第三十二話 月下の目撃者
リヴァルは、空を見ていた。
夜の森の上。
月明かりに照らされた木々の隙間を、白い影が横切っていく。
あの人だ。
仮面をつけたまま、まっすぐ森の外へ向かって飛んでいく姿を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
理由は分からない。
だが、目が離せなかった。
次の瞬間には、もう体が動いていた。
枝から枝へ。
地面を蹴り、幹を踏み、風を裂くように森の中を進む。
追いつけるとは思っていない。
空を飛ぶ相手だ。
だが、それでも。
(……放っておけない)
ただ、その一心だった。
*
森の外れに近づいた頃。
地面に、不自然なものが見えた。
近づいて、足を止める。
置かれた靴に、丁寧に畳まれた服。
さらに、その上には――
小さい三角形の、布。
「……は?」
一瞬、思考が止まった。
目を逸らそうとして、逸らせない。
(な、何をしているんだあの人は……)
仮面の人物が、なぜこんな場所で。
なぜ、こんなふうに。
理解が追いつかない。
だが、すぐに。
地面が揺れた。
遠くから、何かがぶつかるような重たい音が響く。
魔物の唸り声も、混ざっていた。
リヴァルは顔を上げる。
気配が、する。
濃い。
嫌な気配だ。
そしてその奥に、確かに、彼女の気配がある。
迷う理由はなかった。
*
木の上を移動しながら、徐々に音が大きくなっていく。
地面を叩く音。
何かが砕ける音。
そして。
低く濁った、魔物の唸り声。
枝の上で足を止める。
視界が開けた。
「……っ」
息を呑んだ。
そこには、魔物の群れがいた。
ゴブリン。
フォレストウルフ。
オーク。
数えきれないほどの影が、地面を埋め尽くしている。
その中心に――
彼女がいた。
月明かりに照らされて、白く浮かび上がる身体。
仮面は、ない。
何も身につけていない姿で、
ただ、そこに立っている。
(……なっ……)
一瞬、目を逸らしかけた。
だが。
次の瞬間には、それどころではなくなった。
魔物たちが、じりじりと距離を詰めている。
囲むように。
逃がさないように。
その視線が、異様だった。
獲物を見る目ではない。
もっと粘ついた。
濁った、欲に塗れた目。
彼女が、一歩、後ずさる。
(……まずい)
助けに行かないと。
そう思った。
だが、足が動かない。
数が多すぎる。
あそこに飛び込めば、
自分は、あっという間に飲み込まれる。
分かってしまう。
助けに入ったところで、
何も変えられない。
その時だった。
「……はぃ?」
彼女の声が、聞こえた。
困惑したような。
理解できない、と言いたげな声。
視線が、自分の身体へと落ちる。
そして。
止まった。
(……違う)
今まで見てきた、あの人じゃない。
魔物を殴り飛ばしていた時とも。
子どもたちと笑っていた時とも。
全然、違う。
オーク種の一体が、ゆっくりと近づく。
よだれを垂らしながら。
息を荒くしながら。
その視線は、
顔ではなく、身体をなぞるように動いていた。
彼女が、さらに一歩、下がる。
「……え……?」
かすれた声。
明らかに、怯えていた。
(……やめろ)
思わず、拳を握る。
飛び出したい。
止めたい。
だが。
身体が、動かない。
ゴブリンが、後ろから近づく。
フォレストウルフが、横から回り込む。
完全に、囲まれている。
「い、嫌……来ないでっ……!」
その声が、森に響いた。
リヴァルの胸が、強く締めつけられる。
あの人が。
あんな声を出すなんて、思っていなかった。
次の瞬間。
魔物たちが、一斉に動いた。
「っ……!」
リヴァルの足が、わずかに前に出る。
だが、止まる。
分かっている。
今、飛び込んでも。
自分は何もできない。
ただ、足手まといになるだけだ。
(くそっ……)
歯を食いしばる。
目を逸らせない。
逸らしたら、何かが壊れる気がした。
次の瞬間。
彼女の悲鳴が、夜を裂いた。
「っきゃぁぁぁぁあああああっ!!」
その声に、心臓が跳ねた。
そして。
ドガッ!!
目の前のオークが、吹き飛んだ。
空気が、一気に変わる。
彼女の顔が、歪む。
涙で濡れた目が、魔物たちを睨みつけた。
その瞬間。
空気が、重くなった気がした。
(……何が……)
分からない。
ただ、確実に。
何かが、変わった。
その中心で。
彼女は、泣きながら立っていた。




