第二十八話 溢れるもの
森の一角。
折れた木々と、抉れた地面。
潰れた魔物の体が、黒く広がっていた。
その中心に、女が立っている。
――いや。
立っている、というより。
ただ、そこにいるだけだった。
肩が落ちている。
顔は下を向き、腕もだらりと力が抜けていた。
さっきまで空を飛び、巨大な影を叩き落とした存在とは思えないほど、
その姿は、ひどく静かだった。
*
少し離れた木の上。
一本の太い枝の上に、黒い影が止まっている。
小さな蝙蝠。
その蝙蝠の赤い瞳は、ジッと何かを見つめていた。
警戒するように。
あるいは、その何かを見定めるように。
*
女は、未だ下を向いたまま。
指先が、わずかに震えている。
「……最悪」
ぽつり、と。
独り言が零れた。
誰に聞かせるでもない声。
小さくて、力のない声。
「……最悪、ですわ」
もう一度。
同じ言葉を繰り返す。
「なんで……こんな……」
肩が、少し揺れた。
地面に落ちた影が、ゆらりと歪む。
「なんで……こんな目に……」
下を向いたまま、手で顔を覆う。
唇が、かすかに震えている。
*
その時だった。
まだ生き残っていた一体が、ゆっくりと動き出す。
豚の頭を持ち、人間のような体を持つ魔物。
オーク。
よろよろと。
血を流しながら。
それでも、本能のままに。
極上の獲物の、匂いを辿り。
重い音を鳴らしながら。
ゆっくり、女へと近づく。
――その手が、伸びる。
*
その瞬間。
女が弾かれたように顔上げた。
「……いやです」
小さく。
本当に、小さく。
その言葉が落ちた。
次の瞬間。
ふわり、と浮いていたはずの葉が、
地面に押しつけられるように、ぺたりと張り付いた。
小石が、枝が。
地面へと、飲み込まれていく。
髪の隙間から覗く、女の瞳に宿るものは。
悲しみ。
羞恥。
恐怖。
怯え。
そして、怒り。
「……こないで、ください」
震える声で、呟く。
だが。
オークは止まらない。
この後訪れる快楽を妄想しながら、
女の身体に手を伸ばしーー
――ミシッ
地面が、軋んだ。
豚頭の足が、沈む。
一歩。
踏み出そうとして。
膝まで、めり込んだ。
何が起きたのか分からず、もがく。
その周囲の地面も、ゆっくりと沈んでいく。
まるで、見えない何かに押さえつけられているように。
*
木の上の蝙蝠が、わずかに羽を揺らした。
赤い瞳が、細くなる。
女の周囲。
空気が、歪んでいる。
目には見えない。
だが確かに、
そこだけが、重く沈んでいた。
*
女は自分の身体を守るかのように、
自分の肩を抱くように腕を回した。
「……いや......いやっ......いやぁっ......」
首を小さく振りながら、
ぽつり、と。
涙が一粒、地面に落ちた。
その瞬間。
ドンッ
音もなく、
周囲の地面が一段、沈んだ。
オークの体が、ぐしゃりと潰れる。
骨の軋む音。
肉が押し潰れる鈍い音。
だが女の視点は、そこにはない。
どこを見ているかも分からない瞳で、また呟く。
「……さわらないで、ください……」
声が、震えている。
呼吸が、乱れている。
そして。
女の足元の空間が、ゆらゆらと揺らぎ始めた。
陽炎のような。
透明な何かが、ふわりと立ち上る。
風はない。
にもかかわらず、
髪がわずかに揺れる。
木の枝が、軋む。
遠くの石が、転がる。
地面に落ちていた魔物の死体が、
じわりと沈んでいく。
目に見えない何かが、
静かに、溢れ出していた。




