第三十話 感情の臨界点
一本の太い枝の上で、蝙蝠が羽を震わせた。
女を取り囲む、空気が変わった。
それを感じ取った蝙蝠は、姿を変えた。
細身の男。
長いコート。
赤い瞳。
ヴァルディスは、森の中心を見下ろす。
折れた木々。
抉れた地面。
潰れた魔物の死骸。
その真ん中に立つ、女。
「……っ、くだらん」
低く、吐き捨てる。
ーー
『消えてくださらない......?一人にしていただきたいの......。』
『生憎ですが、貴方に構っている暇はないの。早く何処かへお行きになって』
『消えなさいっ!私がっ、私の理性が無くなる前に......。お願い......、誰にも、見られたくないの......』
『......ぁぁぁあぁあぁああああああああああああっ!!!!!!!!!!』
『殺しますわっ!!!』
ーー
あの一瞬。
確かに、自分は怯えた。
たった一人の人間に。
それが、頭から離れない。
「ありえない、そんなことは」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「たかが人間の女ごときに……私が」
剣を握る手に力が入る。
傷がなかったことも。
あの空気も。
すべて、何かの間違いだ。
「......全戦力を使ってでも、殺す」
次の瞬間。
森の奥。
地面の下。
木々の影の中。
潜んでいた魔物たちが、一斉に動き出した。
大型の獣。
歪んだ巨体。
異様に膨れた腕を持つ影。
残っていた戦力。
すべて。
呼び寄せるように、前へ進ませる。
「行け」
一言。
その言葉を受け、魔物たちは一斉に森の中心へと向かい始めた。
*
森の中心に佇む、人間の女。
女の足元から、少しだけ離れた場所まで、
地面が、わずかに沈んでいる。
境界線。
葉が、小石が、魔物の死骸が。
何かに押しつぶされたように、地面に張り付いている。
静かな、静かな、死の円。
そこへ。
最初の一体が、足を踏み入れた。
――ズブッ
足が、沈んだ。
魔物が一瞬、バランスを崩す。
それでも、命令に従い、前へ。
もう一歩。
――ミシッ
地面が、鳴る。
ズンッ
魔物の足が、膝まで沈む。
抜け出そうと、体を捩る。
だが。
ドンッ
地面が、さらに一段、沈んだ。
骨が軋む音。
肉が押し潰れる音。
魔物の体が、ぐしゃりと潰れた。
その音を合図にしたかのように。
境界線の外側にいた魔物たちが、
次々と死の円へと。
一体。
また一体と。
足を踏み入れる。
そして――
ズンッ
また、沈む。
女の足元。
そこから、
じわじわと。
重さが、広がっていった。
*
男は目の前の光景を見て、戦慄していた。
魔物が、沈んでいく。
踏み込んだ瞬間、
膝まで。
腰まで。
そして、そのまま。
潰れる。
何かに押しつけられるように、
骨ごと、地面に埋め込まれていく。
「……なんだ、これは」
思わず、声が漏れた。
女から漏れ出る魔力から、魔法なのは分かる。
火も、風も、闇も。
強力なものは、何度も見てきた。
だが。
こんなものは、知らない。
詠唱もない。
構えもない。
放った形跡すらない。
ただ、立っているだけで。
周囲が、沈んでいく。
「……目には見えない、力……?」
理解が、追いつかない。
こんな規模の魔法を、
一人で、
何の動作もなく。
ありえない。
女の周囲の空気が、
ゆらゆらと歪んでいる。
地面が、呼吸するように沈む。
「なにが……起きている……」
その言葉は、
自分に向けたものだった。
赤い瞳が、わずかに揺れる。
そして、初めて。
理解ではなく、
本能が、告げた。
――まずい。
喉が、わずかに鳴る。
「……なんなんだ、貴様は……」
思わず、一歩後ずさる。
だが、すぐに。
その感覚を、怒りで押し殺す。
「……ふざけるな」
低く、吐き捨てる。
ただの人間。
そうだ。
そうでなければ、おかしい。
「数で押し潰せ。撤退は許さん」
森の奥から、
影が動く。
残っていた魔物が、
さらに集まってくる。
理性などない。
ただ命令だけに従って。
境界線へ、
なだれ込むように突っ込んでいく。
潰れても。
沈んでも。
後ろから、また次が押し寄せる。
まるで、
理性を失った獣の群れのように。
そして。
その中心で。
女は、
ただ立っていた。
「あいつを、殺せっ!」




