第2話 辺境からの依頼書
手紙の封蝋は、翼を広げた鷹の紋章だった。
宮廷では見かけない意匠だ。指先で封蝋をなぞると、蝋の質が良いことに気づく。安価な量産品ではない。辺境であっても、相応の家格の人物が差し出した手紙ということだ。
文面は簡潔だった。
「辺境伯領ヴェルムントにて、防衛用魔道具の製作を依頼したい。報酬と工房は用意する。詳細は面談にて――セルヴァン・ヴェルムント」
防衛用魔道具。
私の専門だった分野だ。いや、専門だと思っていた分野、と言うべきか。
宮廷では三年間、私が設計した魔道具はすべて上の名前で提出された。王太子オルディスの成果として。私の名前は設計図のどこにも残っていない。
それが婚約者としての務めだと、疑わなかった自分が馬鹿だったのだ。
手紙を読み返す。二度、三度。
(……でも、この手紙はどうして私に届いたのだろう)
宮廷を追われた魔道具師に、わざわざ依頼を出す理由。
考えられるのは二つ。
一つは、私の技術を本当に知っている人物。
もう一つは、安く使い潰せると踏んでいる人物。
どちらであっても、今の私に選択肢は多くない。
王都の工房組合には、すでに話が回っているはずだ。オルディスの影響力は、この国の魔道具業界の隅々にまで及んでいる。王太子に睨まれた職人を雇う工房は、王都にはない。
実家に戻る選択肢も考えた。だが、田舎の没落男爵家には、成人した娘を養う余裕はない。そもそも私は、魔道具を作ることしか能がないのだ。
手紙をもう一度見る。
辺境伯領ヴェルムント。王都から馬車で五日。
遠い。
でも、遠いからこそ、オルディスの手が届きにくい場所でもある。
荷造りは半日で終わった。旅支度の鞄一つと、道具箱一つ。持ち物の少なさに、三年間の空虚さを思い知る。この王都で得たものは、何もなかったのだ。いや――奪われたのだ。
出発の朝、宿の窓から王宮の尖塔が見えた。
朝日を受けて白く輝くその姿は、美しいと思う。初めてあの門をくぐった日の、胸の高鳴りを覚えている。
目を逸らした。
感傷に浸っている暇はない。
◇
辺境伯領ヴェルムントまで、馬車で五日。
王都を離れるにつれて、空気が変わっていった。石畳が土道になり、整然とした街並みが、素朴な農村の風景に溶けていく。街道沿いの木々は王都では見ない種類のものが増え、空の色まで違って見えた。
三日目の夜は、街道沿いの小さな宿に泊まった。隣の部屋の旅商人が、辺境の噂を教えてくれた。
「ヴェルムント? ああ、あそこは最近活気があるらしいぜ。若い領主代理が頑張ってるって話だ」
若い領主代理。手紙の差出人、セルヴァンのことだろうか。
五日目の午後、ようやく到着したヴェルムントの街は、想像していたよりずっと活気があった。
市場には辺境特産の薬草が並び、鍛冶の音がどこかから響いている。子供たちが通りを走り回り、荷馬車が行き交う。人々の顔は日に焼けて逞しく、王都の白粉とは無縁の健やかさがあった。
辺境という言葉から連想していた寂れた風景は、どこにもなかった。
「リーネ殿ですか」
街の入口で待っていたのは、黒髪を短く刈った長身の青年だった。灰青色の目。穏やかだが、芯のある声。背筋がまっすぐで、貴族というより軍人に近い佇まいだった。
「セルヴァン・ヴェルムントです。遠路、感謝する」
差し出された手は、大きくて硬かった。剣胼胝がある。この人は机上の貴族ではない。自分の体を使って何かを守ってきた人の手だ。
「……リーネです。手紙を拝見しました」
握手を交わす。彼の左手の甲に古い火傷の痕があることに気づいた。けれど、聞かなかった。初対面で踏み込む話ではない。傷にはそれぞれの物語がある。
セルヴァンは余計な社交辞令を挟まなかった。天気の話も、旅の労いの言葉も、形式的な歓迎もなし。
「工房に案内する。話はそこで」
短い言葉。でも不快ではなかった。むしろ、宮廷の長い前置きと建前に慣れた耳には、心地よいくらいだった。あの場所では、本題にたどり着くまでに三十分は要した。
案内された工房は、街外れの石造りの建物だった。広い。天井が高い。窓が大きく、自然光がよく入る。王都の工房は地下にあったから、自然光で仕事ができるというだけで贅沢に感じた。
作業台、炉、基本的な素材の棚。最低限だが、質の良い設備が揃っている。
「以前はここで、鍛冶師が刃物を作っていた。魔道具用に改装した。足りないものがあれば言ってほしい」
私は工房の中をゆっくり歩いた。炉の状態を確かめる。煉瓦の目地は新しいが、炉心の構造はしっかりしている。素材棚の中身を一つずつ見る。魔石の原石、金属素材、薬品類。
(……悪くない。むしろ、純度の高い素材がある)
王都の工房よりも、ある意味では恵まれているかもしれない。王都では予算の大半が装飾用の宝石に消えていた。見栄えだけを求められる魔道具。権力者が胸元に飾るための光る石。実用性は二の次だった。
ここは違う。装飾品の素材が一つもない。すべてが実用のための材料だ。
「セルヴァン様。一つ確認させてください」
「どうぞ」
「なぜ、私に依頼を? 宮廷を追われた魔道具師ですよ。経歴に傷がある人間に仕事を頼むのは、普通はリスクです」
彼は一瞬だけ間を置いた。
その間が、考えなしに答える人ではないことを教えてくれた。
それから、棚の奥にある一つの魔道具を手に取った。
「三年前、王都の市場に試作品として出回った防護の魔石がある。公式には王太子殿下の開発とされている」
私の呼吸が止まった。
「あれを辺境の騎士団で試験運用した。半年間。結果は極めて優秀だった。だが、術式の組み方に特徴がある。宮廷魔道具工房の他の製品とは明らかに違う設計思想だ」
彼は魔石を作業台に静かに置いた。
「効率を追求した構造。無駄のない魔力回路。装飾性を一切排除した、純粋に機能のための設計。これは、飾りに興味がある人間の仕事ではない」
心臓が速くなる。
「調べた。宮廷の関係者に当たり、設計者は王太子ではなく、当時の工房所属の技術者だと分かった。――あなただ、リーネ殿」
見ていた人がいた。
三年間、誰にも見えないと思っていた私の仕事を、正しく見ていた人が。
「私が欲しいのは、飾りではなく人を守れる魔道具だ。辺境には、今すぐそれが必要だ。作れますか」
返事は、一秒もかからなかった。
「作れます」
声が震えなかったことが、少しだけ誇らしかった。
セルヴァンは小さく頷いた。それだけだった。でも、その頷きの中に確かな重みがあった。約束の重み。この人は軽々しく頷かない人だと、直感で分かった。
工房の窓から差し込む西日が、作業台の上の魔石を照らしていた。
三年間、誰にも見えなかった私の仕事が、ここで初めて光を受けている。
指先が熱い。
作りたいものが、もう頭の中に浮かんでいた。
けれど同時に、一つの疑問が胸に残る。――宮廷は、私がここにいることを、いつ知るだろうか。




