第9話 静かな断罪
王太子オルディスが辺境に来たのは、ヴェルナー確保から五日後のことだった。
豪華な馬車。十名の護衛騎士。金の刺繍が入った幔幕。そして、銀髪のメルヴィナを伴って。権力を見せつけるための行列だ。辺境の住民たちは、物珍しそうにその行列を眺めていた。だが、畏怖の色は薄い。
「辺境伯。この度の混乱について、王太子として直接収拾に参りました」
広場での第一声は、余裕に満ちていた。金髪碧眼の端正な顔。完璧な微笑み。あの笑顔だ。目に光が届かない、あの笑顔。
(……ああ、変わっていない)
三年間見続けた顔。晩餐会で、舞踏会で、私の隣でいつも完璧な笑みを浮かべていた顔。でも今は、その仮面の裏が透けて見える。あの笑顔の下にあるのは、自信ではなく恐怖だ。
オルディスの狙いは明白だった。ヴェルナーを「暴走した部下」として切り捨て、自身は「知らなかった」で通す。そのための直接訪問。被害者を演じるための舞台装置。
メルヴィナも、予想通りの役割を果たしていた。
到着早々、辺境の夫人たちの間で声が聞こえ始めた。
「あの魔道具師、王太子殿下に恨みがあるから捏造したのでしょう」
「婚約破棄された女の逆恨みですわ。哀れね」
「辺境の男に取り入って、地位を手に入れたいだけよ」
メルヴィナ経由の囁き。社交の毒。彼女の手口は知っている。自分では直接言わない。取り巻きに言わせ、噂として広める。
だが、辺境の人々は王都の社交界とは違った。
「何言ってんだ。リーネさんの魔道具でうちの畑は三割も収量が増えたんだぞ」
「噂より実物だろう。あの灯火石、うちの婆さんが毎日使ってるわ。これがなかったら冬は越せなかった」
「数字で見せてもらったじゃないか。王太子様のほうの石は壊れたんだろ」
生活に根差した信頼。これが、半年間かけて築いた土台だった。噂では崩れない。毎日使っている魔道具の品質を、住民たちは自分の体で知っている。
翌日、セルヴァンの領館で正式な場が設けられた。
出席者はオルディス、メルヴィナ、セルヴァン、私。そして記録者としてグレイス。
部屋に入ったとき、オルディスと目が合った。一瞬だけ、彼の瞳が揺れた。驚いたのかもしれない。三年前の私とは、何かが変わっていることに。あの頃の私は、彼の前では常に俯いていた。今は、同じ高さで見ている。
オルディスは開口一番、攻めに出た。
「ヴェルナーの独断による不正は遺憾だ。すでに工房長を解任した。王太子として、辺境に被害を与えたことを詫びたい。補償についても誠意を持って対応する」
完璧な台本。責任をヴェルナーに押し付け、自身は謝罪する善意の権力者。被害者への共感を示し、潔さを演出する。よくできた芝居だった。
だが。
「一つ確認させていただきたい」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。手も震えていない。足も。
「王太子殿下。ヴェルナーの所持品から押収された書簡について、ご説明をお願いします」
オルディスの微笑みが、一瞬だけ固まった。ほんの一瞬。でも見逃さなかった。三年間、この人の表情を観察してきた。その一瞬の硬直が、動揺の証拠だ。
グレイスが書簡の写しを読み上げた。王太子直筆の指示。検査記録の改竄命令。私の設計の流用指示。
「それは偽造だ。ヴェルナーが自身の保身のために捏造したものだろう」
オルディスは即座に否定した。予想通りの反応だ。
「筆跡鑑定の結果を」
グレイスが別の書類を出した。宮廷書記官室による筆跡鑑定報告書。王太子の過去の公文書、署名、手紙との比較分析。
「九十七パーセントの一致が確認されています」
部屋の空気が変わった。メルヴィナの顔色が、わずかに青くなるのが見えた。
「……グレイス。その鑑定は、誰の指示で行った」
「書記官長権限です。宮廷記録の正確性を確保するために、必要な調査を行う権限は国王陛下より与えられています。王族の書簡であっても例外ではありません」
オルディスの表情から、微笑みが消えた。初めて見る顔だった。いや、一度だけ見たことがある。宮廷の晩餐会で、ある貴族に「殿下の魔道具は、以前の作品より品質が落ちたのでは」と言われたとき。あのときと同じ、自尊心が傷ついたときの顔。
「次に」
私は手元のノートを開いた。三年分の設計スケッチ。日付入り。
「宮廷に王太子殿下名義で登録されている設計の原本です。登録日より以前の日付で、同一の設計が私のノートに記録されています。グレイス書記官長により照合済みです」
「それも捏造の可能性が――」
「ノートの紙とインクの年代分析も、グレイスの記録に登録されています。紙の製造年は四年前。インクの経年変化も日付と一致しています。捏造の余地はありません」
証拠を一つ提示するたびに、オルディスの逃げ道が一つずつ塞がれていく。筆跡鑑定。原著者証明。年代分析。検査記録の改竄。すべてが、同じ方向を指している。
感情はなかった。怒りも、悲しみも。ただ、事実を並べている。前世の品質監査と同じだ。データを示し、矛盾を指摘し、結論を導く。感情を交えれば、相手に反論の隙を与える。事実だけが、揺るがない。
メルヴィナが割って入った。
「こんな場で元婚約者が王太子殿下を糾弾するなど、品位を疑います。個人的な恨みを公の場に持ち込むのは――」
「品位の問題ではなく、事実の問題です。品位で安全基準は守れません。子供が使う魔道具に安全装置がなかったことは、品位では説明できません」
メルヴィナの目が、初めて揺れた。
オルディスは立ち上がった。椅子が音を立てた。
「これ以上の議論は無意味だ。この件は王都で正式に――」
「王太子殿下」
グレイスの声が、室内を静かに切った。
「本件に関する記録は、すでに国王陛下にも写しが送付されています。王都での再審議は歓迎しますが、記録の内容は変更されません」
オルディスの足が止まった。
国王への報告。つまり、もう隠せない。もう、なかったことにはできない。
彼は振り返った。私を見た。
あの碧い目。かつては見上げていた目。今は、同じ高さで見返している。
「……リーネ。お前は……」
「私は何もしていません。記録が事実を語っただけです」
それが、三年間の答えだった。
オルディスは何も言わずに部屋を出た。扉が閉まる音。重い音。メルヴィナがその背を追った。彼女の足取りは、来たときより早かった。彼女の顔には、初めて不安の色が浮かんでいた。王太子に利用されているだけだと気づき始めた顔。
部屋に残ったのは、セルヴァンとグレイスと私。
グレイスがペンを置いた。今日初めて、ペンが止まった。
「以上をもって、本件の記録を終了する。判断は国王陛下に委ねられる」
一礼して、グレイスも退室した。扉の前で一瞬だけ振り返り、私を見た。表情は変わらない。でも、ほんの微かに頷いたように見えた。気のせいかもしれない。
静けさの中で、セルヴァンが口を開いた。
「終わったな」
「……まだ国王陛下の判断が」
「記録は揃った。結論は変わらない」
そうかもしれない。でも、実感がなかった。
三年間。奪われた時間。盗まれた成果。踏みにじられた信頼。それが、今日、事実として認められた。
涙は出なかった。代わりに、全身の力が抜けていくのが分かった。張り詰めていた糸が、一本ずつ解けていく。
膝が少し笑った。
セルヴァンが何も言わず、椅子を引いてくれた。座る。深く息をつく。
「リーネ殿」
「はい」
「上着を」
彼が自分の外套を、私の肩にかけた。辺境の夕暮れは冷える。春はまだ遠い。でも、肩にかかった重みの温かさは、気温とは関係のない温もりだった。
「ありがとう、ございます」
声が震えた。今日初めて。事実を並べているときは震えなかった声が、優しさに触れた途端に震えた。
セルヴァンは何も言わなかった。ただ、隣にいた。
窓の外で、夕日が辺境の山並みを赤く染めていた。
――長い一日が、終わろうとしていた。




