ヴェルト。王女付きの侍従。

 それが昨日までの俺だ。


 今は違う。

 王女暗殺の大罪人。


 笑えてくる。

 俺がやったわけではない。だが、それを訴えたところで何になる。


 処刑台の端に、宰相グレイモアの姿が見えた。五十がらみの、神経質そうな顔。俺の死を見届けに来たらしい。


 目が合った。

 宰相が、薄く笑った。


 ——お前の負けだ。


 そう言っている。


 ああ、そうだろうな。

 お前の勝ちだ。王女を毒殺し、俺に罪を着せ、邪魔者を一掃した。完璧な計画だった。


 だが——まだ終わっていない。


 俺は懐の中にある物の感触を確かめた。


 懐中時計。

 針は、あと三目盛りを残している。



      ***



 この時計を手に入れたのは、五年前のことだ。


 王宮の書庫を整理していた時、古い木箱の中に転がっていた。誰の物かも分からない、錆びついた懐中時計。


 手に取った瞬間、頭に声が響いた。


『契約が成立した』


 それだけだった。

 説明も、警告もなく。ただ、一つだけ「分かった」ことがある。


 この時計は、因果を書き換える。


 過去に起きた「不確定な事実」を、俺の望む形に確定させる力。

 針が一周するまで、あと三回だけ使える。


 そして——使い切った時、俺は消える。

 存在ごと。誰の記憶からも。


 五年間、一度も使わなかった。

 使う理由がなかった。


 王女の側で、平穏に暮らしていた。それだけで十分だった。



      ***



 王女——アリシア様に初めて会ったのは、十五年前。


 俺は孤児だった。

 王宮の下働きとして拾われ、掃除や荷運びをしていた。


 ある日、廊下で転んだ。抱えていた薪が散らばった。

 慌てて拾い集めていると、小さな足が視界に入った。


 顔を上げると、金髪の少女がいた。五歳くらい。青い瞳が、俺を見下ろしていた。


「大丈夫?」


 王女だった。

 俺は慌てて頭を下げた。下働きが王族に話しかけられるなど、あってはならない。


「怪我してる」


 王女が俺の手を指さした。薪を拾った時に擦りむいたらしい。血が滲んでいる。


「お、恐れ入ります。すぐに下がりますので——」


「待って」


 王女が懐から布を取り出し、俺の手に巻いた。

 絹だった。王族が使う、高価な絹の布。


「これで平気」


 王女が笑った。

 太陽のような笑顔だった。


 それが始まりだった。



      ***



 なぜか王女は、俺を気に入った。


 下働きの孤児と王女。身分の差は天と地ほどある。だが、王女は気にしなかった。


 暇を見つけては俺を呼び出し、話し相手にした。最初は恐縮していた俺も、次第に慣れていった。


 八歳の時、王女が言った。


「ねえ、レイン」


「はい」


「私が困った時、助けてくれる?」


 唐突な質問だった。

 俺は少し考えて、答えた。


「当たり前です」


「本当?」


「約束します」


 王女が嬉しそうに笑った。


 あの笑顔を、俺は十五年間、守ってきた。


 なのに——



      ***



 王女が十五歳になった年、俺は正式に侍従として仕えることになった。


 誕生日の夜、俺は王女に贈り物を渡した。


 銀色の小さなペンダント。中央に青い石がはめ込まれている。

 下働き時代からの給金を、少しずつ貯めて買った。


「殿下。これを」


「えっ……何、これ」


「お誕生日の贈り物です」


 王女が目を丸くした。


「レインが、私に?」


「お守りとして、身につけていただければ」


 王女はペンダントを手に取り、しばらく見つめていた。

 そして——泣き出した。


「殿下? お気に召しませんでしたか」


「違う、違うの」


 王女は涙を拭いながら、笑った。


「嬉しいの。レインからもらえたのが」


「は、はあ……」


「ありがとう。大切にする」


 それ以来、王女はペンダントを肌身離さず身につけていた。



      ***



 ——同じ夜。王女アリシアの私室。


 夜更けだった。

 王女は窓辺に立ち、月を見上げていた。


 首には、銀のペンダント。

 手のひらで、何度も握りしめる。冷たい金属が、少しずつ体温で温まっていく。


「……ばか」


 誰もいない部屋で、彼女は呟いた。


「あなたから貰えるなら、石ころだって、同じように泣いたのに」


 窓に額を押し付けた。

 昼間、各国の王族から届いた誕生日の贈り物の山。金細工、宝石、絹の反物。

 全部、どうでもよかった。


 最後に部屋に来た侍従が、慎ましい銀のペンダントを差し出した時——彼女ははっきりと自覚した。


 ずっと、好きだった。


 いつから、と問われても答えられない。

 廊下で擦りむいた手に絹の布を巻いた、あの日からかもしれない。

 「私が困った時、助けてくれる?」と訊ねたら、真顔で「約束します」と返してきた、あの瞬間からかもしれない。


 でも——口にすることはできなかった。

 王女と侍従。彼女と彼の間にあるのは、千年積もった岩のように動かない壁。


 泣くしかなかった。

 嬉しさと、悲しさと、諦めと。全部が混ざった涙。


 レインは慌てていた。「お気に召しませんでしたか」と。

 ばかね、と心の中で繰り返した。

 あなたが選んでくれた。それだけで、私は——。


 ペンダントを握りしめた。


 ——せめて、このままで。

 もう一歩も近づけないなら、せめて、この距離のままで。

 あなたが、私の隣に立ち続けてくれるなら。


 それが、十五歳の王女が月に祈った全てだった。



      ***



 七日前。


 俺は王女の部屋で、いつものように茶を淹れていた。


 扉が開き、宰相が入ってきた。侍女を二人連れている。


「王女殿下。本日の茶会の件でご相談が」


「宰相。入室の許可を取っていないはずですが」


 王女の声が冷たくなった。

 王女は宰相を信用していない。俺も同じだ。


「失礼いたしました。火急の用件でしたもので」


 宰相が頭を下げる。だが、目は笑っていない。


「侍女が新しい茶葉を持参いたしました。殿下のお口に合うかと」


「結構です。レインが淹れた茶で十分です」


「そう仰らずに。一口だけでも」


 押し問答が続いた。

 結局、王女は根負けした。一口だけ、と。


 侍女が茶を淹れた。

 王女が口をつけた。


 その瞬間——王女の顔色が変わった。


 杯が床に落ちた。

 王女が崩れ落ちた。


「殿下!」


 俺は駆け寄った。だが、宰相の護衛に取り押さえられた。


「毒だ! 侍従が毒を盛った!」


 宰相が叫んだ。


 違う。茶を淹れたのは侍女だ。俺ではない。


 だが、誰も聞いてくれなかった。


 侍女たちは「レインが茶葉に毒を仕込んでいた」と証言した。

 宰相が「以前から不審な動きがあった」と追認した。


 俺は反論する間もなく、地下牢に放り込まれた。



      ***



 三日後、王女の死が発表された。


 毒殺。犯人は侍従のレイン。動機は不明。


 嘘だ。全部、仕組まれている。


 だが、俺に証明する手段はない。


 いや——一つだけ、ある。



      ***



 王女の遺体は、大聖堂に安置されている。


 宰相は「蘇生魔法を防ぐため」という名目で、遺体を強力な対魔法結界の中に隔離した。


 誰も近づけない。

 俺の力も、届かない。


 結界が解除されるのは、国葬の時だ。

 衆人環視の中、王女の棺が祭壇に運ばれる。その瞬間だけ、結界は解かれる。


 もし今、王女を「仮死状態だった」ことにして目覚めさせても、結界の中で宰相に気づかれる。その場で殺される。本当の死を迎える。


 だから、待つしかなかった。


 国葬まで。

 結界が解除され、宰相が手を出せない状況になるまで。


 そのためには——俺が、生き延びなければならない。



      ***



 処刑人が近づいてくる。


「最後に言い残すことは」


 形式的な問いかけ。答えても意味はない。


「ない」


 処刑人が頷き、合図の旗を掲げた。


 群衆がざわめく。

 宰相が、満足そうに頷いている。


 俺は懐中時計を握りしめた。


 考えろ。

 

 処刑台を壊す? 無理だ。頑丈すぎる。

 縄を切る? 手は縛られている。

 

 ——待て。


 処刑を「止める」必要はない。

 処刑を「見届けさせなければ」いい。


 今日は国葬の前日。王都中が喪に服している。

 大聖堂では、今まさに「前夜祭」が行われている。王族、貴族、聖職者——全員がそこにいる。


 広場からでも、大聖堂の鐘楼が見える。

 あの鐘楼は、百年以上前に建てられた。何度か修繕されているが、北側の支柱は特に古い。


 もし——北側の腐食が、想定より進んでいたら?


 俺は時計の針に触れた。


 因果改変。

 一回目。


『鐘楼の北側支柱は、三十年前の修繕で使われた木材に、致命的な虫食いがあった』


 世界が、歪んだ。



      ***



 轟音が響いた。


 処刑人の手が止まった。群衆が振り返った。宰相の顔が強張った。


 大聖堂の鐘楼が——崩れていく。


 ゆっくりと、北側に向かって。

 巨大な塔が傾き、轟音と共に倒壊していく。


「何が起きた!」


「大聖堂が!」


 広場が騒然となった。

 警備兵が駆け出す。宰相が何か叫んでいる。


 処刑人も振り返っていた。

 旗を持った手が、下がっている。


 今だ。


 俺は体をよじった。縛られた手首を、背中から前に回す。体が硬いが、やるしかない。


 肩が軋む。だが、通った。


 首の縄に手をかける。結び目を探り、緩める。処刑用の縄は、すぐに締まるよう作られているが、まだ締まっていない。


 縄が外れた。


 俺は処刑台の床に身を伏せ、端まで這った。誰も見ていない。全員が、崩れ落ちる鐘楼を見ている。


 処刑台の下に滑り落ちる。暗闇の中、裏路地に続く排水溝が見えた。


 俺は身を滑り込ませた。



      ***



 排水溝を抜け、路地裏に出た。


 縄を噛み千切り、手を自由にする。

 

 遠くで、まだ騒ぎが続いている。

 大聖堂の方角から、煙が上がっていた。


 俺は懐中時計を取り出した。

 針が、一つ進んでいる。


 残り、二回。


 国葬まで、あと三日。

 追っ手を撒き、大聖堂に潜入し、その時を待つ。


 俺は走り出した。


 アリシア様。

 もう少しだけ待っていてください。


 必ず——約束を、守りますから。



      ***



 王都の裏路地を走る。


 処刑場から逃げて、もう二刻は経っただろう。だが、まだ安全ではない。


 背後から、怒号が聞こえる。


「逃がすな! 必ず捕らえろ!」


 追っ手だ。

 俺の逃亡は、すぐに発覚したらしい。


 考えてみれば当然だ。処刑が中断され、罪人の姿が消えた。大聖堂の崩落と関係があると疑われてもおかしくない。


 路地を曲がる。また曲がる。

 

 王宮で働いていた頃、この辺りはよく歩いた。王女の使いで、街の菓子屋や仕立屋を回っていた。


 あの頃は、平和だった。


 ——今は違う。


 足を止めた。

 行き止まりだ。


 背後から、足音が迫る。


「いたぞ!」


 三人。剣を抜いている。


 俺には武器がない。戦闘の訓練も受けていない。侍従だ。茶を淹れ、書類を整理し、王女の話し相手をするのが仕事だった。


 逃げ場はない。


 諦めるか?

 ——いや。


 俺は壁を見た。古い煉瓦造り。ところどころ崩れている。


 登れる。


 俺は壁に飛びついた。指先が煉瓦の隙間を掴む。足をかけ、体を引き上げる。


「待て!」


 追っ手が叫ぶ。だが、俺は止まらない。


 屋根に手が届いた。体を引き上げ、瓦の上に転がり出る。


 追っ手の一人が壁に取りついた。だが、鎧が重いのだろう。なかなか登れない。


 俺は走った。

 屋根から屋根へ。



      ***



 日が暮れた。


 俺は廃屋の中に身を潜めていた。

 追っ手の目を何とか撒いたが、油断はできない。


 懐から、懐中時計を取り出す。

 針は、残り二目盛り。


 使うか?

 いや、まだだ。三回目は王女のために残しておかなければならない。二回目は、どうしても必要な時まで温存する。


 窓の外を見た。

 大聖堂の方角。崩れた鐘楼の残骸が、夕闇に照らされている。


 あそこに辿り着けば、国葬まで身を潜められる。


 だが、大聖堂の周囲は厳重に封鎖されているはずだ。崩落の原因究明と、国葬の警備。二重の意味で、近づくのは難しい。


 どうする。


 考えろ。

 俺には力がない。武器もない。魔法も使えない。


 だが——情報はある。


 十五年間、王宮で働いてきた。宮廷の人間関係、派閥争い、誰が誰を憎んでいるか。全部知っている。


 追っ手を率いているのは誰だ。

 処刑場で見た顔を思い出す。


 ——ヴァルド。


 宰相の腹心。近衛隊の副長。野心家で、手段を選ばない男。


 三年前、ある事件があった。

 宮廷の金庫から金貨が消えた。調査の結果、下級官吏の横領と判明し、その男は処刑された。


 だが、俺は知っている。

 本当の犯人は、ヴァルドだった。


 下級官吏に罪を着せ、自分は出世した。

 その証拠——横領の記録と、ヴァルドの筆跡が一致する帳簿——は、握り潰されたはずだ。


 だが、本当に全て消えたのか?


 宮廷の書記官は、重要な書類は必ず控えを取る。それが習慣だ。あの時の担当書記官は……確か、ゲラン。慎重な男だった。控えを残していてもおかしくない。


 もし、その控えがまだ存在していたら。

 そして、今朝——匿名で王宮に届いていたら。


 ヴァルドはどうする?

 追跡を続けるか?


 いや。奴は保身を優先する。自分の破滅に繋がる証拠が出回っているなら、それを握り潰すことを最優先にするはずだ。



      ***



 翌朝。


 俺は廃屋を出て、大聖堂に向かった。


 人通りの少ない路地を選んで進む。封鎖を避け、裏道を縫うように。


 だが——甘かった。


「見つけたぞ」


 背後から声がした。

 振り返ると、馬から降りた男が立っていた。


 ヴァルドだ。


 剣を抜いている。だが、一人だった。


「……部下はどうした」


「俺一人で十分だ」


 ヴァルドが笑った。


「お前を捕らえた手柄は、俺のものだ。分ける気はない」


 野心家らしい発想だった。

 俺を捕らえれば、宰相からの覚えがさらに良くなる。出世に繋がる。だから、誰にも知らせず、単独で追っていた。


 俺にとっては、好都合だった。


「ヴァルド」


 俺は言った。


「お前に訊きたいことがある」


「何だ。命乞いか」


「三年前のこと、覚えているか」


 ヴァルドの表情が変わった。


「金庫の横領事件。下級官吏のバルトが処刑された」


「……それがどうした」


「本当の犯人は、お前だろう」


 ヴァルドの顔から、笑みが消えた。


「何を根拠にそんなことを」


「根拠?」


 俺は、賭けに出た。


「今朝、王宮に届いたはずだ。匿名の書状が」


 ヴァルドの顔色が変わった。


「三年前の帳簿の控え。お前の筆跡と一致する証拠。ゲラン書記官が、ちゃんと保管していた」


「……何を言っている。そんなものは——」


「ないのか? なら、なぜ顔色が変わった」


 ヴァルドが一歩後ずさった。

 俺は畳みかけた。


「お前が今ここで俺を殺しても、証拠は残る。宰相がお前を守ってくれると思うか? 自分の手が汚れるなら、お前を切り捨てるだろう。お前が一番よく知っているはずだ」


 ヴァルドの剣が、わずかに震えた。


 だが——


「……ハッタリだな」


 ヴァルドが吐き捨てた。


「証拠が届いたなら、俺は今頃ここにいない。王宮で弁明に追われているはずだ。つまり、そんな書状は届いていない」


 読まれた。

 確かに、ハッタリだ。証拠は実際には届いていない。俺の推測に過ぎない。


「口先だけは達者だな。だが、終わりだ」


 ヴァルドが剣を構え直した。


 俺は懐中時計を握りしめた。


 仕方ない。

 使うしかない。


 因果改変。

 二回目。


『三年前、ゲラン書記官は帳簿の控えを保管していた。そして昨夜、何者かがそれを発見し、今朝、匿名で王宮に届けた』


 世界が、歪んだ。



      ***



 馬の蹄の音が響いた。


 ヴァルドの動きが止まった。


 路地の入口に、伝令の兵士が駆け込んできた。


「副長! ここにおられましたか! 王宮から至急のお呼びです!」


 ヴァルドの顔が蒼白になった。


「……何だと」


「今朝、王宮に匿名の書状が届きました。副長に関する重大な告発が——」


「馬鹿な!」


 ヴァルドが叫んだ。その顔から、血の気が引いていた。


 俺はその隙を逃さなかった。


 背後の壁に飛びつく。煉瓦の隙間に指をかけ、体を引き上げる。


「待て!」


 ヴァルドが叫ぶ。だが、追ってこない。

 伝令の目がある。ここで俺を斬れば、「なぜ単独で追っていたのか」を問われる。王宮からの呼び出しを無視すれば、告発が事実だと認めるようなものだ。


 俺は塀の上に這い上がり、向こう側に飛び降りた。



      ***



 日が暮れる頃、俺は大聖堂の北側に辿り着いた。


 崩れた鐘楼の瓦礫が、山のように積み重なっている。

 周囲には兵士がいるが、瓦礫の中までは見ていない。危険だからだ。いつさらに崩れるか分からない。


 俺は瓦礫の山を見上げた。


 昨日、鐘楼を崩した時。

 なぜ「北側に倒れるように」改変したのか。


 答えは、ここだ。


 北側回廊と瓦礫の間。煉瓦と木材が複雑に絡み合い、人一人が入れる空間ができている。


 処刑台から逃げるためだけなら、どこに倒れても良かった。

 だが、俺は「北側」を選んだ。


 国葬まで身を隠す場所を、同時に作るために。


 俺は身を低くして、瓦礫の隙間に滑り込んだ。


 暗い。狭い。煉瓦の欠片が背中に刺さる。

 

 だが、隠れられる。

 

 国葬まで、あと二日。


 俺は懐中時計を取り出した。

 針は、残り一目盛り。


 最後の一回。

 これを、王女のために使う。


 俺は目を閉じた。


 体が疲れている。

 眠らなければ。国葬の日まで、体力を温存しておかなければ。


 瓦礫の隙間で、俺は眠りに落ちた。


 夢を見た。


 幼い王女が笑っている。

 金色の髪。青い瞳。太陽のような笑顔。


「レイン、約束だよ」


「ああ。約束だ」


 俺は夢の中で、何度でも答えた。



      ***



 国葬の日が来た。


 瓦礫の隙間から、大聖堂の広場が見える。

 数万の群衆が集まっていた。王族、貴族、聖職者、そして民衆。王女の死を悼むために。


 違う。

 悼んでいるのは、一部だけだ。


 宰相グレイモアは、この国葬を利用して自分の権威を固めようとしている。「王女を守れなかった」という悲劇の演出で、同情を集め、発言力を高める。


 見え透いた茶番だ。

 

 だが——今日で終わる。



      ***



 祭壇に、棺が運ばれてきた。


 白い棺。銀の装飾。その中に、王女が眠っている。


 結界は解除されている。

 衆人環視の中、蘇生魔法を防ぐ結界を張り続けることはできない。「王女の魂を縛っている」と批判されるからだ。


 今なら、俺の力が届く。


 宰相が祭壇の前に立った。

 群衆に向かって、演説を始める。


「本日、我々は偉大なる王女アリシア殿下を、神の御許へとお送りいたします」


 白々しい。

 お前が殺したのだ。


「殿下は、毒によって命を奪われました。犯人は、殿下の侍従——レイン・ヴェルト」


 群衆がざわめく。

 俺の名前が、憎しみと共に囁かれる。


「この卑劣な罪人は、処刑の直前に逃亡いたしました。必ずや捕らえ、殿下の御霊に報いる所存です」


 宰相が、悲痛な表情を作って見せた。

 演技だ。全部、演技だ。


 だが——もう十分だ。


 俺は瓦礫の隙間から這い出た。



      ***



 広場に、俺の姿が現れた瞬間、騒ぎが起きた。


「あれは——」


「罪人だ! レインだ!」


 兵士たちが剣を抜く。群衆が悲鳴を上げて逃げ惑う。


 だが、俺は止まらなかった。

 祭壇に向かって、真っ直ぐ歩いていく。


「止まれ!」


 兵士が立ちはだかる。剣を突きつけられる。


 俺は足を止めなかった。


「斬れ」


 俺は言った。


「斬りたければ斬れ。だが、その前に——宰相に訊きたいことがある」


 宰相の顔が歪んだ。


「何を言っている。こやつを捕らえろ!」


 兵士たちが俺を取り囲む。だが、俺は声を張り上げた。


「宰相! 王女を殺した毒は、何だ!」


 広場が静まり返った。


 宰相が、冷たく笑った。


「何を今さら。検死で明らかになっている。蒼月花の抽出毒だ。お前が盛った毒だろう」


 蒼月花。

 無味、無臭、無色。暗殺に使われる毒の定番だ。宰相がこれを選んだのは当然だろう。


「俺は盛っていない」


「往生際が悪いな。証拠は揃っている」


「ああ、毒はあった」


 俺は宰相を見据えた。


「だが、お前と俺では、『毒』の認識が違うようだ」


 宰相の眉が動いた。


「……何を言っている」


「蒼月花の毒は、特定の金属と反応すると、性質が変わる。知っていたか?」


 宰相の顔色が、わずかに変わった。


「古い文献にしか載っていない。純度の高い銀に、微量のミスリルが含まれている場合——蒼月花の毒は、致死性を失い、仮死状態を引き起こす」


「何を馬鹿な——」


「王女が身につけていたペンダント」


 俺は棺を指さした。


「王女が肌身離さず身につけていた、銀のペンダント。今も、殿下の首にかかっているはずだ」


 群衆がざわめいた。


「あのペンダントを作った職人は、装飾のために特殊な銀を使った。古代の技法で、ミスリルを微量に含む合金だ」


 宰相の顔が、蒼白になっていた。


「王女が毒を飲んだ時、ペンダントは首にかかっていた。毒が体内に回る前に、ペンダントの金属と反応した」


 俺は祭壇に向き直った。


「王女は——死んでいない」


 群衆がどよめいた。


 宰相が叫んだ。


「出鱈目だ! 検死で毒が検出されている! 王女は確かに——」


「検死で検出されたのは、蒼月花の成分だ。だが、それが『致死性だった』とは限らない」


 俺は懐中時計を握りしめた。


 これが、最後だ。


 因果改変。

 三回目。


『あのペンダントを作った職人は、装飾のために古代の合金を使用した。その合金には、微量のミスリルが含まれていた』


 世界が、歪んだ。



      ***



 棺の中から、音がした。


 咳き込む音。

 息を吸う音。


 群衆が息を呑んだ。


 棺の蓋が、内側から押し上げられた。


 ゆっくりと、白い手が現れた。

 金色の髪が見えた。

 

 そして——青い瞳が、開いた。


「……ここは」


 王女アリシアが、棺の中から身を起こした。


 広場が、静寂に包まれた。

 

 誰も、声を出せなかった。


 王女が周囲を見回した。

 宰相を見た。

 俺を見た。


「レイン……?」


 その声は、掠れていた。何日も使っていなかった喉。


「アリシア様」


 俺は膝をついた。


「お目覚めになりましたか」


「私は……何が……」


 王女が額に手を当てた。記憶を辿っているのだろう。


「お茶を……宰相に勧められて……飲んだら、急に……」


 群衆がざわめいた。


 宰相の顔が、土色に変わっていた。


「よ、妄言だ! 仮死状態から目覚めたばかりで、記憶が混乱しているのだ!」


「混乱?」


 王女が宰相を見た。

 その目は、もう朦朧としていなかった。鋭い、意志の光を宿していた。


「宰相。私ははっきり覚えています。あなたが侍女に命じて、茶を淹れさせた。あなたが、私に飲むよう勧めた」


「そ、それは——」


「そして、私が倒れた瞬間、あなたは叫んだ。『毒だ、侍従が毒を盛った』と。私がまだ床に倒れている時に」


 王女の声が、広場に響いた。


「なぜ分かったのですか、宰相。私が毒で倒れたと。検死もしていないのに」


 宰相の顔から、血の気が引いた。


 群衆が、宰相を見ていた。

 王族が、宰相を見ていた。

 兵士が、宰相を見ていた。


 数万の目が、一人の男に向けられていた。


「ち、違う、私は——」


 宰相が後ずさった。


「私は、王国のために——」


「捕らえなさい」


 王女が静かに言った。


「宰相グレイモアを、王女暗殺未遂の容疑で拘束しなさい」


 兵士たちが動いた。

 宰相が抵抗しようとしたが、無駄だった。数人がかりで取り押さえられ、引きずられていく。


「覚えていろ! これで終わりだと思うな!」


 宰相の叫びが、遠ざかっていく。


 俺は、それを見届けた。



      ***



 終わった。


 全部、終わった。


 俺は懐中時計を見た。

 針が、最後の目盛りを超えていた。


 体が、軽くなっていく。


 足元を見ると、光の粒子が舞い上がっていた。

 俺の体から、剥がれ落ちていく光。


 ああ、そうか。

 代償の時間だ。


「レイン?」


 王女が俺を見た。

 その顔が、驚愕に歪んだ。


「レイン、体が——」


「大丈夫です」


 俺は笑った。

 笑えているかどうか、分からなかったが。


「約束、守りましたよ。アリシア様」


「何を言っているの。体が消えて——」


「あなたが困った時、助けると言いました」


 光が増していく。

 足が、もう見えない。


「ずっと、覚えていました。あの日の約束」


「レイン!」


 王女が駆け寄ろうとした。

 だが、俺の体はもう、半分以上消えていた。


「泣かないでください」


 声が、掠れていく。


「あなたの笑顔が……俺は、好きでした」


 光が、全身を包んだ。


 最後に見えたのは、王女の顔だった。

 涙で濡れた、青い瞳。

 金色の髪。


 綺麗だ、と思った。


 そして——



      ***



 王女アリシアは、呆然と立ち尽くしていた。


 目の前には——誰もいなかった。


 壊れた懐中時計が、地面に転がっている。

 それだけだ。


「……あれ」


 王女は首を傾げた。


 何かがあったはずだ。

 今、目の前に誰かがいた。


 でも——思い出せない。


 誰だったのか。

 何を言っていたのか。


 何も、思い出せない。


 涙が出ていた。

 なぜ泣いているのか、分からなかった。


「殿下」


 侍女が駆け寄ってきた。


「お体は大丈夫ですか? 棺の中から目覚めた時は、驚きました」


「……ええ、大丈夫」


 王女は涙を拭った。


「私は、なぜここに?」


「宰相が殿下を毒殺しようとしたのです。覚えておられませんか?」


「宰相が……そうだった。茶を勧められて……」


 そこまでは覚えている。

 その後、目が覚めたら棺の中にいた。


 でも——その間に、何かあったはずだ。

 誰かが、俺を助けてくれた。


 誰が?


「殿下?」


「……何でもない」


 王女は、地面に落ちていた懐中時計を拾い上げた。


 針の止まった、古い懐中時計。

 誰の物か、分からなかった。


 でも——捨てられなかった。



      ***



 ——三ヵ月後。


 王女は、自室の整理をしていた。


 宰相の一件以来、王宮は混乱していた。宰相派閥の粛清、新しい人事、様々な後始末。ようやく落ち着いてきたところだった。


 古い書類を整理していると、一枚の絵が出てきた。


 肖像画だった。

 幼い自分が描かれている。五歳くらいの、金髪の少女。


 懐かしい。

 十五年前、宮廷画家に描かせた絵だ。


 だが——違和感があった。


 自分の隣に、誰かがいる。


 黒髪の少年。同い年くらい。自分の横に立って、少し照れくさそうな顔をしている。


「……これ」


 王女は、絵をじっと見つめた。


 この少年を、知っている。

 どこかで見た顔だ。


 いや——知っているはずがない。こんな少年は覚えていない。


 でも——


 胸が、締めつけられるような感覚。

 懐かしさ。切なさ。名前のつけられない何か。


 王女は、首元のペンダントに触れた。

 銀色のペンダント。中央に青い石。


 十五歳の誕生日に——誰かからもらった物。


 誰から?


 思い出せない。

 でも、大切な人からもらったことだけは、分かる。


 王女は、もう一度絵を見た。


 黒髪の少年が、笑っている。

 太陽のような笑顔の自分の横で、少し控えめに。


「……そこに、いたのね」


 涙がこぼれた。


 名前は思い出せない。

 顔も、声も、思い出せない。


 でも——この絵の中に、いた。

 確かに、いた。


 王女は絵を胸に抱いた。


「ありがとう」


 誰に言っているのか、自分でも分からなかった。


 でも、言わなければならない気がした。


「約束、守ってくれたのね」


 窓の外から、風が吹き込んだ。


 まるで——返事をするように。



      ***



 その日の午後。

 王女は侍女を下がらせ、自分で茶を淹れた。


 茶葉は、棚の一番奥にしまわれていた質素な銘柄を選んだ。高価な茶葉はたくさんあったが、なぜかこれが一番、落ち着く気がした。


 湯を注ぎ、蒸らす。

 砂時計を、見もせずに正確な時間で裏返す。


 ……不思議だった。

 誰にも教わっていないのに、手が、覚えている。


 一口、含んだ。

 懐かしい味がした。

 誰かと、向かい合って飲んだことがあるような。



【完】


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


「忘れられても、それでも約束を守る」


——そんな献身の形を、どうすれば一番刺さるかだけを考えて書いた短編です。


レインがアリシアを救えたこと、そしてアリシアが「思い出せないのに泣いている」こと。

その両方が、この作品の心臓部だと思っています。


もし少しでも心に残るものがあれば、★評価・ブックマーク・感想をいただけると、本当に励みになります。短編は一話で読者の方とお別れしてしまう分、いただく一言一言が、次の作品を書く力になります。一文字でも、本当に嬉しいです。


もしこの作品の雰囲気を気に入っていただけたなら、他の作品も覗いていただけると幸いです。よろしければ作者ページからどうぞ。また別の物語で、お会いできれば。

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