第三十八話 守る距離
間近で見ると、
彼女の体は、ひどく汚れていた。
泥。
血。
魔物の体液。
それに、あの腐った臭い。
戦いの激しさを、そのまま物語っていた。
魔物の体液や瘴気が、
まだ彼女の肌や髪にまとわりついている。
(……落とした方がいい、か......?)
目の前に居るのは、裸の女性。
しかも気を失っている。
本来なら起きるまで待つなり、外套を掛けるなりするべきだろうが......。
彼女に纏わりつく瘴気、これが問題だった。
瘴気は触れているだけで様々なバッドステータスを引き起こす、呪いのようなもの。
通常、放置していいものでは無いのだ。
身を綺麗にする事で、ある程度の瘴気は取り除ける。
また、彼女の身体に傷が付いているかも気になる。
あれだけの魔物たちとの戦闘の後だ。
魔物の体液に隠れて大怪我を負っていてもおかしくは無い。
逡巡するが、起きたら誠心誠意頭を下げようと、小さく息を整える。
手をかざすと、
空気中に、薄く水が集まった。
澄んだ水が、静かに浮かび上がる。
それを、そっと流す。
彼女の腕を伝い、
肩を伝い、
泥や血を、静かに洗い流していく。
触れるのは、最小限。
水の流れで、汚れと瘴気を落とすように。
黒ずんだものが、地面に落ちていく。
あの嫌な臭いも、
少しずつ、薄れていった。
髪にも、軽く水を通す。
絡まっていた汚れが、ほどけるように落ちていく。
やがて、
彼女の呼吸が、少しだけ落ち着いたように見えた。
(……これで、少しはましになるはずだ)
見る限り、大きな傷も無さそうだ。
水を消す。
外套を掛け、ずれないように、静かに整える。
それから。
少し離れた場所に、焚き火を起こした。
火の光が、揺れる。
温もりが、ゆっくりと広がっていく。
彼女のそばに座り込む。
ただ、見守ることしかできない。
それでも、
目を離すことはできなかった。
月は、まだ高い。
森は、静まり返っている。
あれほどの戦いがあったとは思えないほど、
静かだった。
(……あなたは、一体……)
答えは、出ない。
だが。
もう、分かっていた。
自分は、
この人から、目を離せない。
*
パチ、と音がして、
小さな炎が揺れた。
火は、必要だった。
獣を遠ざけるため。
夜の冷えから身を守るため。
そして何より――
自分が、ここにいる理由を、
はっきりさせるために。
改めて彼女を見る。
外套の下で、
彼女の胸がゆっくりと上下している。
ただ、それだけの光景なのに、
妙に安心した。
(……生きている)
あれほどの力を放った直後だ。
無事でいる保証なんて、
どこにもなかった。
思い出す。
泣きながら、
叫びながら、
森ごと押し潰していた、あの姿を。
(……あれが、同じ人間か)
信じられなかった。
あれは、
戦いですらなかった。
ただ、
溢れていた。
怒りが。
恐怖が。
悲しみが。
全部、
形になって、
外へ出てきていただけだった。
焚き火の火が、
ぱち、と音を立てる。
その光に照らされて、
彼女の手が、わずかに見えた。
(……?)
一瞬だけ。
ほんの、一瞬だけ。
彼女の手の甲に、
何かが浮かび上がった気がした。
光。
それも、
ただの光じゃない。
細い線が、
絡み合うような――
(……魔法陣?)
瞬きをする。
だが、もう何もない。
ただの白い手があるだけだ。
(……見間違い、か)
こんな場所で、
こんな状況だ。
気のせいの一つや二つ、
あってもおかしくない。
それでも。
なぜか、
胸の奥に引っかかったままだった。
焚き火の向こうで、
彼女は眠っている。
戦っていた時の面影は、
どこにもない。
ただ、
静かに息をしているだけの、
一人の人間だった。
(……守れなかったな)
小さく、息を吐く。
助けに入ることもできなかった。
止めることもできなかった。
ただ、見ていることしか。
(……それでも)
視線を落とす。
自分の手を見る。
剣を握ってきた手。
守るために、
戦ってきたはずの手。
(次は……)
火が、揺れる。
森は静かだ。
もう、
魔物の気配はない。
それでも。
彼は、そこを離れなかった。
彼女が、
目を覚ますまで。




