第8話 記録室の沈黙
王都からの返答は、書簡ではなかった。
人が来た。
宮廷魔道具工房長ヴェルナー本人が、護衛の騎士二名を伴って、辺境伯領ヴェルムントに乗り込んできたのだ。
「辺境伯領で流通している非認定魔道具について、宮廷として正式な調査を行う」
街の広場で、ヴェルナーはそう宣言した。痩せぎすの体に不釣り合いな権威的な声。指先を擦り合わせる癖は相変わらずだ。あの仕草は緊張しているときに出る。宮廷にいた頃から知っている。
一見すると、宮廷側が主導権を握ろうとする動き。私の不正を「調査」するという建前で、逆に私を追い詰める狙い。王太子オルディスの指示だろう。攻撃は最大の防御。自分が調査される前に、相手を調査する側に回る。
だが、読みが違う。
「セルヴァン様。これは好都合です」
執務室で、私は小さく笑った。
「向こうから来てくれた。つまり、こちらが王都に出向く必要がなくなりました。王都では相手の地盤で戦うことになる。でもここは辺境伯領。こちらの地盤です」
セルヴァンは片眉を上げた。
「彼らが辺境で『調査』を行うなら、グレイスが立ち会う。グレイスが立ち会えば、すべてが公式記録になる。ヴェルナーが何を言い、何を提示し、何を提示しなかったか。全部。記録は嘘をつかないし、後から消せない」
「罠に自分から入ってきた、と」
「罠ではありません。事実の場を用意しただけです。事実の前では、誰もが平等です」
調査は、翌日から始まった。
ヴェルナーは最初、威圧的だった。宮廷の権威を笠に着た態度。書類を振りかざし、規定を引用し、私の工房の不備を指摘しようとした。
「この工房で使用されている素材は宮廷認定を受けていない。規定違反だ」
「辺境伯領の自治権に基づく素材運用です。法的な問題はありません」
「しかし品質の保証が――」
「品質の比較データは、先日の公開実験で記録済みです。グレイス書記官長が保管しています。ご確認になりますか」
ヴェルナーの指先の動きが速くなった。擦り合わせる頻度が上がっている。焦っている。
グレイスは隅の机で、一切の表情を見せずに記録を取り続けている。ヴェルナーがグレイスの存在を意識するたびに、言葉を選び直す姿が見えた。
記録される、ということの重さを、この人は理解している。だからこそ、嘘をつきにくい。嘘は、記録に残れば証拠になる。
二日目。ヴェルナーは私の工房の視察を行った。素材の保管状態、製造工程、品質管理の記録。すべてを見せた。隠すものは何もない。
「……これは、なんだ」
ヴェルナーが足を止めたのは、品質管理台帳の前だった。壁一面に整理された帳簿。すべての製品の記録が、日付順に、ロット番号順に、一冊の漏れもなく並んでいる。
「製造した全製品の試験記録です。素材のロット番号、製造日時、試験項目、結果、合否判定。すべて記録しています」
「全製品を個別に試験している?」
「はい。前世……いえ、以前から習慣にしていました。記録のない製品は、品質を保証できませんから」
ヴェルナーの顔が強張った。彼の工房では、こんな記録は存在しない。なぜなら、記録があれば改竄の事実も明らかになるからだ。記録を取らないことが、不正の温床になっている。
三日目の朝。私はグレイスに検査帳簿を提出した。アイリスが持ち出した、改竄前の本物の検査記録。
「宮廷魔道具工房の検査記録に関して、改竄の疑いを示す資料です。正式に記録への登録を申請します」
グレイスは帳簿を受け取り、一ページずつ確認した。表情は変わらない。数字を指でなぞり、日付を確認し、矛盾を探す。職人的な正確さで。
「受理する。照合のため、宮廷に保管されている公式の検査記録との比較が必要になる」
「承知しています」
「ヴェルナー工房長。宮廷の公式検査記録の提出を要請する。書記官長権限において」
ヴェルナーの顔から、血の気が引いた。
「そ、それは……準備に時間が……本来は王都の記録室で……」
「記録は常に整理されているべきものだ。王都への伝令は本日中に出す。到着次第、記録の写しを取り寄せる。それまでの間、一日の猶予を与える。手元にある資料を整理されたい」
グレイスの声は、冬の湖面のように平らだった。感情がないのではない。感情を仕事に持ち込まないと決めている人の声だ。
◇
その夜、ヴェルナーは逃げた。
護衛の騎士を残して、単身で夜の街道へ。荷物もまとめずに。窓から飛び降りたらしく、宿の窓枠に布の切れ端が残っていた。
しかし辺境の道は王都と違い、一本道だ。夜間は街灯もない。馬の手配もできなかった。セルヴァンの騎士団が翌朝、街道の途中であっさりと確保した。疲労と寒さで動けなくなっていたという。
「逃亡は記録する」
グレイスは平然と書き記した。
ヴェルナーの荷物から、興味深いものが見つかった。逃げるときに持ち出した唯一のもの。王太子オルディスからの私信。直筆の指示書。数通。
「検査記録の数値は適宜調整し、基準を満たすように。コストを優先せよ。リーネの設計を流用するが、名前は出すな」
「辺境への供給は急げ。市場を押さえれば、あの女の居場所はなくなる」
直接の証拠。王太子の筆跡で、王太子の言葉で。
ヴェルナーは、自分の保身のために、王太子の私信を「保険」として持ち歩いていたのだ。もし事が発覚したときに、自分は命じられただけだと言い逃れるために。皮肉だった。保身のための「保険」が、保身を裏切った。
「この書簡も、宮廷記録として登録する」
グレイスの一言に、ヴェルナーは崩れ落ちた。
「わ、私はただ、命じられただけで……工房長としての立場上、王太子殿下の命令に逆らえるはずが……」
その言い訳を、誰も聞いていなかった。
セルヴァンは黙ってヴェルナーを見下ろしていた。軽蔑ではない。ただ、この人には興味がないのだと思った。セルヴァンにとって重要なのは人ではなく、事実と記録だ。
執務室に戻る廊下で、セルヴァンが隣を歩いていた。
「すべて、あなたの読み通りだった」
「読みではありません。手順通りに進めただけです。不正を行う人間は、追い詰められると必ず同じパターンの行動を取ります。逃げるか、誰かに罪を押し付けるか。ヴェルナーは両方やろうとして、両方失敗した」
「それを読みという」
彼の声に、微かな笑みが混じっていた。
歩きながら、彼の手が私の肩にわずかに触れた。一瞬だけ。それ以上でもそれ以下でもない。
でも、その一瞬の温度が、妙に残った。
「これで、王太子は対応を迫られる。宮廷書記官長の記録は、王族でも消せない」
「はい」
「次は、向こうの番だ」
宿に戻って、窓辺に立った。
手の甲に、まだ彼の指の温度が残っている気がした。
(……集中しなきゃ)
最後の局面が近づいている。王太子オルディスが、どう動くか。追い詰められた権力者は、二つの選択肢のどちらかを選ぶ。
認めて損切りするか。さらに大きな嘘で覆い隠すか。
あの人の性格なら、後者だ。自分が無能だと認めることだけは、絶対にしない。三年間、隣で見てきたから分かる。
だからこそ、次の一手が重要になる。
設計ノートを開いた。最後の切り札を、準備しなければならない。
――決着は、もう目の前にあった。




