【第41話】紡木陽向:幼馴染を終わらせる宣誓
蒸し暑い、八月の終わりの午後。
アスファルトから立ち昇る陽炎が、私の足を重く、熱く包み込んでいる。けれど、走ることを止めることはできなかった。
スポッチャで限界まで動かした足は、棒のように強張っているはずなのに。急上昇した体温が、皮膚の内側で制御不能な熱暴走を起こしている。
キスなんて、するつもりはなかった。長い時間、唇を重ね続けるなんて。
けれど、内側に澱のように溜め込んできた鬱屈が、駿くんと二人で過ごしたあの開放感によって、一気に沸点を超えてしまった。
何かが起こる予感だけは、ずっとあった。
突然誘われることなんて滅多にないし、ましてや『あの』駿くんが「デート」と言い放ったのだ。
家で二人きりで過ごすことは、日常という名の空気と同じだった。けれど、外で、二人きりで動き回るのは数年ぶりのことだった。
服を褒めてくれて、不慣れなレストランに連れて行ってくれて。
取った行動こそ昔とは違うけれど、それは私を無条件に助けてくれた『ヒーロー』の姿そのものだった。
私の中に蠢く「欲」が、もっと彼を繋ぎ止めたいと、私だけを見てほしいと喉の奥で唸りを上げる。
駿くんの瞳が私一人を捉えた瞬間、抗いようもなく吸い寄せられ、気がつけば唇を重ねていた。
蓋をしていた欲が、溢れ出してしまった。
もう、こうなったら『幼馴染』としての私は終わりだ。
この恋という名の情欲で、『恋人』という居場所を力ずくで掴み取る。
もしそれが叶わないのなら、私は一人で、奈落の底を掘り続けよう。
◆
数日が経ち、バーガーノートでの短期バイトの最終日を迎えた。
店長さんは「いつでも戻ってきてね」と名残惜しそうに笑ってくれる。
業務を終え、更衣室で着替えを済ませると、同じシフトだった大野くんに声をかけられた。
夜のシフトが重なるときは、危ないからと途中まで送ってくれるのが彼の習慣だった。
「今までお疲れ様。店長、辞めないでってずっと言ってたよ」
「ふふ。これからは璃奈とお客様として来るから」
一つのことをやり遂げた達成感で、私の胸は微かな熱を帯びていた。
「最近すごい元気だったけど、駿と進展したの?」
「そう、なのかな。少なくとも私の中では、一歩進めたと思う」
「みたいだな。前より顔がすっきりしてる」
璃奈といい大野くんといい、そんなに私は顔に出やすいのだろうか。
「私、そんなに分かりやすい?」
「俺は璃奈ほど聡くないよ。あいつが泣き喚いてたから、改めて見て気づいただけだ」
「あ、あはは……その節はご迷惑をおかけしました」
璃奈が泣き喚くほど、彼女に気苦労をさせていた。その事実に心が痛む。
そして、あの日の駿くんの急な変化。その裏にあったかもしれない、友だち二人の「お節介」に思い至る。
「もしかして、二人が何かしてくれた?」
「いや、特に何も」
大野くんの目が、少しだけ泳いだ。
こういう真っ直ぐなところが、以前は好きだった。
けれど、今の私が駿くんに抱く感情を思えば、璃奈が言っていた「好きではあっても恋じゃない」という言葉が、本当だったのだと身に染みて分かる。
それに気づけただけでも、彼を好きだった五年間は無駄じゃなかったのだと、今は思える。
だから、あらゆる想いを乗せて、私は言った。
「ありがとう、大野くん。璃奈にもお礼言っておくね」
◆
家に帰り、シャワーを浴びて部屋に戻ると、スマートフォンが震えた。
<駿:話せる時間、ある?>
あの日以来、駿くんとは会っていない。
顔を合わせれば、恥ずかしさで全身が沸騰してしまうだろうから。
けれど、もうすぐ新学期だ。いつまでも逃げ続けるわけにはいかない。
私は既読をつけ、返信を打つ。
<陽向:いつがいい?>
<駿:早い方がいいかな>
……そうだ。ついでだから、駿くんのご両親にも会いたいな。
もしかしたら、もう二度と、会えなくなるかもしれないから。
<陽向:じゃあ、今から駿くんの部屋に行くね。少し時間ちょうだい>
以前ならパジャマのまま、濡れた髪で行っていた。けれど、今はもう違う。
髪を整え、服も着替える。余所行きとまではいかないけれど、最低限の身だしなみ。
ママに一言残し、駿くんの家に向かう。
徒歩十秒。あまりに近いはずの距離が、今は途方もなく遠い。
チャイムを鳴らし、出迎えてくれた駿ママに、いきなり抱きしめられた。
「久しぶりで嬉しい」と、その目尻には涙が浮かんでいる。
駿くんのご両親は、私にとってのもう一組の両親だ。十六年間、ずっと可愛がってもらってきた。
私の勝手で、どれほどの心配や迷惑をかけてしまっただろう。けれど、それももう終わりにする。
「今まで、ごめんね。私も、一人で大丈夫になったよ」
駿ママの腕に、ぎゅっと力がこもる。その温かさに、私もつられて泣きそうになってしまった。
◆
駿くんの部屋のドアをノックし、中へ入る。
私の指定席だったビーズクッションは、主を失い温もりが消えていた。
座り込み、再びそこに自分の重みを預ける。この存在も、今日で持って帰った方がいいのかな。
「おまたせ」
「うん」
駿くんは真っ直ぐに私を見つめていた。
その顔つきは今までにないほど、私の心を抉るような真剣味を帯びている。
「俺、心の中が全部整理できた。俺の中に答えはもうあって、できれば今すぐ答えを出したい」
「うん」
「でも……ごめん。陽向がよかったら、文化祭が終わるまで待ってほしい」
「理由は分かるけど、一応聞いていい?」
「俺個人のワガママなのかもしれない。でも、『俺たちの高校生活の思い出』として写真部があったんだっていう証を残したいんだ」
写真部は本来、駿くん以外にはただの「居場所」でしかなかった。
放課後に集まる場所が欲しかった私たちが、駿くんしかいなかった写真部に押しかけた。それが始まり。
廃部になれば居場所がなくなって面倒だから、名前を貸しただけ。
私はただ、それが駿くんの助けになるなら、それで良かった。大野くんも璃奈も、きっと同じ。写真活動がやりたかったわけじゃない。
そこに沙耶ちゃんと陸くんが加わって、写真部という歯車が動き出し、貸した名前に責任が伴った。
それに、「居場所に思い出を残したい」という願いは、私だって同じだ。
「今、人間関係を壊したくないんだ。だから、もう少しの間、『部員』として力を貸してほしい。これは、陽向に言う前に、悠斗や坂口にも言った」
「二人の返事は?」
「悠斗は構わないって。坂口は陸上部に復帰したいから、文化祭の後に退部させてくれって言われた」
「璃奈が、そんなことを言ってたんだ」
璃奈め。私には「頼れ」だの「親友」だの言っておいて、肝心なことを教えてくれていないなんて。今度、じっくり問い詰めなきゃ。
「陽向は、どうしたい?」
返事はもう、決まっていた。
大きく息を吸い、駿くんの瞳に、私だけを映し出す。
「文化祭までならいいよ。『部員』として全力で頑張る。それに駿くんが出した答えも、いくらでも待つ。……でもね」
乾いた唇を軽く湿らせ、言葉を繋ぐ。
「答えがどんな形でも、私はそこで退部する。私は駿くんのことを、他の誰よりも、愛してる」
あらゆる想いを、その一言に詰め込んで。
「私は、駿くんが他の女の子と仲良くしてるところを、もう見たくない。それが私も大好きな沙耶ちゃんであっても」
駿くんに、届いてほしくて。
「私は駿くんを独り占めしたいの。今までと同じ、ううん、それ以上に。重いと思われてもいい。もし断られるなら――」
一度、言葉を区切って、すべてを吐き出す。
「私は、その時から『赤の他人』になる。もう駿くんには一切近づかない」
言いたいことは、全部言えた。……あとは、これはついで。
「私と『恋人』になれば、またご飯作ってあげる。駿ママにも顔出さないと、泣かれちゃうしね」
◆
駿くんは、ただ「分かった」とだけ返事をくれた。
ビーズクッションは、部屋に残した。
それが今の私にできる、精一杯のマーキング。
夏休みがもうすぐ終わり、新学期が始まる。
クラスの子たちは、驚くだろうか。
駿くんを、もう二度と離そうとしない、私のことを。
次回から終章『歪な砂時計の落ちる先』開幕です。最後までお付き合いください。




