王女を救うため、俺は因果を三回書き換える。代償は、彼女の記憶から消えること
首に縄がかかっている。
空は青い。雲一つない。処刑日和だ、と誰かが言っていた。
広場を埋め尽くす群衆が、俺を見上げている。憎しみ、好奇、哀れみ。様々な視線が突き刺さる。
レイン・ヴェルト。王女付きの侍従。
それが昨日までの俺だ。
今は違う。
王女暗殺の大罪人。
笑えてくる。
俺がやったわけではない。だが、それを訴えたところで何になる。
処刑台の端に、宰相グレイモアの姿が見えた。五十がらみの、神経質そうな顔。俺の死を見届けに来たらしい。
目が合った。
宰相が、薄く笑った。
——お前の負けだ。
そう言っている。
ああ、そうだろうな。
お前の勝ちだ。王女を毒殺し、俺に罪を着せ、邪魔者を一掃した。完璧な計画だった。
だが——まだ終わっていない。
俺は懐の中にある物の感触を確かめた。
懐中時計。
針は、あと三目盛りを残している。
***
この時計を手に入れたのは、五年前のことだ。
王宮の書庫を整理していた時、古い木箱の中に転がっていた。誰の物かも分からない、錆びついた懐中時計。
手に取った瞬間、頭に声が響いた。
『契約が成立した』
それだけだった。
説明も、警告もなく。ただ、一つだけ「分かった」ことがある。
この時計は、因果を書き換える。
過去に起きた「不確定な事実」を、俺の望む形に確定させる力。
針が一周するまで、あと三回だけ使える。
そして——使い切った時、俺は消える。
存在ごと。誰の記憶からも。
五年間、一度も使わなかった。
使う理由がなかった。
王女の側で、平穏に暮らしていた。それだけで十分だった。
***
王女——アリシア様に初めて会ったのは、十五年前。
俺は孤児だった。
王宮の下働きとして拾われ、掃除や荷運びをしていた。
ある日、廊下で転んだ。抱えていた薪が散らばった。
慌てて拾い集めていると、小さな足が視界に入った。
顔を上げると、金髪の少女がいた。五歳くらい。青い瞳が、俺を見下ろしていた。
「大丈夫?」
王女だった。
俺は慌てて頭を下げた。下働きが王族に話しかけられるなど、あってはならない。
「怪我してる」
王女が俺の手を指さした。薪を拾った時に擦りむいたらしい。血が滲んでいる。
「お、恐れ入ります。すぐに下がりますので——」
「待って」
王女が懐から布を取り出し、俺の手に巻いた。
絹だった。王族が使う、高価な絹の布。
「これで平気」
王女が笑った。
太陽のような笑顔だった。
それが始まりだった。
***
なぜか王女は、俺を気に入った。
下働きの孤児と王女。身分の差は天と地ほどある。だが、王女は気にしなかった。
暇を見つけては俺を呼び出し、話し相手にした。最初は恐縮していた俺も、次第に慣れていった。
八歳の時、王女が言った。
「ねえ、レイン」
「はい」
「私が困った時、助けてくれる?」
唐突な質問だった。
俺は少し考えて、答えた。
「当たり前です」
「本当?」
「約束します」
王女が嬉しそうに笑った。
あの笑顔を、俺は十五年間、守ってきた。
なのに——
***
王女が十五歳になった年、俺は正式に侍従として仕えることになった。
誕生日の夜、俺は王女に贈り物を渡した。
銀色の小さなペンダント。中央に青い石がはめ込まれている。
下働き時代からの給金を、少しずつ貯めて買った。
「殿下。これを」
「えっ……何、これ」
「お誕生日の贈り物です」
王女が目を丸くした。
「レインが、私に?」
「お守りとして、身につけていただければ」
王女はペンダントを手に取り、しばらく見つめていた。
そして——泣き出した。
「殿下? お気に召しませんでしたか」
「違う、違うの」
王女は涙を拭いながら、笑った。
「嬉しいの。レインからもらえたのが」
「は、はあ……」
「ありがとう。大切にする」
それ以来、王女はペンダントを肌身離さず身につけていた。
***
——同じ夜。王女アリシアの私室。
夜更けだった。
王女は窓辺に立ち、月を見上げていた。
首には、銀のペンダント。
手のひらで、何度も握りしめる。冷たい金属が、少しずつ体温で温まっていく。
「……ばか」
誰もいない部屋で、彼女は呟いた。
「あなたから貰えるなら、石ころだって、同じように泣いたのに」
窓に額を押し付けた。
昼間、各国の王族から届いた誕生日の贈り物の山。金細工、宝石、絹の反物。
全部、どうでもよかった。
最後に部屋に来た侍従が、慎ましい銀のペンダントを差し出した時——彼女ははっきりと自覚した。
ずっと、好きだった。
いつから、と問われても答えられない。
廊下で擦りむいた手に絹の布を巻いた、あの日からかもしれない。
「私が困った時、助けてくれる?」と訊ねたら、真顔で「約束します」と返してきた、あの瞬間からかもしれない。
でも——口にすることはできなかった。
王女と侍従。彼女と彼の間にあるのは、千年積もった岩のように動かない壁。
泣くしかなかった。
嬉しさと、悲しさと、諦めと。全部が混ざった涙。
レインは慌てていた。「お気に召しませんでしたか」と。
ばかね、と心の中で繰り返した。
あなたが選んでくれた。それだけで、私は——。
ペンダントを握りしめた。
——せめて、このままで。
もう一歩も近づけないなら、せめて、この距離のままで。
あなたが、私の隣に立ち続けてくれるなら。
それが、十五歳の王女が月に祈った全てだった。
***
七日前。
俺は王女の部屋で、いつものように茶を淹れていた。
扉が開き、宰相が入ってきた。侍女を二人連れている。
「王女殿下。本日の茶会の件でご相談が」
「宰相。入室の許可を取っていないはずですが」
王女の声が冷たくなった。
王女は宰相を信用していない。俺も同じだ。
「失礼いたしました。火急の用件でしたもので」
宰相が頭を下げる。だが、目は笑っていない。
「侍女が新しい茶葉を持参いたしました。殿下のお口に合うかと」
「結構です。レインが淹れた茶で十分です」
「そう仰らずに。一口だけでも」
押し問答が続いた。
結局、王女は根負けした。一口だけ、と。
侍女が茶を淹れた。
王女が口をつけた。
その瞬間——王女の顔色が変わった。
杯が床に落ちた。
王女が崩れ落ちた。
「殿下!」
俺は駆け寄った。だが、宰相の護衛に取り押さえられた。
「毒だ! 侍従が毒を盛った!」
宰相が叫んだ。
違う。茶を淹れたのは侍女だ。俺ではない。
だが、誰も聞いてくれなかった。
侍女たちは「レインが茶葉に毒を仕込んでいた」と証言した。
宰相が「以前から不審な動きがあった」と追認した。
俺は反論する間もなく、地下牢に放り込まれた。
***
三日後、王女の死が発表された。
毒殺。犯人は侍従のレイン。動機は不明。
嘘だ。全部、仕組まれている。
だが、俺に証明する手段はない。
いや——一つだけ、ある。
***
王女の遺体は、大聖堂に安置されている。
宰相は「蘇生魔法を防ぐため」という名目で、遺体を強力な対魔法結界の中に隔離した。
誰も近づけない。
俺の力も、届かない。
結界が解除されるのは、国葬の時だ。
衆人環視の中、王女の棺が祭壇に運ばれる。その瞬間だけ、結界は解かれる。
もし今、王女を「仮死状態だった」ことにして目覚めさせても、結界の中で宰相に気づかれる。その場で殺される。本当の死を迎える。
だから、待つしかなかった。
国葬まで。
結界が解除され、宰相が手を出せない状況になるまで。
そのためには——俺が、生き延びなければならない。
***
処刑人が近づいてくる。
「最後に言い残すことは」
形式的な問いかけ。答えても意味はない。
「ない」
処刑人が頷き、合図の旗を掲げた。
群衆がざわめく。
宰相が、満足そうに頷いている。
俺は懐中時計を握りしめた。
考えろ。
処刑台を壊す? 無理だ。頑丈すぎる。
縄を切る? 手は縛られている。
——待て。
処刑を「止める」必要はない。
処刑を「見届けさせなければ」いい。
今日は国葬の前日。王都中が喪に服している。
大聖堂では、今まさに「前夜祭」が行われている。王族、貴族、聖職者——全員がそこにいる。
広場からでも、大聖堂の鐘楼が見える。
あの鐘楼は、百年以上前に建てられた。何度か修繕されているが、北側の支柱は特に古い。
もし——北側の腐食が、想定より進んでいたら?
俺は時計の針に触れた。
因果改変。
一回目。
『鐘楼の北側支柱は、三十年前の修繕で使われた木材に、致命的な虫食いがあった』
世界が、歪んだ。
***
轟音が響いた。
処刑人の手が止まった。群衆が振り返った。宰相の顔が強張った。
大聖堂の鐘楼が——崩れていく。
ゆっくりと、北側に向かって。
巨大な塔が傾き、轟音と共に倒壊していく。
「何が起きた!」
「大聖堂が!」
広場が騒然となった。
警備兵が駆け出す。宰相が何か叫んでいる。
処刑人も振り返っていた。
旗を持った手が、下がっている。
今だ。
俺は体をよじった。縛られた手首を、背中から前に回す。体が硬いが、やるしかない。
肩が軋む。だが、通った。
首の縄に手をかける。結び目を探り、緩める。処刑用の縄は、すぐに締まるよう作られているが、まだ締まっていない。
縄が外れた。
俺は処刑台の床に身を伏せ、端まで這った。誰も見ていない。全員が、崩れ落ちる鐘楼を見ている。
処刑台の下に滑り落ちる。暗闇の中、裏路地に続く排水溝が見えた。
俺は身を滑り込ませた。
***
排水溝を抜け、路地裏に出た。
縄を噛み千切り、手を自由にする。
遠くで、まだ騒ぎが続いている。
大聖堂の方角から、煙が上がっていた。
俺は懐中時計を取り出した。
針が、一つ進んでいる。
残り、二回。
国葬まで、あと三日。
追っ手を撒き、大聖堂に潜入し、その時を待つ。
俺は走り出した。
アリシア様。
もう少しだけ待っていてください。
必ず——約束を、守りますから。
***
王都の裏路地を走る。
処刑場から逃げて、もう二刻は経っただろう。だが、まだ安全ではない。
背後から、怒号が聞こえる。
「逃がすな! 必ず捕らえろ!」
追っ手だ。
俺の逃亡は、すぐに発覚したらしい。
考えてみれば当然だ。処刑が中断され、罪人の姿が消えた。大聖堂の崩落と関係があると疑われてもおかしくない。
路地を曲がる。また曲がる。
王宮で働いていた頃、この辺りはよく歩いた。王女の使いで、街の菓子屋や仕立屋を回っていた。
あの頃は、平和だった。
——今は違う。
足を止めた。
行き止まりだ。
背後から、足音が迫る。
「いたぞ!」
三人。剣を抜いている。
俺には武器がない。戦闘の訓練も受けていない。侍従だ。茶を淹れ、書類を整理し、王女の話し相手をするのが仕事だった。
逃げ場はない。
諦めるか?
——いや。
俺は壁を見た。古い煉瓦造り。ところどころ崩れている。
登れる。
俺は壁に飛びついた。指先が煉瓦の隙間を掴む。足をかけ、体を引き上げる。
「待て!」
追っ手が叫ぶ。だが、俺は止まらない。
屋根に手が届いた。体を引き上げ、瓦の上に転がり出る。
追っ手の一人が壁に取りついた。だが、鎧が重いのだろう。なかなか登れない。
俺は走った。
屋根から屋根へ。
***
日が暮れた。
俺は廃屋の中に身を潜めていた。
追っ手の目を何とか撒いたが、油断はできない。
懐から、懐中時計を取り出す。
針は、残り二目盛り。
使うか?
いや、まだだ。三回目は王女のために残しておかなければならない。二回目は、どうしても必要な時まで温存する。
窓の外を見た。
大聖堂の方角。崩れた鐘楼の残骸が、夕闇に照らされている。
あそこに辿り着けば、国葬まで身を潜められる。
だが、大聖堂の周囲は厳重に封鎖されているはずだ。崩落の原因究明と、国葬の警備。二重の意味で、近づくのは難しい。
どうする。
考えろ。
俺には力がない。武器もない。魔法も使えない。
だが——情報はある。
十五年間、王宮で働いてきた。宮廷の人間関係、派閥争い、誰が誰を憎んでいるか。全部知っている。
追っ手を率いているのは誰だ。
処刑場で見た顔を思い出す。
——ヴァルド。
宰相の腹心。近衛隊の副長。野心家で、手段を選ばない男。
三年前、ある事件があった。
宮廷の金庫から金貨が消えた。調査の結果、下級官吏の横領と判明し、その男は処刑された。
だが、俺は知っている。
本当の犯人は、ヴァルドだった。
下級官吏に罪を着せ、自分は出世した。
その証拠——横領の記録と、ヴァルドの筆跡が一致する帳簿——は、握り潰されたはずだ。
だが、本当に全て消えたのか?
宮廷の書記官は、重要な書類は必ず控えを取る。それが習慣だ。あの時の担当書記官は……確か、ゲラン。慎重な男だった。控えを残していてもおかしくない。
もし、その控えがまだ存在していたら。
そして、今朝——匿名で王宮に届いていたら。
ヴァルドはどうする?
追跡を続けるか?
いや。奴は保身を優先する。自分の破滅に繋がる証拠が出回っているなら、それを握り潰すことを最優先にするはずだ。
***
翌朝。
俺は廃屋を出て、大聖堂に向かった。
人通りの少ない路地を選んで進む。封鎖を避け、裏道を縫うように。
だが——甘かった。
「見つけたぞ」
背後から声がした。
振り返ると、馬から降りた男が立っていた。
ヴァルドだ。
剣を抜いている。だが、一人だった。
「……部下はどうした」
「俺一人で十分だ」
ヴァルドが笑った。
「お前を捕らえた手柄は、俺のものだ。分ける気はない」
野心家らしい発想だった。
俺を捕らえれば、宰相からの覚えがさらに良くなる。出世に繋がる。だから、誰にも知らせず、単独で追っていた。
俺にとっては、好都合だった。
「ヴァルド」
俺は言った。
「お前に訊きたいことがある」
「何だ。命乞いか」
「三年前のこと、覚えているか」
ヴァルドの表情が変わった。
「金庫の横領事件。下級官吏のバルトが処刑された」
「……それがどうした」
「本当の犯人は、お前だろう」
ヴァルドの顔から、笑みが消えた。
「何を根拠にそんなことを」
「根拠?」
俺は、賭けに出た。
「今朝、王宮に届いたはずだ。匿名の書状が」
ヴァルドの顔色が変わった。
「三年前の帳簿の控え。お前の筆跡と一致する証拠。ゲラン書記官が、ちゃんと保管していた」
「……何を言っている。そんなものは——」
「ないのか? なら、なぜ顔色が変わった」
ヴァルドが一歩後ずさった。
俺は畳みかけた。
「お前が今ここで俺を殺しても、証拠は残る。宰相がお前を守ってくれると思うか? 自分の手が汚れるなら、お前を切り捨てるだろう。お前が一番よく知っているはずだ」
ヴァルドの剣が、わずかに震えた。
だが——
「……ハッタリだな」
ヴァルドが吐き捨てた。
「証拠が届いたなら、俺は今頃ここにいない。王宮で弁明に追われているはずだ。つまり、そんな書状は届いていない」
読まれた。
確かに、ハッタリだ。証拠は実際には届いていない。俺の推測に過ぎない。
「口先だけは達者だな。だが、終わりだ」
ヴァルドが剣を構え直した。
俺は懐中時計を握りしめた。
仕方ない。
使うしかない。
因果改変。
二回目。
『三年前、ゲラン書記官は帳簿の控えを保管していた。そして昨夜、何者かがそれを発見し、今朝、匿名で王宮に届けた』
世界が、歪んだ。
***
馬の蹄の音が響いた。
ヴァルドの動きが止まった。
路地の入口に、伝令の兵士が駆け込んできた。
「副長! ここにおられましたか! 王宮から至急のお呼びです!」
ヴァルドの顔が蒼白になった。
「……何だと」
「今朝、王宮に匿名の書状が届きました。副長に関する重大な告発が——」
「馬鹿な!」
ヴァルドが叫んだ。その顔から、血の気が引いていた。
俺はその隙を逃さなかった。
背後の壁に飛びつく。煉瓦の隙間に指をかけ、体を引き上げる。
「待て!」
ヴァルドが叫ぶ。だが、追ってこない。
伝令の目がある。ここで俺を斬れば、「なぜ単独で追っていたのか」を問われる。王宮からの呼び出しを無視すれば、告発が事実だと認めるようなものだ。
俺は塀の上に這い上がり、向こう側に飛び降りた。
***
日が暮れる頃、俺は大聖堂の北側に辿り着いた。
崩れた鐘楼の瓦礫が、山のように積み重なっている。
周囲には兵士がいるが、瓦礫の中までは見ていない。危険だからだ。いつさらに崩れるか分からない。
俺は瓦礫の山を見上げた。
昨日、鐘楼を崩した時。
なぜ「北側に倒れるように」改変したのか。
答えは、ここだ。
北側回廊と瓦礫の間。煉瓦と木材が複雑に絡み合い、人一人が入れる空間ができている。
処刑台から逃げるためだけなら、どこに倒れても良かった。
だが、俺は「北側」を選んだ。
国葬まで身を隠す場所を、同時に作るために。
俺は身を低くして、瓦礫の隙間に滑り込んだ。
暗い。狭い。煉瓦の欠片が背中に刺さる。
だが、隠れられる。
国葬まで、あと二日。
俺は懐中時計を取り出した。
針は、残り一目盛り。
最後の一回。
これを、王女のために使う。
俺は目を閉じた。
体が疲れている。
眠らなければ。国葬の日まで、体力を温存しておかなければ。
瓦礫の隙間で、俺は眠りに落ちた。
夢を見た。
幼い王女が笑っている。
金色の髪。青い瞳。太陽のような笑顔。
「レイン、約束だよ」
「ああ。約束だ」
俺は夢の中で、何度でも答えた。
***
国葬の日が来た。
瓦礫の隙間から、大聖堂の広場が見える。
数万の群衆が集まっていた。王族、貴族、聖職者、そして民衆。王女の死を悼むために。
違う。
悼んでいるのは、一部だけだ。
宰相グレイモアは、この国葬を利用して自分の権威を固めようとしている。「王女を守れなかった」という悲劇の演出で、同情を集め、発言力を高める。
見え透いた茶番だ。
だが——今日で終わる。
***
祭壇に、棺が運ばれてきた。
白い棺。銀の装飾。その中に、王女が眠っている。
結界は解除されている。
衆人環視の中、蘇生魔法を防ぐ結界を張り続けることはできない。「王女の魂を縛っている」と批判されるからだ。
今なら、俺の力が届く。
宰相が祭壇の前に立った。
群衆に向かって、演説を始める。
「本日、我々は偉大なる王女アリシア殿下を、神の御許へとお送りいたします」
白々しい。
お前が殺したのだ。
「殿下は、毒によって命を奪われました。犯人は、殿下の侍従——レイン・ヴェルト」
群衆がざわめく。
俺の名前が、憎しみと共に囁かれる。
「この卑劣な罪人は、処刑の直前に逃亡いたしました。必ずや捕らえ、殿下の御霊に報いる所存です」
宰相が、悲痛な表情を作って見せた。
演技だ。全部、演技だ。
だが——もう十分だ。
俺は瓦礫の隙間から這い出た。
***
広場に、俺の姿が現れた瞬間、騒ぎが起きた。
「あれは——」
「罪人だ! レインだ!」
兵士たちが剣を抜く。群衆が悲鳴を上げて逃げ惑う。
だが、俺は止まらなかった。
祭壇に向かって、真っ直ぐ歩いていく。
「止まれ!」
兵士が立ちはだかる。剣を突きつけられる。
俺は足を止めなかった。
「斬れ」
俺は言った。
「斬りたければ斬れ。だが、その前に——宰相に訊きたいことがある」
宰相の顔が歪んだ。
「何を言っている。こやつを捕らえろ!」
兵士たちが俺を取り囲む。だが、俺は声を張り上げた。
「宰相! 王女を殺した毒は、何だ!」
広場が静まり返った。
宰相が、冷たく笑った。
「何を今さら。検死で明らかになっている。蒼月花の抽出毒だ。お前が盛った毒だろう」
蒼月花。
無味、無臭、無色。暗殺に使われる毒の定番だ。宰相がこれを選んだのは当然だろう。
「俺は盛っていない」
「往生際が悪いな。証拠は揃っている」
「ああ、毒はあった」
俺は宰相を見据えた。
「だが、お前と俺では、『毒』の認識が違うようだ」
宰相の眉が動いた。
「……何を言っている」
「蒼月花の毒は、特定の金属と反応すると、性質が変わる。知っていたか?」
宰相の顔色が、わずかに変わった。
「古い文献にしか載っていない。純度の高い銀に、微量のミスリルが含まれている場合——蒼月花の毒は、致死性を失い、仮死状態を引き起こす」
「何を馬鹿な——」
「王女が身につけていたペンダント」
俺は棺を指さした。
「王女が肌身離さず身につけていた、銀のペンダント。今も、殿下の首にかかっているはずだ」
群衆がざわめいた。
「あのペンダントを作った職人は、装飾のために特殊な銀を使った。古代の技法で、ミスリルを微量に含む合金だ」
宰相の顔が、蒼白になっていた。
「王女が毒を飲んだ時、ペンダントは首にかかっていた。毒が体内に回る前に、ペンダントの金属と反応した」
俺は祭壇に向き直った。
「王女は——死んでいない」
群衆がどよめいた。
宰相が叫んだ。
「出鱈目だ! 検死で毒が検出されている! 王女は確かに——」
「検死で検出されたのは、蒼月花の成分だ。だが、それが『致死性だった』とは限らない」
俺は懐中時計を握りしめた。
これが、最後だ。
因果改変。
三回目。
『あのペンダントを作った職人は、装飾のために古代の合金を使用した。その合金には、微量のミスリルが含まれていた』
世界が、歪んだ。
***
棺の中から、音がした。
咳き込む音。
息を吸う音。
群衆が息を呑んだ。
棺の蓋が、内側から押し上げられた。
ゆっくりと、白い手が現れた。
金色の髪が見えた。
そして——青い瞳が、開いた。
「……ここは」
王女アリシアが、棺の中から身を起こした。
広場が、静寂に包まれた。
誰も、声を出せなかった。
王女が周囲を見回した。
宰相を見た。
俺を見た。
「レイン……?」
その声は、掠れていた。何日も使っていなかった喉。
「アリシア様」
俺は膝をついた。
「お目覚めになりましたか」
「私は……何が……」
王女が額に手を当てた。記憶を辿っているのだろう。
「お茶を……宰相に勧められて……飲んだら、急に……」
群衆がざわめいた。
宰相の顔が、土色に変わっていた。
「よ、妄言だ! 仮死状態から目覚めたばかりで、記憶が混乱しているのだ!」
「混乱?」
王女が宰相を見た。
その目は、もう朦朧としていなかった。鋭い、意志の光を宿していた。
「宰相。私ははっきり覚えています。あなたが侍女に命じて、茶を淹れさせた。あなたが、私に飲むよう勧めた」
「そ、それは——」
「そして、私が倒れた瞬間、あなたは叫んだ。『毒だ、侍従が毒を盛った』と。私がまだ床に倒れている時に」
王女の声が、広場に響いた。
「なぜ分かったのですか、宰相。私が毒で倒れたと。検死もしていないのに」
宰相の顔から、血の気が引いた。
群衆が、宰相を見ていた。
王族が、宰相を見ていた。
兵士が、宰相を見ていた。
数万の目が、一人の男に向けられていた。
「ち、違う、私は——」
宰相が後ずさった。
「私は、王国のために——」
「捕らえなさい」
王女が静かに言った。
「宰相グレイモアを、王女暗殺未遂の容疑で拘束しなさい」
兵士たちが動いた。
宰相が抵抗しようとしたが、無駄だった。数人がかりで取り押さえられ、引きずられていく。
「覚えていろ! これで終わりだと思うな!」
宰相の叫びが、遠ざかっていく。
俺は、それを見届けた。
***
終わった。
全部、終わった。
俺は懐中時計を見た。
針が、最後の目盛りを超えていた。
体が、軽くなっていく。
足元を見ると、光の粒子が舞い上がっていた。
俺の体から、剥がれ落ちていく光。
ああ、そうか。
代償の時間だ。
「レイン?」
王女が俺を見た。
その顔が、驚愕に歪んだ。
「レイン、体が——」
「大丈夫です」
俺は笑った。
笑えているかどうか、分からなかったが。
「約束、守りましたよ。アリシア様」
「何を言っているの。体が消えて——」
「あなたが困った時、助けると言いました」
光が増していく。
足が、もう見えない。
「ずっと、覚えていました。あの日の約束」
「レイン!」
王女が駆け寄ろうとした。
だが、俺の体はもう、半分以上消えていた。
「泣かないでください」
声が、掠れていく。
「あなたの笑顔が……俺は、好きでした」
光が、全身を包んだ。
最後に見えたのは、王女の顔だった。
涙で濡れた、青い瞳。
金色の髪。
綺麗だ、と思った。
そして——
***
王女アリシアは、呆然と立ち尽くしていた。
目の前には——誰もいなかった。
壊れた懐中時計が、地面に転がっている。
それだけだ。
「……あれ」
王女は首を傾げた。
何かがあったはずだ。
今、目の前に誰かがいた。
でも——思い出せない。
誰だったのか。
何を言っていたのか。
何も、思い出せない。
涙が出ていた。
なぜ泣いているのか、分からなかった。
「殿下」
侍女が駆け寄ってきた。
「お体は大丈夫ですか? 棺の中から目覚めた時は、驚きました」
「……ええ、大丈夫」
王女は涙を拭った。
「私は、なぜここに?」
「宰相が殿下を毒殺しようとしたのです。覚えておられませんか?」
「宰相が……そうだった。茶を勧められて……」
そこまでは覚えている。
その後、目が覚めたら棺の中にいた。
でも——その間に、何かあったはずだ。
誰かが、俺を助けてくれた。
誰が?
「殿下?」
「……何でもない」
王女は、地面に落ちていた懐中時計を拾い上げた。
針の止まった、古い懐中時計。
誰の物か、分からなかった。
でも——捨てられなかった。
***
——三ヵ月後。
王女は、自室の整理をしていた。
宰相の一件以来、王宮は混乱していた。宰相派閥の粛清、新しい人事、様々な後始末。ようやく落ち着いてきたところだった。
古い書類を整理していると、一枚の絵が出てきた。
肖像画だった。
幼い自分が描かれている。五歳くらいの、金髪の少女。
懐かしい。
十五年前、宮廷画家に描かせた絵だ。
だが——違和感があった。
自分の隣に、誰かがいる。
黒髪の少年。同い年くらい。自分の横に立って、少し照れくさそうな顔をしている。
「……これ」
王女は、絵をじっと見つめた。
この少年を、知っている。
どこかで見た顔だ。
いや——知っているはずがない。こんな少年は覚えていない。
でも——
胸が、締めつけられるような感覚。
懐かしさ。切なさ。名前のつけられない何か。
王女は、首元のペンダントに触れた。
銀色のペンダント。中央に青い石。
十五歳の誕生日に——誰かからもらった物。
誰から?
思い出せない。
でも、大切な人からもらったことだけは、分かる。
王女は、もう一度絵を見た。
黒髪の少年が、笑っている。
太陽のような笑顔の自分の横で、少し控えめに。
「……そこに、いたのね」
涙がこぼれた。
名前は思い出せない。
顔も、声も、思い出せない。
でも——この絵の中に、いた。
確かに、いた。
王女は絵を胸に抱いた。
「ありがとう」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
でも、言わなければならない気がした。
「約束、守ってくれたのね」
窓の外から、風が吹き込んだ。
まるで——返事をするように。
***
その日の午後。
王女は侍女を下がらせ、自分で茶を淹れた。
茶葉は、棚の一番奥にしまわれていた質素な銘柄を選んだ。高価な茶葉はたくさんあったが、なぜかこれが一番、落ち着く気がした。
湯を注ぎ、蒸らす。
砂時計を、見もせずに正確な時間で裏返す。
……不思議だった。
誰にも教わっていないのに、手が、覚えている。
一口、含んだ。
懐かしい味がした。
誰かと、向かい合って飲んだことがあるような。
【完】
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「忘れられても、それでも約束を守る」
——そんな献身の形を、どうすれば一番刺さるかだけを考えて書いた短編です。
レインがアリシアを救えたこと、そしてアリシアが「思い出せないのに泣いている」こと。
その両方が、この作品の心臓部だと思っています。
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