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第二十八話 溢れるもの

 森の一角。


 折れた木々と、抉れた地面。

 潰れた魔物の体が、黒く広がっていた。


 その中心に、女が立っている。


 ――いや。


 立っている、というより。

 ただ、そこにいるだけだった。


 肩が落ちている。

 顔は下を向き、腕もだらりと力が抜けていた。


 さっきまで空を飛び、巨大な影を叩き落とした存在とは思えないほど、

 その姿は、ひどく静かだった。



 少し離れた木の上。

 一本の太い枝の上に、黒い影が止まっている。


 小さな蝙蝠。


 その蝙蝠の赤い瞳は、ジッと何かを見つめていた。


 警戒するように。

 あるいは、その何かを見定めるように。



 女は、未だ下を向いたまま。

 指先が、わずかに震えている。



「……最悪」



 ぽつり、と。

 独り言が零れた。


 誰に聞かせるでもない声。

 小さくて、力のない声。



「……最悪、ですわ」



 もう一度。

 同じ言葉を繰り返す。



「なんで……こんな……」



 肩が、少し揺れた。

 地面に落ちた影が、ゆらりと歪む。



「なんで……こんな目に……」



 下を向いたまま、手で顔を覆う。

 唇が、かすかに震えている。





 その時だった。


 まだ生き残っていた一体が、ゆっくりと動き出す。


 豚の頭を持ち、人間のような体を持つ魔物。

 オーク。


 よろよろと。

 血を流しながら。


 それでも、本能のままに。

 極上の獲物の、匂いを辿り。


 重い音を鳴らしながら。

 ゆっくり、女へと近づく。


 ――その手が、伸びる。





 その瞬間。

 女が弾かれたように顔上げた。



「……いやです」



 小さく。

 本当に、小さく。


 その言葉が落ちた。

 次の瞬間。


 ふわり、と浮いていたはずの葉が、

 地面に押しつけられるように、ぺたりと張り付いた。


 小石が、枝が。

 地面へと、飲み込まれていく。

 


 髪の隙間から覗く、女の瞳に宿るものは。


 悲しみ。

 羞恥。

 恐怖。

 怯え。


 そして、怒り。



「……こないで、ください」



 震える声で、呟く。


 だが。

 オークは止まらない。


 この後訪れる快楽を妄想しながら、

 女の身体に手を伸ばしーー


 ――ミシッ


 地面が、軋んだ。


 豚頭の足が、沈む。


 一歩。

 踏み出そうとして。


 膝まで、めり込んだ。


 何が起きたのか分からず、もがく。

 その周囲の地面も、ゆっくりと沈んでいく。


 まるで、見えない何かに押さえつけられているように。





 木の上の蝙蝠が、わずかに羽を揺らした。

 赤い瞳が、細くなる。


 女の周囲。

 空気が、歪んでいる。


 目には見えない。


 だが確かに、

 そこだけが、重く沈んでいた。





 女は自分の身体を守るかのように、

 自分の肩を抱くように腕を回した。



「……いや......いやっ......いやぁっ......」



 首を小さく振りながら、

 ぽつり、と。


 涙が一粒、地面に落ちた。

 その瞬間。


 ドンッ


 音もなく、

 周囲の地面が一段、沈んだ。


 オークの体が、ぐしゃりと潰れる。


 骨の軋む音。

 肉が押し潰れる鈍い音。


 だが女の視点は、そこにはない。

 どこを見ているかも分からない瞳で、また呟く。

 


「……さわらないで、ください……」



 声が、震えている。

 呼吸が、乱れている。


 そして。


 女の足元の空間が、ゆらゆらと揺らぎ始めた。


 陽炎のような。

 透明な何かが、ふわりと立ち上る。


 風はない。

 にもかかわらず、

 髪がわずかに揺れる。


 木の枝が、軋む。

 遠くの石が、転がる。


 地面に落ちていた魔物の死体が、

 じわりと沈んでいく。


 目に見えない何かが、

 静かに、溢れ出していた。

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